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ツボ

長井秀和という人がいる。何処の誰が書いたかは判らないが、Wikipedia 英語版では "a comedian and an owarai presenter in Japan." と説明されている。"I'll be the Charlie Chaplin of the Oriental world(「東洋のチャーリー・チャップリンになる」≒「わだばゴッホになる」(!!))" という発言や、"Catchphrase" (!?)として "MACHIGAI NAI!!" が「紹介」されてもいる。本人が存命中であり、且つ現在も芸能事務所「タイタン」所属のタレントであるにも拘わらず、「長井秀和という人がいた」と、つい過去形で書いてしまう人がいるかもしれない。この場合の「いた」という表現は、「嘗て自分の興味の対象だった(が今はそうではない)」、「自分の記憶の前面にいた(が今はそうではない)」をほぼ意味しているのだと思われる。


今から5年前、NTV系バラエティ番組「エンタの神様」のトップバッターでもあった長井秀和氏は、突如ニューヨーク行きを決めた。「公表された」その理由は「世界に通じるスタンダップコメディアンを目指す」であった。帰国後に書かれた「小説」と称されている氏の自伝的な「ニューヨーク戦記」の冒頭の書き出しはこうなっている。


 彼はニューヨークに留学することを、22歳でお笑いを始めた頃から決めていた。理由は極めてシンプルだった。世界に通用するコメディアンになるには、英語圏でのコメディを肌で感じ、腕や経験、コネクションを得る必要があると思ったからだ。


http://www.premiumcyzo.com/modules/member/2009/06/post_149/


氏によって開設され、事実上開設後半年で放置されたこのブログには、ニューヨーク「留学」時代の「スタンダップコメディ」の幾つかが上がっている。この場所で「ガチで笑いの取れる、数少ない日本人」という「高評価」を得たというプロフィールが、「ニューヨーク戦記」のページに上がっているが、氏は以降この場所には戻っていない様だ。


ニューヨークに「留学」後、幾つかの海外の会場(クラブ含む)でその芸を披露した長井氏の、東京でのライブ映像がある。英語は現在の主な仕事ともなっている「英会話講師」が務まる程のスキルであるし、東京の観客の多くも、英語が堪能以上な人達に見える。この店に集まる様な英語が堪能以上な人達に対して、決してウケが悪いとは言えない。一方、同じ様なネタを、映画(洋画)の宣伝絡みで先月8月の盆明けに日本人相手に行った映像もあるが、こちらは全くウケる気配も無い。恐らく「スタンダップコメディ」を解さない日本人観客こそが「世界に通用しない」のであろう。これもまた「ガラパゴス」とされるものなのかもしれない。

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長井秀和氏がニューヨーク行きを決めた同じ年、こういうニュースもあった。


<2007ミス・ユニバース>世界大会、森理世さん優勝の瞬間


【5月29日 AFP】2007年ミス・ユニバース(Miss Universe 2007)世界大会の最終選考会が28日、メキシコ市(Mexico City)で開催され、日本代表の森理世(Riyo Mori)さん(20)が77か国代表の頂点に立った。


 2006年ミス・ユニバースプエルトリコPuerto Rico)のスレイカ・リベラ(Zuleyka Rivera)さんからティアラを受け取った森さんは、喜びで震える両手を握りしめ「とても嬉しい。まだ信じられない」と語った。森さんの将来の夢は、国際的なダンススクールを運営することだという。


 2位はブラジル(Brazil)代表のNatalia Guimaraesさん(22)、3位はベネズエラ( Venezuela)代表のLy Jonaitisさん(21)が選ばれた。(c)AFP


http://www.afpbb.com/article/entertainment/news-entertainment/2231615/1635979


当時の日刊スポーツの記事では、日本のミスコン界に「美人」の「グローバル・スタンダード」を導入した「プロジェクト」の存在について触れられている。


ミス・ユニバース森理世さん優勝


 07年ミス・ユニバース・コンテストが28日、メキシコ市で開かれ、日本代表の森理世(りよ)さん(20=ダンスインストラクター、静岡市)が優勝した。日本人の優勝は59年の児島明子さん以来48年ぶり。98年にフランス人プロデューサー、イネス・リグロン氏を招聘(しょうへい)し、昨年の同コンテストでは知花くらら(25)が2位。10年計画の“強化”が実り、世界の頂点に立った。


