コンポラ

承前



「スナップショット」である。


但し「スナップショット」ではあるものの、「脳と眼と感情の協働作業を伴う(involves a joint operation of the brain, the eye and the heart. : "The Decisive Moment" : Henri Cartier-Bresson : 1952 )」様な 、 「絵-物語(picture-story)」 であるとは言えない。その意味でのみ、恰も購入したばかりのカメラ性能を測る試し撮りの様にも見えるこの「スナップショット」は、「反=アンリ・カルティエ-ブレッソン」的ではあるだろう。


「素朴なスナップ」で「横位置」の、「日常ありふれた何げない事象」、「誇張したり、強調したりするようなことはしない」、「主義としての明確な論理」が無いこの写真が、例えば「1960年代後半〜1970年代前半」の「日本人」の「玄人」の「写真家」によって、自らの「商売」上の戦略的意図の下に撮影された「作品」であれば、或いは「コンポラ写真」という「誉・褒」、或いは「毀・貶」を得られたかもしれない。前世紀も、そして今世紀も存在する、写真には「主義主張」を伴った「御大層」をこそ写さなければならないとする立場の人達からは、例えば「牙のない」とか「敗北の美学」とか「ミミズの生活」などと、言われ放題だったかもしれない。しかし残念な事に、この「御大層」の欠片も無い写真は、「2019年」の「外国人」の「素人」の「一般人」により、恐らく撮影者の無意識的なシャッター押下によって撮影された「産物(≠「作品」)」である。従って、「1960年代後半〜1970年代前半」の「日本人」の「玄人」の「写真家」によって撮影された「作品」という、「コンポラ写真」の極めて重要な前提条件のどれ一つとしてこの写真は満たしてはいない。「反=アンリ・カルティエ-ブレッソン」というブランド(焼印)は、そうした戦略的意図に基づいて「作品」を作らんとする者=「玄人」にこそ与えられるべきであり、この無意識過剰な撮影者=「素人」の「産物」には相応しいとは思えないし、また当の「産物」の撮影者自身もそうした「玄人写真」の「作品」のみを対象とした焼印の歴史、焼印を巡る議論などといったものには全く意味を見出さないだろう。「コンポラ写真」という焼印は、その曖昧さと概念の広さ故に融通無碍的ではあるものの、しかしその影響が些かも及ばない広大過ぎる「外部」の世界もまた、「素人」を軸にしてしっかりと存在する訳である。


この2019年の「スナップショット」は「紙焼き」ではあるものの、しかし2012年段階ではまだ一般的だった「レガシィ」な「紙焼き」とは異なり、それなりに「ハイテク」なものである。その最も重要な「ハイテク」技術の一つとして、被写体の(布置的)3次元情報が、紙焼きに書き込まれているという点が上げられる。恐らく2019年のスナップショットの撮影時には、撮影機材によって、被写体の布置状態に対する何らかのセンサリングが行われているのだろう。2012年時点のスキャナは、平面反射原稿上の色情報をビットマッピング化するに留まるが、2019年の "Esper machine" と呼ばれるスキャナでは、そうした被写体の布置情報を読み取る事が可能だ。即ち「視点」を前後左右に変えて見る事が可能になっている。3D情報を加味した拡大縮小は、2012年のそれ程に単純ではない。


リック・デッカード は、撮影者すら再び顧みる事が無いかもしれない、この「産物」としての写真に対し、微睡みの中でユニコーン(一角獣)のファンタズムを見た或る夜、突然それに「何か」が写っているのではないかという予感めいたものを感じる。すぐさま彼は、アパート自室の "Esper machine" にその「紙焼き」を入れ、画面の探査を開始する。


Enhance 224 to 176. Enhance, stop. Move in, stop. Pull out, track right, stop. Center in, pull back. Stop. Track 45 right. Stop. Center and stop. Enhance 34 to 36. Pan right and pull back. Stop.


最初の拡大で約6倍。次の拡大でその約2倍。再び最初の拡大率に戻り、それから約8倍の拡大。そこから右に移動し、また最初の拡大率に戻る。尚も右に移動した後に、画面中央へ。約8倍の拡大。右に少し移動した後に縮小。ここまでで、初期画面から約6倍の拡大。




Enhance 34 to 46.


