一枚の繪

最早それを一過的な「珍事件」として扱っても良いのではないかと個人的には思っている。海外メディアの多くは、その「説」に対して随分と踊って(踊らされて)いたが、結果的に幸いと言うべきなのか、それでもやはり不幸と言うべきなのか、国内メディアはその「美術界の衝撃」を取り扱う事を一切しなかった。そして「美術界の衝撃」の始まりから間も無く、パリのオルセー美術館は、たったの一言で、その「説」をゴミ箱行きにした。"Fantaisiste(空想的)"。そして「美術界の衝撃」は、一瞬にして退屈で凡庸な「美術界の笑劇」にほぼ確定した。



動画で熱弁を振るっておられる "Jean-Jacques Fernier" 氏をググってみると、これまでに随分と "Courbet" で「商売」をされている人物であるという事が判る。Amazon fr で検索すると、"Courbet" に関する著書複数ヒットし、クールベの「カタログ・レゾネ」も物されている「権威」の方である。恐らく"Jean-Jacques Fernier" 氏の財産の多くは、"Courbet" によってもたらされたものであろう。


動画の中の "Jean-Jacques Fernier" 氏は、オルセー所蔵のトルソ部分と、発見された頭部の間を、「線画」で埋めて「繋がる」事を主張している。しかし「権威」に対して僭越ではあるとは思うものの、それでも敢えて "Jean-Jacques Fernier" 氏へ提案させて頂くならば、御自身自らが(←ここが極めて重要) Photoshop 等の画像処理ソフトとペンタブを使用し、「欠落」部分を「線画」ではなく「色面」で埋める事で、これらを繋げてみれば良いのではないだろうか。そうすれば、これらを繋げるには相当な無理筋が必要であるという事が判明するだろう。


それ以前に、この二つの絵が「木枠にキャンバス」であるならば、それら両方の額を外してみれば、その折り曲げ部分が繋がるかどうか(そして二つの絵を包摂する「大きな絵」の存在を証明出来るかどうか)が一目瞭然だと思うのは、果たして浅薄な見方なのだろうか。正にこういう時にこそ、プレゼンテーションの方法論的には、自ら率先して「顔」の絵の額を外して、ムービーカメラの前に現れるのが得策というものであろう。それは、マジシャンの世界に於いては、「種も仕掛けも無い」とする事で、「いらぬ詮索」を予め回避する、基本中の基本のテクニックだったりするのだ。


オルセーによる一蹴にも拘わらず、それでもこの「説」が、何かのどんでん返しで、オルセーの鼻を明かす形の「正しい」ものになってしまったとしても、果たして "Jean-Jacques Fernier" 氏は、あの「世界の起源」にこの頭部が付く事を、「良い事」と思っているのだろうか。即ち、あのトルソにこの様な頭部が付く事で、「世界の起源」がより「傑作」になるという「美学」の持ち主なのであろうか。確かにこれらを繋げる事で、「世界の起源」に「新たな意味」は付与されるだろう。その「新たな意味」が、クールベに対する「リスペクト」の方向により向かうのか、それともクールベに対する「ディスリスペクト」の方向に反転するのかは兎も角。


"Paris Match" 誌配信のこの動画の説明文には、 "Un passionné d'art(芸術への情熱)" と書かれている。いずれにしても、これが "Jean-Jacques Fernier" 氏的な「芸術への情熱」の形なのだろう。 しかし情熱は、時に思い込みを伴った迷惑なものにもなる。「芸術への情熱」という表現には、極めて重要な部分が略されている。それは、その「情熱」が「芸術」の「何」に対するものかという事である。


このケースは、まざまざと「世界」の「美術」の「別の一面」を垣間見させてくれる。当然の事ながら「美術」もまた「営業」であり、「商売」であり、また様々な欲望を持つ「人間」の行う事であるから、その結果として「世界」の「美術」にも様々なものがある。少なくともこれから "Jean-Jacques Fernier" 氏の「仕事(特にクールベのもの)」に対しては、一定の距離を置く事が望ましいのではないかと個人的には思ったりしたのであった。