 パリ出身の敏腕女性プロデューサーが、ミス・ユニバースの日本代表にかかわるようになって、ちょうど10年。昨年2位の知花に続き、今年は森さんが日本人女性として48年ぶりに優勝した。


 59年の児島さん以後、日本代表の上位入賞者は途絶えていた。98年に転機が訪れる。ミス・ユニバースを主催するトランプ財団から、世界のトップモデルのマネジャーとして活躍したイネス・リグロン氏が日本に送り込まれた。同氏は欧州のファッション業界などでキャリアを重ねた実績がある。「世界のセレブのスタンダードを知り、それを日本の候補者に教えられる」(同事務局)人物によるプロジェクトが始まった。


 03年には日本代表が5位入賞を果たし、昨年は知花を見いだして2位。今年は、知花の存在を知ってミス・ユニバースに興味を示しつつも「ブロードウェーの舞台に立ちたい」と、ニューヨーク行きをほぼ決めていた森さんと、渡米前日に直接会い、日本代表選考会に応募するよう口説いた。


 森さんが全国から4000人以上が応募した日本代表選考会を突破すると、リグロン氏は森さんを都内に呼び同居。フランス合宿などを通して栄養の取り方や話し方、歩き方、パフォーマンスの特訓を繰り返して「健康的な美しさ」を目指した。「美しさは知性から」と新聞や世界のファッション誌を読むことを課題にしたり、同氏と6〜7人の専門スタッフは組織的に取り組んだ。10年の集大成が優勝だったともいえる。


 決勝では審判員10人全員が森さんに投票する圧勝だった。ダイヤモンドや真珠があしらわれた25万ドル(約3000万円)相当の冠を贈られた森さんは「頭の中は真っ白です」と興奮気味。チャリティー活動に興味があるといい、「どれだけ社会に貢献できるか」と話していた。今後1年はニューヨークに滞在し、ミス・ユニバース関連のイベントなどに参加する。


http://career.oricon.co.jp/news/45024/
元記事:日刊スポーツ


こうして、知花くらら嬢を経由して、日本国内に於ける如何なる「美人」の定型からも導き得ない、フランス人イネス・リグロン氏の目を通じた、「グローバル」な「世界に通用する日本美人」の構築に成功したと言えるだろう。


ミス・ユニバース」の様な「グローバリゼーション」には、建前としての「マルチ・カルチュラリズム」も必要である。ここでの「日本」代表は、より「ジャパニーズ(モンゴロイド)」らしい容貌であらねばならない。如何にコーカソイドの顔付きと差異付けるかがここでは重要であると同時に、「グローバル・スタンダード」な美意識にも則らねばならない。そうでなければ、「マルチ・カルチュラリズム」は「マルチ・カルチュラリズム」として機能しない。であるからこそ、あのエキゾチックな化粧法なのであり、あのエキゾチックなコスチュームなのである。「ジャパニーズ」に与えられた、「マルチ・カルチャリズム」という「カウンター」にも「それなり」の「配慮」を怠りない「グローバリゼーション」での役割のほぼ全ては「オリエンタリズム」だと言って過言では無い。「チャーリーズ・エンジェル」の「アジア人枠」に求められる顔立ちは「ルーシー・リュー」なのである。こうした美人の「グローバリゼーション」の現実に違和感を持つ日本人がいるとすれば、その「世界に通用しない」美意識こそが「ガラパゴス」とされるものなのかもしれない。

