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アート・オブ・ディセプション

セメダイン(株)が9月29日に発売した新商品、一液湿気反応形液状弾性粘着剤「セメダイン BBX 」は、一時「欠品のお詫び」が出る程の大ヒット商品となった。プレスリリースから引く。


1.コンセプト
 当品は「液体の両面テープ」ともいえる「貼ってはがせる弾性粘着剤」を目標に開発されました。何にでもピタッとつき、はがしたい時にはがせる、テープとも接着剤とも違う新感覚の不思議な液状の弾性粘着剤です。また、従来接着が難しいといわれているシリコーンゴム、ポリエチレン、ポリプロピレンなどの難接着素材もつくうえ、従来のテープなどに使用されている粘着剤と比べて高い耐熱・耐水・再剥離性があります。取りたいときはゆっくりはがすだけ、「つけたい」と「はがしたい」をついに両立させた、当社初の弾性粘着剤です。


http://www.atpress.ne.jp/view/29828


メーカーが上げるその用途には、「模型・フィギュア、オフィスの付箋、図画工作」とある。接着剤メーカーの常識からすればそうだろう。ところが、この商品に意外な業界が注目している。


一番よくわからないのは、実はマジシャンの人達から「これがほしかった!」と言われていまして、いや、マジシャン業界で革命的とはなんだろうな、と思っていて、ある方にもお渡しさせてもらったのですが、私達が知らない部分で、こんなこと使いたいあんなこと使いたい、貼って剥がしたい、それも何回も、というニーズが実は多いんだな、ということを実感しています。


http://www.tbsradio.jp/stand-by/2012/11/post_5119.html


実際、マジシャン松陽斎洋也氏のブログには、「マジシャンやマジッククリエーターにとっては期待の新商品だと思います」と書かれている。但し、この商品に対する他のマジシャンやマジッククリエーターの反応は、今のところネット上には見当たらない様だ。

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10数年前の事になる。朝方に仕事場に入ると、友人がうどんを食べているのに出くわした。これからテキ屋商売をしに行くという。その前日、友人宅では一家総出で、その商品の仕上げをする内職が行われていた。内職は、東京の下町で型抜き加工されたボール紙製の人形に、ゴムの足を取り付け、説明書やその動作に必要なもの等と共にビニール袋に入れるというものだった。仕事場に現れた友人二人は、完成したそのボール紙人形を、近隣のターミナル駅周辺に赴いて売りに行くところだった。


商品の名前は「JOHNNY」。空になった丼を前にして、最後のリハーサルが行われた。頼りないゴムの足を持つボール紙の人形がユラユラと動作する、笑える程に「ハイテク(☓ high-technology, ◯ high-technic)」な「動作原理」が露わになっている。「閉まったシャッターの前とか、そういうところが良いんだよね」。友人はそう言った。確かにそうだろう。そういう場所が良い。


「JOHNNY」くんはこういう人形である。当時一個500円。



これはマジックの種を売る商売である。余程フライングをしない売り手であれば、これを「種も仕掛けも無い」とは決して言わない。これを「種も仕掛けも無い」と言って売れば、それは単なる「詐欺」である。同封の説明書にはその種がきちんと書かれている。「JOHNNY」くんの種は、或る意味で大規模ステージ・マジックにまで至る、マジックの極めて伝統的且つ基本的な文法に則っている。この「JOHNNY」くんと同じ様な「死角」を利用したものを、東京都現代美術館の「館長庵野秀明 特撮博物館 ミニチュアで見る昭和平成の技」展でも見た。特撮もまたマジックなのだ。


マジックは「アート・オブ・ディセプション」とも言われている。「騙しの芸術」とも「騙しの技術」とも訳せる。あのナポレオンズのプロフィールにはこうある。


講演会

ナポレオンズは年に何回も講演活動をしています。
テーマは『不思議で脳を活性化』
『ダマされないためのマジック』
『ダマされていいのはマジックだけ』
『マジックのトリックに学ぶ発想法』
など。

高齢化社会を迎えた私たちに必要不可欠なのは、脳の健康ではないでしょうか。
そこで、マジックだけが持つ不思議、驚きを脳の活性化に生かそうと考えています。
まずは不思議なマジックを見ていただき、大いに驚いてもらいます。
脳に驚きという、現代に最も不足しているという刺激を与えるのです。硬直化してしまった脳に、 不思議という刺激で深呼吸してもらうのです。

観客には、マジックの実演を見てまずは驚いてもらい、しっかりと刺激を受けてもらいます。
その後にトリックの解説をして、予想外の発想を実感してもらいます。
長年脳の中に蓄積された知識、経験は、すっかり洗い直されることでしょう。

