読者です 読者をやめる 読者になる 読者になる

惑星

承前



アブストラクトの様にも見える「初期画面」。このセンター部分を "Enhance" して600倍にするとこういう絵になる。



ここまで来ると、ピンと来る人はピンと来る。「あそこ」だと判る。そして今夏このエリアで見聞した「大規模国際展」を思い出したりもする人も、その面積に相応しく世界人口70億人(2011年10月現在)の1万分の1程(70万人)はいる事だろう。果たして「国際展」の「国際」が、一体何を意味するのかは判らないが、それでも多くの場合、「国際」という概念が「無上」の意味を持つ存在として機能する事は知っている。例えば「国際連合」と言えば、嘗ての日本人はその「国際」という語から、理念的な上位概念を感じていたものである。しかし日本語の「国際連合」は、 "United Nations" の「誤訳」であり、本来は「連合国」と訳すべきである事も、今では広く知られている。実際嘗ての「連合国」であり、それ故に「常任理事国」である中国は、極めて「正確」に "United Nations" を「联合国」と訳している。イタリアが「国際連合」に加盟したのが、大戦終結10年後の1955年であり、日本がその翌年の1956年。ドイツ(当時東西)に至っては、ミュンヘンオリンピックの翌年の1973年になって、ようやく「国際」のメンバー入りを承認されている。こうして「国際連合」の正体が「連合国」である事は、「国際美術」の「国際」を考えるに当たって重要なヒントを与えてくれるかもしれない。


再び「初期画面」を見る。如何にヨーロッパ大陸と言えど、少なくとも「国際」は、この「初期画面」に、満遍無く、均等に、平均的に存在している訳では決して無い。グローバルの、ワールドワイドの、インターコンチネンタルの、ユニヴァーサルの、マルチナショナルの「インターナショナル」の影響力の及ぶ場所は、場合によっては、コミュニティの、ディストリクトの、ネイバーフッドの、リージョナルの、ミュニシパルの、カントリーの、ヴァナキュラーの「ノン・インターナショナル」よりも、「エリア」的にかなり狭いものであるという逆転の構造があるかもしれない。であるならば、即ち「ノン・インターナショナル」は、「インターナショナル」が及ぶ場所よりも、圧倒的に「広い」とも言える。恐らく「国際美術」もまた、幾つかの「常任理事国」メンバーがイニシアティブを握る、何らかの "United Nations' Art" 、「連合国美術」と訳した方が良いのかもしれない。「国際連合」と同様、「連合国美術」では、「非常任理事国」を含む「インターナショナル」の「周辺」部は、それが「国際」であろうとする限り、常に固定化した「常任理事国」の「決定」に永遠に従わされる。「联合国,您的世界!」。「連合国」はあなたの世界。「連合国」はあなたに内部化する。恐らく「連合国美術」で交わされる言語もまた、この "United Nations" の公式サイトに似たものかもしれない。



联合国,您的世界!

http://www.un.org/


「連合国美術」の図と言えなくもないのがこれだ。


http://williampowhida.com/wordpress/wp-content/uploads/2011/02/11_CJ_ruscha_large.jpg


この図では、あの "Mr. Brainwash" 氏も "COMMERCIAL-COMMON" のエリアに確固たる位置を占めている。ここでは "Mr. Brainwash" 氏は、「連合国美術」の「国際」の人なのである。人によっては "Mr. Brainwash" 氏がここに入る事を「場違い」と感じるかもしれない。何故に "Mr. Brainwash" 氏(如き)が "Jeff Koons" や "Cindy Sherman" 等と同じ場所に入って、自分が入らないのだと悔しく思う向きもあるかもしれない。しかしそれこそが、恐らく「国際」の実際という事なのであろう。


"ELITE" と "COMMON" の境界線上、"COMMERCIAL" の極に、そこだけ極めていい加減な筆で描かれ(描けないのかもしれない)、一体どこの怪しいキラーカーンかと思ってよくよく見たら、果たしてそれは花の被り物をした人であった。「国際」からすれば、この人は「花の被り物をする人」というアイデンティフィケーション、ロールなのかもしれない。流石になのか、当然になのかどうなのかは判らないが、例えばこの「国際」の図には、 "Christian Riese Lassen" 氏という「ノン・インターナショナル」は、 "COMMERCIAL-COMMON" にも入っていない。しかしそれは何故だろうか。何故に "Christian Riese Lassen" 氏は「インターナショナル」ではないのだろうか。

      • -


もう随分と前の話だ。「美術」を見る為にと言っても良いだろう。例えば「ミケランジェロ」とか「ボッティチェリ」とかそんな風な感じのものだ。だから成田から「本場」ヨーロッパ行きの飛行機に乗った。「ミケランジェロ」とか「ボッティチェリ」とかを見るのに、「詣でる」以外に一体どういった方法があると言うのだろうか。