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2月6日に、東京藝術大学美術学部、中央棟第1講義室で行われた「文化庁長官と語る会/[白熱教室]第2弾/文化芸術は社会に役に立つか?」(以下「語る会」)を巡っての反応に興味を持った。その反応(の一部)はこちらの togetter で垣間見る事が出来る。


http://togetter.com/li/452379


事前に告知されたタイスケによれば、この「語る会」は、15時ジャストに「挨拶 宮田亮平 東京藝術大学学長」があり、15時10分から「近藤誠文化庁長官 対話形式で講演」が始まり、17時に「終了 懇親会会場へ移動」とある。得てしてこうしたものは、事前のタイスケ通りにはならず、寧ろ「遅れ」を伴って進行するものである。「◯◯時◯◯分から開始する」とされているものが、その指定時刻以前に始まったというケースを、幸か不幸か今までに見た記憶が無い。従って、ここではタイスケ通りに進行したと仮定するのだが、その仮定に基づけば、「近藤誠文化庁長官 対話形式で講演」の「開始以前」、或いは「開始直後」から、既に「ネガティブ」な(に見える)ツイートが上がっていたりする。


この会場に、実際に行っている者は、思いの外少なそうだ。Ust やニコ動等の「中継」は無い。tsudaりすらも無い。「資料」が全く無い状態で、その報告者が持った「印象」を、唯一の情報源にしたレスポンスが続いて行く。「語る会」の2日後になって、1枚(のみ)の画像twitter にアップされる。会場のスクリーンに映し出された「パワポ」で作成されたプレゼンテーション資料の中の1枚らしい。冒頭に「4.」とあるので、少なくとも「1.」「2.」「3.」の存在が容易に想像され得る。文字起こしをする。


4.一般の人が芸術を体験・鑑賞することで何が得られるか?

 (1)音,色彩,形,香り,味などが与える心地良さ
 (2)メッセージに感動
   ・苦難を乗り越え,目標を達成する喜び
   ・愛が成就した喜び
   ・家族愛(親への孝)の素晴らしさ
   ・友情の素晴らしさ
   ・正義が最後には実現することの素晴らしさ
   ・家系,組織,国に尽くすこと(忠)の素晴らしさ
   ・恩,義理に報いることの素晴らしさ
   ・それらが叶わなくても,一途に努力し続けることの素晴らしさ
   ・教訓


この画像アップから先、瞬く間に「近藤誠一・文化庁長官」は「炎上」の対象になる。「炎上」の理由の多くは、「迫り来る軍靴の足音」のバリエーションである。


「炎上」参考:http://togetter.com/li/452637


やがてその画像のアップから1日経過し、1つのツイートが「これを読んで吐いた」人に向けての返信の形でされる。


東京芸大の「文化庁長官と語る」が物議を醸していますが「このスライドの前の頁で日本の古典劇を例にとってストーリーの要素抽出をしており、それを受けてこれらが挙げられてます」と当日聴講した芸大生から連絡が入りました。為念 pic.twitter.com/Trt790it @makotoaida


https://twitter.com/product1954/status/300148389381828608


そして、主にこちらこちらの方々によって、当日の「文脈」の一端がようやく明らかにされる。自作に向けられた「クレーム」に対して、作品の「文脈」を見て欲しい旨を述べていた人は、そのスライドの「文脈」を知って、「訂正」と「お詫び」の【拡散希望】をした。斯くして「印象」の時代は、この件に関する限り、ひとまずここで幕を閉じたのである。

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「世界の起源」と「パワポ書類」。2枚の静止画を巡る、2つの「文脈」問題。1つはこれから「文脈」を固定化しようとする動きであり、もう1つは「印象」を元に自らが良く知る既存の「文脈」に現実の側を適合させようとする動きとも言える。そしてそのどちらもが、恐らく何らかの形で「文脈」という「生成」を蔑ろにしているのである。