それから約50倍の拡大。何かを「発見」する。




Pull back. Wait a minute, go right, stop. Enhance 57 to 19. Track 45 left. Stop.


約40%の縮小。画面を右に振って別の何かを「発見」して少し拡大。左に振ってマシンを止める。




Enhance 15 to 23.


3倍強の拡大。




Give me a hard copy right there.


目的を達したデッカードは、マシンに対してこの拡大画像のハードコピーの出力を命じる。ここまでで、最初の画面から約600倍の拡大率になっている(Photoshop上でスチールを合成して計測)。


世界の全体と部分が自己相似であるというマンデルブロ集合の考え方からすれば、「コンポラ写真」はどこまで拡大しても「コンポラ写真」の儘でなければならないが、しかし勿論世界の「様相」は、それ程に単純では無いとは言える。最後の600倍の画面の女性像に対し、それを「コンポラ写真」とするのはかなり難しいだろう。寧ろそれは、ありふれた「広告写真」の様にも見える。この600倍の「フレーミング」をこそ「初期画面」として、そこに「女」や「夢」などという極めて凡庸なタイトル付けをすれば、少なくとも一山幾らの凡庸な「芸術作品」程度にはなるだろう。そうした「芸術作品」ともなれば、この写真に対する議論はたちまち変わるに違いない。search(+enhance)の仕方如何で、カタカナの「コンポラ」からカタカナの「リアリズム」を得る事すら原理的には可能だ。要は、その「初期画面」の「フレーミング」に留まる事こそが、「玄人写真」を巡る、全てとは言わないが数多の議論の出発点/終着点なのであり、翻って「玄人写真」を語る人間に、写真内をアクティブに走査しようと自らアクションを起こす「リック・デッカード」は、それ程に存在しないという事も言える。


2010年11月13日の「表象文化論学会」での冨山由紀子氏による発表、「〈日常〉写真の静かな抵抗──下津隆之『沖縄島』を読む」は、その数少ない「リック・デッカード」の一つと言えるだろう。その論文全文は、「表象文化論学会」発行の「『表象』05」で読む事が出来る。この論文で、冨山氏は「1967年」に「日本国内」の「玄人写真界」で、それなりに大きな話題になった(その後、その存在は「日本国内」の「玄人写真界」に於いて急速に「陳腐化」する)下津隆之氏(25歳)が、「返還」前の沖縄を撮影した「沖縄島」という、「コンポラ写真」の12枚構成の組写真「作品」を巡って「リック・デッカード」を試みている。例えば、氏は下津氏の「沖縄島」の中の「琉米カーニバル会場」という写真の「背景」的存在である某オーディオ機器メーカーの広告の垂れ幕を "enhance" し、そこからその一部分である宣伝文句を ”enhance” する。そこには、「アメリカ(の中のアメリカ=アメリカである沖縄のアメリカ軍基地内=二重のアメリカ)」に本来あってはならない筈の、単純な英単語(日用的な語彙)のスペルミスが存在している。アメリカ軍基地内の垂れ幕広告のスペルミス。画面前景に "enhance" すれば、「外国人」的にも見える風貌のウェイトレスの人種的特徴と、撮影者である下津氏(本土人)に向けたその目が示す意味が見えてきたりもする。そしてその後ろの「外国人」男性を "enhance" すると、様々なフェイズで複雑に入り組んだ「支配」の構造が見えてきたりもする。その読み取りの「当否」は兎も角、ここで「明確な論理」を全面に押し立てて、それで何かを言った気になろうにも、「明確な論理」から零れ落ちてしまう圧倒的な過剰がこの一枚には写されている。「明確な論理」なるもの自体が、この画面内では「部分」にならざるを得ない。「明確な論理」の別名は、「見たいものだけを見る」だろう。そうした複雑を看取する為には、複雑の中に身を投じて「何か」を見出そうとする「リック・デッカード」でなければならないのではないか。