滑走路から飛び立った STAR ALLIANCE=SASA340-300 は、房総半島のゴルフ場の上を鳶の様に旋回上昇し、そのまま北北西に進路を取った。経済的な巡航に十分な高度を確保したエアバスが水平飛行に移行すると、細い列島の縦断はほぼ終わり、複数の国から複数の名前を持たされている海へと出る。遥か眼下に綺麗なケルビン波を描いた漁船が見える。程なくして再び陸地の上空になる。ここからヨーロッパまでは地続きだ。ハバロフスクの上空を過ぎると、やがて地上は惑星としての本来の姿を見せ始める。



東シベリア。先の大戦直後の日本人にとって、「シベリア」というのは「抑留」をイメージさせる地名である。一方で、「反革命分子」や「敵階級」を収容する「ラーゲリ(強制収容所)」の地というイメージもある。いずれにしても、何らかの「流刑地」であり、そこに送られる事自体が懲罰的意味を持つ場所というイメージが広く持たれているのは否定出来ない。


そして窓外を見ながら思った。この惑星は人の住んでいないところばかりではないか。日本なんかにいて「悪い場所」なんて言っているのは、到底甘っちょろい話だ。ここで機体に何かのトラブルが起き、エアバスが運良く地上にソフト・ランディングしたとしても、すぐに脂肪を塗ってフェルトに包んでくれ、ソリで運んでくれたりする現地人に遭遇しない確率の方が高そうだ。


そして妄想した。例えば、地球人口70億人に「均等」に土地を分け与えるとして、それをガラポンか何かで抽選し、見事当選したのがこの窓から見えるシベリアのどこかだとしたら、はてさて自分の後半生をどうやって生きて行けば良いのだろうかと。もとより、現在そこそこの集落になっている場所以上の土地が当たる確率など、運を託すのがガラポンなら極めて少ない筈だ。それが「先進国」のそのまた首都である様な都会ともなれば、恐らく年末ジャンボ1等2億円、前後賞合わせて4億円クラス以下の確率だろう。


一方で「シベリア」が当選する確率は、7等の300円並にかなり高いと思われる。ならば、自分が当選するのが「シベリア」だったとしたら、選ぶべきはこの風景のどこが良いだろう。あの凍った川の近くだろうか。それとも山の上だろうか。その川の近くでも良い。山の上でも良い。アトリエなんか建ててみたりして、そこで「国際」に適合する作品なんか作ってみたりして、その作品をこの永久凍土の地で発表して「国際」を目指したりして。すぐに苦笑する。やはり「国際美術」というものは、年末ジャンボ前後賞合わせて4億円クラスの、極めて選ばれた土地(或いは恵まれた交通路によって、そこからのアクセスが比較的容易な土地)にあってこそ意味があるのではないか。「国際美術」とは、そうした地のものなのであろう。


次に、今から行こうとしている「美術」の場所をそこに合成してみた。荒涼の大地のどこかにポツンと存在する年末ジャンボ前後賞合わせて4億円クラスの「美術」の場所。そこに「ミケランジェロ」とか「ボッティチェリ」とかがある。しかしもう考えるまい。無意味だ。それは「国際」から言っても、「非・国際」から言っても無意味だ。


荒涼の風景を数時間見た後、エアバスは太陽光から外れ、真っ暗な極寒のアムステルダムでトランジットする。別の機に乗り換え、やがて「翼よ! あれが巴里の灯だ」になる筈だったのが、未明着だったので、巴里の灯は十分には灯っていなかった。埃っぽいシャルル・ドゴールから小型ジェットで目的の地へ。そこで、貪る様に穴が空く程、勿体無い精神で「ミケランジェロ」とか「ボッティチェリ」とかを見た筈なのである。しかしそれらの「実物」の、具体的に造形上の何がどうなっているかを、長い時間の経過と共に今は殆ど忘れてしまった。今では「ミケランジェロ」とか「ボッティチェリ」とかを実見したという、その事実をしか覚えていない。その一方で、未だに鮮明に覚えているのは、実はこの何も無い「東シベリア」の風景なのであった。

      • -


地球の平均値は、極めて「非・国際」である。「国際」が、そうした「非・国際」をアウトレージ的に駆逐し、最終的に世界が「国際」化する事を、「連合国」を「国際」とする人は思う。自らが「非・国際」に属しているにも拘わらず、「国際」のメンバーに連なりたいと思う者は、自らもアウトレージして「国際」化しようとする。しかし「国際」もまた、一つの「地方文化」だろう。そうでなければ、「連合国美術」の図に感じる一種の「偏り」を説明出来ない。こうした「偏り」の存在は「地方文化」ならではだ。


であるならば、「国際展」を「地方展」として楽しむ事も可能だろう。地球の裏側から、「シベリア」を通ってその「地方」に行き、その「地方」独特の「美術」を見る。再び機上の人となって「シベリア」上空。そして細長い列島。しかし、その行き帰りの数十時間にも、航路の下には無数の「地方文化」が存在している。細かく分ければ、人間の数だけ「地方文化」が存在している。そして「お帰りなさい」の到着ゲートを通れば、そこもまた無数の「地方文化」の地なのである。


【続く】