そしてリフレッシュされた脳に、サギや悪徳商法等にダマされないための新たな知識を無意識のうちに植え付けてもらうのです。


http://www.tvland.co.jp/napoleons/japanese/profile.html


「JOHNNY」くんの購入者は、同封されている説明書で、その余りに呆気無い「動作原理」を知る事になると同時に、自身にもしっかり備わっている、認識上の「死角」がどういうものであるかをも知る事になる。そして今度は、購入者自ら、新たなオーディエンスの「死角」を利用して、不思議な人形「JOHNNY」くんをユラユラと動作させ、オーディエンスを驚かす事もあるだろう。「不思議な事」は、こうして伝播していく。今でも日本の何処かで「JOHNNY」くんは売られているだろう。

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てじな【手品】

① 指先や器具を巧みに操り,人の注意をそらせておいて,不思議な事をして見せる芸。仕掛けを主体とする大掛かりなものを特に奇術と称する場合がある。てづま。「―の種」

② 腕前。手並み。「―は皆見えぬ,弊(つたな)き事なし」〈今昔物語集25〉

③ 手の動かし方。手つき。手ぶり。「菜刀取つて切り刻(きざ)み,ちよき〱,〱と―よく」〈浄瑠璃菅原伝授手習鑑〉


スーパー大辞林


マジックという「もの」は無い。マジックは「形式」でも無い。恐らくマジックは「マジック」という「文脈」なのだろう。そこが、「もの」では無く、「形式」でも無く、「文脈」である「美術」と似ていなくも無い。一見すると、マジックという「もの」が存在している様には見える。「美術」と同様、確かにマジシャンと呼ばれる専門家はいる。マジックの業界も存在する。マジックのスクールがあり、マジックの世界的成功(例:ラスベガス)もある。しかし、マジックと全く同じ事をやっていても、マジックとはされないものが存在している。


「形式」についても、如何にもマジックマジックしたハンカチや、トランプや、ステッキ等を使い、ポール・モーリアの「オリーブの首飾り」さえ BGM に流しておけば、それでマジックという訳では無いのは当然だとしても、「不思議な事をして見せる」という「形式」が全てマジックであるかと言えば、それと全く同じ事をやっていても、やはりマジックとはされないものが存在している。


例えば、「超魔術」の Mr.マリック氏が登場した1980年代以降、「手を使わず」に物体を変形させるマジックが多く見られる様になった。確かに何処にでも売っている「普通」のスプーンやフォーク(マジックで使用されるものは、実際には極めて「厳選」されている)が、「手を加えず」に変形する様は、「不思議な事」に見えたりする。問題はこの「不思議な事」を、どういった「文脈」に落とし込むかである。Mr.マリック氏のそれは、マリック(マジック+トリック)というステージネームで示されていた様に、飽くまでも「マジック(+トリック)」という「文脈」上にあった(そう思っていなかった者も当時は多かった様だが※)。一方で「不思議な事」を見せるものとしては、「マジック」とは別に「超能力」という「文脈」が存在する。「種」や「仕掛け」の有無を敢えて不問にして、現象面の共通性のみで語る事にしておくが、例えば「ユリ・ゲラー」の「『手を使わず』にスプーンを曲げる」は、「超能力」の「文脈」上に存在している。他方、これもまた現象面での共通性のみで語るならば、「奇跡」という「文脈」が存在する。同じ「『手を使わず』にスプーンを曲げる」という「不思議な事」が、一方では「マジック」になり、他方では「超能力」になる。同じ「『何も無い』ところから物体を生じさせる」という「不思議な事」が、一方では「マジック」になり、他方では「奇跡」になる。「不思議な事」の媒介者としての「マジック・超能力・奇跡」という「文脈」は、「不思議な事」をそれぞれの「言語」にトランスレートする。


※「超能力ブーム華やかなりし頃、マリック本人もユリ・ゲラーの超能力と酷似するショーを行って収入を得ていた。しかしあるイベントにおいてマリックの技を見た観客が超能力肯定派と否定派で真っ二つに対立し、一触即発の緊張状態となった会場でマリックは咄嗟に「ハンドパワーです」とアピール。これにより殺気立っていた観客は得心して平静を取り戻す。後、「本物の超能力者?」「手品と同じでタネがある?」という疑問には全て「ハンドパワーです」と答え、この台詞はマリックの専売特許とも言うべきものとなっている。超能力や占いの類を蛇蝎の如く嫌っていた元タレントの上岡龍太郎もマリックの技を懐疑的な目で見ていたが「ハンドパワーです」の説明でマリックと打ち解けた。」(WikipediaMr.マリック」より)


「奇跡」という「文脈」で「不思議な事」を行えば、それを見ている者の多くには「奇跡」遂行者に対する「信心」というものが起こる事もあり、当然の事ながら「信心」の対象となった「奇跡」遂行者の持つ「力」を以って、この世界や自分達を救って欲しいとすら願う事だろう。しかしマジシャンに対しては、そうした事はまずあり得ない。多くの「奇跡」遂行者による「奇跡」よりも、遥かに「強力」で「強大」な「不思議な事」の様にも思える「自由の女神を消失させる(例)」や「万里の長城をすり抜ける(例)」、或いはそこまで大袈裟では無くても、「八景島シーパラダイスの水槽のガラスを貫通して手を入れる(例)」や「ハンバーガーショップの看板から実際のハンバーガーを出す(例)」等々の「不思議な事」を見たとしても、誰も彼等に対して「信心」は起こさないし、また彼等が持つ「力」で、世界や自分達を救って欲しいとも思わない。


