Ecce Homo

凡そ美術が「のっぺり」したものではないという事例を "CASHI" の「ラッセン展」に見た訳だが、この「事件」もまたその極めて興味深い事例として捉える事が可能だろう。それは、展示上の概念的ストラグルではなく、リアルに消すか消されるかが掛かったストラグルなのだ。果たして「信仰的善意」は、「美術的価値」と、常に折り合いを付けねばならないのだろうか。


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19:1 そこでピラトはイエスを引き取って,彼をむち打った。


19:2 兵士たちはイバラで冠を編んで彼の頭に載せ,彼に紫の衣を着せた。


19:3 「ユダヤ人の王様,万歳!」と言ったり,彼を平手打ちにしたりしていた。


19:4 それからピラトは再び出て来て,彼らに言った,「見よ,わたしは彼をお前たちのところに連れて来る。わたしが彼に対して訴える根拠を何も見いださないことをお前たちが知るためだ」。


19:5 それでイエスは,イバラの冠と紫の衣を身に着けて,出て来た。ピラトは彼らに言った,「見よ,この人だ!」


19:6 それで祭司長たちと役人たちは彼を見ると,叫んで言った,「はりつけにしろ! はりつけにしろ!」ピラトは彼らに言った,「自分たちで彼を引き取って,彼をはりつけにするがよい。わたしは彼に対して訴える根拠を何も見いださないからだ」。


ヨハネによる福音書 19章、1節〜6節
電網聖書 - Public Domain : http://www.cozoh.org/denmo/John.htm#C19V1


ヨハネによる福音書19章5節の「見よ,この人だ!」。ニーチェ絡みで「この人を見よ!」という訳の方が「有名」だったりするかもしれない。英語では "Behold the Man" 。ラテン語では "Ecce Homo" 。


Spanish fresco restoration botched by amateur(素人によって台無しにされたスペインのフレスコ画の修復)
http://www.bbc.co.uk/news/world-europe-19349921


「修復」された "Ecce Homo"。その「事件」の第一報は、こんな感じだった。


スペイン19世紀のフレスコ画、「修復」のなれの果て 悲惨な結末


スペインの教会の柱に描かれていた120年前のフレスコ画が、高齢の一般信者の手で「修復」されて原画とは似ても似つかない状態になっているのが見つかり、地元で騒ぎになっている。

「修復」が行われたのは、スペイン北東部ボルハの教会にある19世紀の画家エリアス・ガルシア・マルティネスの作品。いばらの冠をかぶったキリストの肖像が描かれていた。

ボルハの地域研究センター職員がこの作品を写真に収めようと教会を訪れて異変に気付き、「驚愕した」という。

「修復」を手掛けたのは教会員のセシリア・ヒメネスさん。地元メディアの取材に対し「頼まれたからやっただけ」と話している。作業は堂々とやっており、ほかの信者たちも見ていたが、誰も止めようとしなかったという。

変わり果てたその姿に、地元に住むガルシアの孫のテレサ・ガルシアさんは「作品が破壊されてしまった」とショックを受けている。

作品を元通りにできる手段があるかどうかは不明。地域研究センターは「この言語に絶する行為に解決策があるのかどうかは分からない。しかし再発防止のための対策が必要だ。意図はともかく、強く非難されるべき行為だ」と述べている。

今回の出来事について同センターのブログに寄せられたコメントの中には、英コメディアン、ローワン・アトキンソンが演じる「ミスター・ビーン」の1997年の映画版で、画家ホイスラーの母の肖像画が悲惨な目にあう一場面を思わすとの一文も見られた。


CNN
http://www.cnn.co.jp/fringe/35020830.html


エリアス・ガルシア・マルティネス(Elías García Martínez)氏を Google 検索してみると、果たしてこの「事件」絡みの事しか出て来ないのは困った事である。Google 画像検索では、エリアス・ガルシア・マルティネス氏の他作品はほぼヒットせず、これも困った事にセシリア・ヒメネス氏による「修復後」の "Ecce Homo" しか出て来ないと言っても良い有様なのである。


果たして現在のボルハはこんな事になっている。


「台無しになったフレスコ画が、スペインの町に人々を引き寄せている」
http://www.euronews.com/2012/08/25/botched-fresco-draws-crowds-to-spanish-town/