映画「ブレードランナー」中の「リック・デッカード」は、探し当てた600倍の「女」を「明確な論理」の表象としない。そこでの「女」は、サーチ中に見られた「漢字混じりの新聞」や「ジョニ黒2019年バージョン」や「時代物の扇風機」と何ら変わりが無い。「現実のジャーナリスティックな動きに巻き込まれずに、当の現実を皆でみなおすことができるような視点を確立するということ(福田定良)」。この1967年の「カメラ毎日」誌上に於ける下津氏の「沖縄島」に対する福田氏の評言は、「カメラ毎日」という雑誌の性格上、「視点を確立すること」という「玄人」の在り方を、他ならぬ「写真家」相手に諭したものであるが、一方で寧ろ極めて重要なのは「当の現実を皆でみなおす」という「皆」への問い掛けであろう。即ち、「当の現実」を「みなおす」存在としての「皆」=「リック・デッカード」の存在こそが、「コンポラ写真」、そして恐らく「写真」そのものの核心部であると思われる。


「商売」の世界でしかない「玄人写真界」によって、半ば意図的に「流行現象」として「陳腐化」させられた下津氏は、程なく写真雑誌での発表に見切りを付ける。前世紀後半の1984年の「カメラ毎日2月号」のインタビューで下津氏はこう語っている。「のんびりしたもの、理解するのに時間がかかるものを媒体が必要としなくなった」。死の前年に、下津氏は或る人物に対して「撮影したネガのほとんどを処分」したと明かしている。


その混在のうちに織り込まれたほんの些細な何かの発見が、写真の外にあるさらなる歴史的、文化的情報とのインターテクスト的な結びつきを誘発し、幾重にもその意味を多元化させていくことになる。そうして更なる意味の追求を許し続けると同時に、決して固定化された結論にたどりつくことがないという点こそが、下津の、そしてコンポラ写真の持つ可能性の、一つの核心であると言えるだろう。


冨山由紀子「〈日常〉写真の静かな抵抗──下津隆之『沖縄島』を読む」


しかし、こうした「固定化された結論にたどりつくことがない」という写真は、写真に相対する者が「リック・デッカード」であろうとすれば、何も所謂「コンポラ写真」に留まるものではないだろう。寧ろ「リック・デッカード」にとっては、如何なる写真も「固定化された結論にたどりつくことがない」と言えば言えなくも無い。そうした「固定化された結論にたどりつくことがない」写真を、仮に『コンポラ写真』とするならば、その「初期画面」が、「アンリ・カルティエ=ブレッソン」であろうが、「リー・フリードランダー」であろうが、或いはまたカタカナ「コンポラ写真」であろうが、それに対立するとされたカタカナ「リアリズム写真」であろうが、一旦 "Esper machine" に入れてしまえば、どれもが既に『コンポラ写真』ではある。即ち、「リック・デッカード」であろうとする者にとって、『コンポラ写真』はどこまで拡大しても、依然として『コンポラ写真』なのである。


マーシャル・マクルーハンの「グーテンベルクの銀河系」から引く。


This man – this sanitary inspector – made a moving picture in very slow time, very slow technique of what would be required of the ordinary household in a primitive African village in getting rid of standing water – draining pools, picking up all empty tins and putting them away, and so forth. We showed this film to an audience and asked them what they had seen, and they said they had seen a chicken, a fowl and we didn’t know there was a fowl in it. So we very carefully scanned the frames, one by one for this fowl and, sure enough, for about a second, a fowl went over the corner of the frame.

...

Wilson: We simply asked them: what did you see in the film?

Question: No one gave you a response other than “We saw the chicken”?

Wilson: No, this was the first quick response— “We saw a chicken.”

— from “Film Literacy in Africa”, by John Wilson (Canadian Communications vol.1 no. 4, summer, 1961, pp. 7-14), cited in McLuhan’s “The Gutenberg Galaxy”.


「公衆衛生の重要性を説く」という、極めて「明確な論理」を持つ「教育映画」の「初期画面」は、しかし1950年代の某アフリカ伝統社会の「リック・デッカード」によって "Enhance" される事で、"chicken" が前面化される。果たしてこれを「無学」の者の「誤読」であるとする事は正当だろうか。

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さて Google Earth である。続きはこの中央部分の600倍拡大のイメージから始めよう。それにしても「塵」には未だに至らない。


【続く】