それはまた、別の理由によって超能力者に対しても同断だろう。「超能力」を信憑する者ですら、「スプーンを曲げる」や「遠隔操作で止まった時計を動かす」といった行為に、「ハイパー・サイエンス」としての超常的な「力」の存在を認めるものの、しかし現実の「超能力者」に対しての「信心」はもとより、やはり彼等の持つ「力」で、この世界や自分達を救って欲しいとまでは思わない。現実の「超能力者」に対しては、何処かでスプーン曲げや、シュミット・マシン・テストの好成績や、透視や、念写といった、言わば「こぢんまり」した「力」をしか求めていないのであって、例えば大友克洋の「童夢」に出てくる少女エッちゃんと老人チョウさんの様な、殺人や団地の崩壊に至らしめるまでの強大な「力」を期待している訳ではない。マジシャンや超能力者と一緒に、停電で止まってしまったエレベーターに閉じ込められたとしても、彼等に対して「あなたの能力でここから出して欲しい」とは、それぞれ別の理由で決して言わない。「奇跡」遂行者と異なり、マジシャンや超能力者は、直截的に「救い」を求める対象では無い。


それとは別に、「奇跡」と「超能力」は、「種も仕掛けも無い」という意味での「本当の事」とされている。一方「マジック」に対しては、何処に種があるかは判らないが、種が何処かにあるという事は判っている。「マジック」は「種も仕掛けもある」という認識が一般的了解として存在している。嘗てのマジックの舞台での常套句は「種も仕掛けも無い」であったが、今は堂々と「イリュージョン」と名乗っている。即ち、現在のマジックは、端から「騙している」と情報公開している。その上での「不思議」なのだ。


ここまでを整理すれば、一つの同じ様な「不思議な事」現象を巡る「文脈」の分法としては、「本当」且つ「救い」に結び付く「奇跡」、「本当」ではあるが「救い」に結び付かない「超能力」、「本当」ではないし「救い」にも結び付かない「マジック」という三分法になる。しかし三者に共通するのは、飽くまでも「不思議な事」を「不思議な事」として見せるという事だ。仮にマジックの観客の殆どが「サクラ」というケースがあったとしても、それを外から見ているオーディエンスにとっては、それは非日常的な「不思議な事」として現象する。従ってそこには、「不思議=非日常=彼岸」/「非・不思議=日常=此岸」という二分法が存在し、「奇跡・超能力・マジック」は、揃って「不思議=非日常=彼岸」の側に属する事になる。「超能力」は「超」の呪縛が取れない限り、即ち「常能力」として認識されない限り、やはりそれは「不思議=非日常」の側にあると言えるだろう。だからこそ「マジック」は、「ラスベガス」という非日常空間が「世界の檜舞台」なのである。


しかしマジックには、この「不思議=非日常=彼岸」/「非・不思議=日常=此岸」のスラッシュを、グラグラと脱臼させようとする幾つかの「作品」がある。例えば、マギー司郎氏の「縦縞のハンカチが横縞のハンカチになる」というマジックはその一つだと思われる。マギー司郎氏以外のマジシャンによる「縦縞のハンカチが横縞のハンカチになる」はこういうものだ。



見事である。但し「不思議=非日常」を見せる「マジック」であるから、これには「仕掛け」が必要である。使用しているのはその名も「マギー・シルク(1,890円)」だろう。対して「本家」マギー司郎氏の「縦縞のハンカチが横縞のハンカチになる」は、こういうもの(本人以外による再現)である。



最後は同様に「キメる」ものの、途中までは見事なまでに何も「仕掛け」が無い。他にもマギー司郎氏のマジックにはこういうものがある。



「彼岸」としての「不思議な事」が、「此岸」の世界で「起こる」かの様に見せ掛けるものと違い、「不思議な事」が「認識」の問題である事を、マギー司郎氏のマジックは表している様でもある。


通常の「マジック」は「種明かし」が可能だ。そして「種明かし」後は、二度とその「マジック」は「不思議な事」には見えず、その「技術」に感心するばかりになる。




しかしマギー司郎氏のマジックは、「種明かし」そのものが無意味だ。「イメージの裂け目」というものがあるとすれば、それは口が開いたところから見える「異界」なのではなく、「マギー司郎」のハンカチの縦縞が横縞に変わる様なものとして存在するのだろう。「この世には不思議な事など何もないのだよ」と言う人がいたとしても、右を向いた矢印が、左を向いたり、上を向いたり、下を向いたりする「不思議」を解く事は叶わないだろう。


「マジック」は、何処かで「美術」と繋がるところがあるのではないか。美術大学に「マジック科」が存在しない事が極めて不思議だ。