記事の冒頭にある様に、ルーブル・ドゥノン翼のモナリザの部屋の様になってしまったボルハの教会。お祭り騒ぎの町。引き寄せられた観光客(crowds)の一人の女性は動画の中で言う。 “I don’t find it unpleasant. The painting was beautiful before, but I also like this one,” 。「わたしがこの絵に対して不快に感じる根拠を何も見いださない」。これはあのピラトが、「はりつけにしろ! はりつけにしろ!」と望む者に対して言った、「わたしが彼に対して訴える根拠を何も見いださない(I find no basis for a charge against him.)」と全く同じではないか。しかし今回は「はりつけにしろ!」という声は、「美術関係者」以外にはそれ程高くない様にも見える。


“残念すぎる修復画”に巡礼客殺到!保存嘆願まで!!
http://hochi.yomiuri.co.jp/topics/news/20120827-OHT1T00258.htm


今や、TumblrPixiv は「修復してみた」のラッシュである。"The Cecilia Prize(セシリア賞)" なる「修復してみた」の「賞」まで設けられた。他ならぬキリスト教国の人達が、彼等に馴染みの深いキリスト図像を「セシリア」スタイルにする事に嬉々としている。Wikipedia スペイン語版の "Ecce Homo (Elías García Martínez)" には、"Cecilia Giménez" に群がる観光客の画像が掲載され、恐らくはこの項目自体も「事件」以降に作られたものだと思われる。ぶっちゃけ「人気」なのだ。「ニュースター誕生」とすら言われていたりもする。ピラトは "crowds" に判断を丸投げする事で、結果的にイエスの磔刑が決定したが、こちらの "crowds" はどうだろうか。イエスの磔刑が、選択として大きく誤っていたとされているが、果たしてこちらの「刑」はどうなるだろうか。

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オリジナル作品が、「マサッチオ」とか「ミケランジェロ」といったクラスであれば、その絵の股間等に加えられた「後世の加筆」を取り除く「修復」に関して「支障」は殆ど発生しないと言えるだろう。何故ならば、そこには「後世の加筆の画家」<「マサッチオ/ミケランジェロ」という、圧倒的な不等号が存在しているとされているからだ。でも「後世の加筆の画家」よ…、アンタ「マサッチオ」や「ミケランジェロ」程には「メジャー」でも「重要」でもないですから!残念!!斬り!!!(古)。まあ、そういった事である。


しかし ---- ここから先は「想定上の」話であるが ----- 例えば「後世の加筆の画家」が、「ピカソ(想定上)」であったり「マティス(想定上)」であったりして、そんな彼等の例のスタイルで「修復」していた場合はどうだろうか。果たして「マサッチオ」とか「ミケランジェロ」を基点とする限りに於いて、「残念」にも「台無し」にも「悲惨」にも見えるかもしれない「ピカソ(想定上)」や「マティス(想定上)」を、果たして残すべきだろうか消すべきだろうか。これもまたぶっちゃけるが、地元ボルハの文化団体 "Centro de Estudios Borjanos" のスポークスマンですら「オリジナル作品の価値は極めて高いものではなかったが、そこにはそれ以上のセンチメンタルな価値が存在した」と言っている通り、決して「美術的価値」が高いとは言えないエリアス・ガルシア・マルティネスである。そのエリアス・ガルシア・マルティネスの上に、「ピカソ(想定上)」が「残念」の「台無し」の「悲惨」をしたとしても、これはまず「ピカソ(想定上)」や「マティス(想定上)」に軍配が上がるに違いない。


数々の「傑作」をX線で調べたりすると、その「傑作」の下に、別の画家の「美術的価値」が高いとは言えない作品があったりする事もあるが、しかしだからと言って、「傑作」を剥がして、元々の画家の作品を復活させるという事はまずあり得ない。「原状」復帰が不可能な場合、この「残念」の「台無し」の「悲惨」のセシリア・ヒメネス・バージョンを残し、そこにエリアス・ガルシア・マルティネス・バージョンの写真でカバーするという案もある様だ。カバーではなくて、併置すれば良いのに。


この善意の人を見よ!