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択ぶ/択ばず

承前


つげ義春の作品に「噂の武士」がある。


或る温泉宿に平田という若い武士が投宿する。意想外にも宿は身延帰りの団体客で満員札止めであった。平田は予約客であったが、やがて宿の主人が相部屋を求めてくる。渋々了承する平田の前に現れたのは、身の丈六尺、女子供が見たら引き付けを起こしかねない異相を持つ浪人であった。平田は氏素性を名乗るが、浪人は播州出身と言うだけで名前を名乗らない。とは言え、浪人は折り目正しく無口であった。浪人の立ち居振る舞いには隙が無く、平田は武芸者であると見抜く。温泉に入った浪人の背中には大きな刀傷が見える。やがて浪人の異彩は宿中の評判になる。「きっと名のある武芸者だよ」。或る日浪人は、矢庭に居合抜きで一本の枝を切り落とすと、それを削って見事な仏像を彫り上げる。平田はこの人物が、噂に名高い宮本武蔵ではないかと思い始める。そしてそれが確信に変わった時、宿の主人に「私は宮本武蔵とみた」と告げるーーーー


作中の「宮本武蔵」が、切り落とした枝で、高さ一尺程の彫刻を彫り上げているのは、宿の部屋の中である。別に工房(アトリエ/スタジオ/ファクトリー、要するに「作る」為に設えられた専用の空間)があって、そこに籠もって彫っている訳ではない。宿の部屋で制作するのは、浪人が「宮本武蔵」である以上、その制作風景を他の投宿客に見せなければならないが為に、障子をわざと開いて事実上の公開制作の形にしているからだ。そうしなければならない理由は、この作品の最後に明かされているもののそれはさておき。


彫刻を彫る「宮本武蔵」の使用工具は一本の鑿と木槌であるが、これは「宮本武蔵」自身が持参したものでは無いだろう。彼は最初の登場シーンやラストシーンで、刀以外の荷物を持っていない。懐や袖の中にそれらを忍ばせるというのも現実的ではない。然るに、宿にそれらの工具を借り、その具合や調子が良いのだか悪いのだか全く判らない鑿と木槌を使用して(流石に錆や刃毀れが余りに酷かったら「研ぎ」位はするだろうが)、見事な仏像を彫り上げているのだと想像される。ここから「『武蔵』鑿を択ばず」という諺も出来そうだが、勿論それは「弘法筆を択ばず」に倣っている。


「弘法筆を択ばず」の意味は、「弘法大師は筆のよしあしを問題にしない。真に一芸に長じた人は、どんな道具を使ってもりっぱな仕事をするたとえ(大辞泉)」という馴染みのものだが、その「弘法筆を択ばず」には、それと正反対の「弘法筆を択ぶ」という、「史実」を根拠としたアンチテーゼがある。「弘法筆を択ぶ」は、空海(弘法)自身が記した「遍照発揮性霊集(性霊集)」の巻四にある「良工先利其刀 能書必用好筆 刻鏤随用改刀 臨池逐字変筆(優れた工人は、何にも優先して工具の刃を良く手入れをするし、字が上手い者は必ず好い筆を用いる。工人が、刻む模様に合わせて刀を変える様に、書もまた書体や書風に合わせて筆を変えるのだ)」から来た諺である。実際、空海は楷書、行書、草書、写経のそれぞれの最高級の筆(書の先進国、中国から持ち帰った技術による筆を、清川(せいせん)なる人物に作らせた)を使い分け、またその筆四本セット(真書一、行書一、草書一、写書一)を嵯峨天皇に奉献している。畢竟「弘法筆を択ばず」は、他人が勝手に「弘法」の名を騙って言ったものであり、その弘法自身は「筆は択びなさいよ」が持論の人であり、且つ自らがそういう人なのである。「筆が悪かったから、良い字が書けなかったよ〜」と言う人なのである。従って、その辺りの事情を鑑みて、「弘法筆を択ばず」は「能書筆を択ばず」とするのが「正しい」とされている。


「能書筆を択ばず」は、実際には中国初唐の三大家と言われる虞世南・欧陽詢・褚遂良の一人、欧陽詢について書かれた「唐書 欧陽詢伝」に淵源がある。そこには、三大家の一人である褚遂良が、三大家の別の一人である虞世南(褚遂良より年長)に対し、自身の書について尋ねる箇所がある。


遂良「某書何如永師(智永禅師と比べて僕の書はどうだろう)」
世南「吾聞彼一字直五萬 公豈得若此者(あの人の字には、一字に付き銭五万の価値があると聞いている。でも君のは全然駄目」
遂良「何如歐陽詢(では欧陽詢と比べたらどうだろうか)」
世南「聞詢不擇紙筆皆能如誌 公豈得若此者(あの人はどんな紙、どんな筆でも、自分の意のままの字が書けると聞いている。だから(紙や筆の良し悪しに左右される)君のは全然駄目」
遂良「既然,何更留意於此(じゃあ、僕はどうすりゃ良いんですかっ?)」
世南「若使手和筆調 遇合作者 亦深可貴尚(筆遣いを和らげて整えれば、結構良いとこまで行くんじゃない)」