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「笑い」も「美人」も、汎人類的な「基層」であるのは間違いない。「基層」であるならば、それらの「共通」化や「標準」化を図り、「笑い」や「美人」の上位概念を構築する事も容易だと思われたりもするだろうし、実際「共通」や「標準」とされているものは存在している。それが長井秀和氏の考える「世界に通用する笑い」であり、イネス・リグロン氏の考える「世界に通用する美人」という事だろう。場合によっては、「世界に通用する笑い」こそが、即ち上位概念としての「笑い」であり、「世界に通用する美人」こそが、即ち上位概念としての「美人」であるという事にもなるかもしれない。


しかし困った事に、「世界に通用する笑い」では、必ずしも泣いている赤ん坊を笑わせる事は出来ないし、「世界に通用する美人」に、必ずしも全ての人が無上に魅了される訳でも無い。「笑い」は様々な形でそこかしこに存在し、「美人」もまた様々な形でそこかしこに存在する。人は目の前に「世界に通用する笑い」が現れなくても笑う事が出来、目の前に「世界に通用する美人」が現れなくても美しい人に魅了される事が出来る能力を、そうした「世界」が人類史に登場する遥か以前から、人類誕生と同時に既に持ち合わせているのである。寧ろ「世界に通用する笑い」が現れるまで笑えなかったり、「世界に通用する美人」が現れるまで美しい人に魅了されるという事が無かったら、それは暗黒的な世界であるとすら言えるだろう。仮に「笑い」や「美人」の「共通」化や「標準」化が可能なものに見えたとしても、「笑いのツボ」や「美人のツボ」の「共通」化や「標準」化は永遠に不可能であるに違いない。


「世界に通用するコメディアン」という「型」を目指した長井秀和氏のステージの多くが、穴蔵の様な「クラブ」であるところに「世界」の実相が現れているとも言えるだろう。「ガチ」で笑っているのは穴蔵の人のツボである。「世界」は穴蔵に存在し、穴蔵にしか存在しない。そうした穴蔵のサイズを極めて大きくして、金を掛けるだけ掛けて「ゴージャス」な舞台装置をセッティングし、そこに強力極まりない照明を当て、何人かの「セレブ」を配置すれば、「セカイ」は「世界(ユニバース)」に見えたりもする。しかし、ツボを巨大なものに膨らませるだけ膨らませて見せたとしても、依然としてツボは並立的なツボの一つなのだ。「ミス・ユニバース」は、到達点の一つでしか無い。しかしそんな事は、誰もが知っている事ではないだろうか。

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「世界に通用するアーティスト」。そういう言葉もある。そこでは、長井秀和氏の小説の冒頭部分「世界に通用するコメディアンになるには、英語圏でのコメディを肌で感じ、腕や経験、コネクションを得る必要があると思ったからだ」の「コメディアン」を「アーティスト」に、「コメディ」を「アート」へと容易に変換する事が可能だ。トランプ財団が言うところの「世界のセレブのスタンダードを知り、それを日本の候補者に教えられる」もそのまま適用が可能だ。そこでは「アート」や「アーティスト」のみならず、「アートのツボ」もまた、「共通」化や「標準」化が可能だと信憑されている。そうして「共通」化や「標準」化したものを、「教える」事も出来ると信憑されている。しかし実際には「アートのツボ」もまた、「笑いのツボ」や「美人のツボ」に似たものがあるかもしれない。そうであるならば、何も目の前に「世界に通用するアート」が現れるまでも無く、様々な形でそこかしこに「アート」を感じられる筈ではある。但し、「笑い」や「美人」と異なり、そうした能力が、こと「アート」に関する限り、人々に全く備わっていないというのであれば、それはそれで仕方が無い。「グローバリゼーション」を体現する「誰か」が、「アートのツボ」をも「共通」化や「標準」化をした上で、人々に提供せざるを得ない事になるのだろう。しかしそこまで人々の能力を侮って良いものだろうか。「アートのツボを教える」は、畢竟「笑いのツボを教える」や「美人のツボを教える」なのである。


それが一人であっても英語が堪能以上な人がやっている事。それが一人であっても英語が堪能以上な人にウケる事。それが「グローバリゼーション」のイメージであるとしたら。