しかしこの「能書は筆を択ばず(善書は紙筆を択ばず「後山談叢」)」も、「王肯堂筆塵」では「能書は筆を択ばずというのは欧陽詢までの話。その後はみんな紙筆を問題にする様になった」みたいな事が書かれている。周顕宗の「論書」には、「善書は筆を択ばずと言う者もいたりはするが、しかしそれは一般論とは言えない。恐らく行書、草書を書く者についてこう言っているのだろうが、一方で楷書・篆書・隷書を書く場合は、やはり筆の良し悪しがあるから、結局筆を択ばざるを得ないのだ」みたいな事も書かれていたりする。「能書必用好筆」と言って憚らない空海は当然こちらの側に属しているが、「筆を択ばず」と「筆を択ぶ」という、それら作品に対する意見の相違は、即ち「良い作品(能書)」の「条件」をどう考えるかという、それぞれの「作品観」の相違に基づいている様にも思われる。それは「やっぱりかわいくなくちゃだめでしょ」と言うのか、それとも「キミかわいいよね でも それだけだよね(忌野清志郎)」と言うのかの違いに比せる様な気もする。凡そ「能書」という概念は、例えば御婦人の魅力の如くに一筋縄では行かないものなのだ。

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円空や木喰に関しては敢えて説明するまでも無いだろう。彼等の生活の基本は「行脚僧」や「遊行僧」である。日本各地を、雲が定めなく行くが如く、水が流れて止まないが如くに「旅」する人である。その「旅」は、 "trip" とも "journey" とも、況してや "tour" とも訳せないものだ。


うん‐すい【雲水】
《「行雲流水」の略》
1 雲が定めなく行き、水が流れてやまないように、一所にとどまらない自由な人。また、そのような境涯。
2 行方を定めないで諸国を行脚する修行の僧。雲水僧。雲衲(うんのう)。


大辞泉


円空や木喰(穀断ちの意味を持つ)もまた托鉢していただろう。必要最低限の荷物と機能的で簡素な服装が修行僧のスタイルだ。トランクやキャリングケースは持っていないに相違無いし、そうしたものを持っていたら、それだけで修行僧としてはダメダメであろう。


木喰も多作であるが、円空はそれ以上に多作である。32才で得度し、59才で12万体制作の誓願が成就したと言われている。20数年で12万体という事は、単純計算で一年4,400体余りになり、一日当たりでは12体になる。勿論所謂「木端仏」を含めての数字である。円空が、ちまちまとその日制作した仏像の数を細大漏らさずカウントして、あと何体彫れば請願成就だぁ〜っなどと独りごちている様を想像するのも、楽しいと言えば楽しい。通常、彫刻家や画家は、「これが人生で通算何作目」などとカウントしないものだ。円空が数の上で請願成就に拘るのであれば、当然「制作カウント表」を作り、肌身離さず持参していただろうと思うのが自然ではある。


円空仏も木喰仏も「鉈彫り」とされている。鉈一本で全てを彫ったと言われてもいて、それがまた半ば伝説化しているものの、しかしその様な「奇跡」があり得ない事は、実作を見れば誰でも直ちに判る。それはまるで鉈で鉛筆が削れる(削れるかもしれないが、だからどうだと言うのだ)と言っている様なものであり、従って実作を見ていないか、鉈を全く使った事が無い人間か、或いは「弘法筆を択ばず」の悪しき信仰者の何れかが、そうした「奇跡」を見たい一心で、有りもしない「伝説」を流布しているだけなのだろう。実際には彼は用途別の種々の鑿を使い分けている。その数1本とも10本とも言われている。円空もまた性霊集にある「刻鏤随用改刀」=「刀を択ぶ」の人であり、その点で、彼は鑿一本の「噂の武士」の「宮本武蔵」とは異なっている。仮に円空が「刀を択ばず」の、リアルに鉈一本の人であったら、円空仏は全く違った造形になるだろう。


円空は鉈や鑿を持参していたという。「噂の武士」の「宮本武蔵」の様な現地調達ではない。「包丁一本晒布に巻いて 旅へ出るのも板場の修行」は藤島恒雄の「月の法善寺横丁」だが、円空や木喰は「鉈鑿一本晒布に巻いて 旅へ出るのも仏の修行」と言えなくも無い。臍穴彫り専門大工の「穴大工(穴屋)」程度の荷物は、常に持って歩いていただろう。言わば拘りの工具という事にもなるが、一方で制作環境に対する拘りというものは無い。それは修行僧が宿泊先を自由に択べないという事情にも関係している。円空や木喰が「択ばず」の人であったとしたら、それは「制作環境を択ばず」という事にはなるだろう。


参考:下呂市の観光マップ 円空http://www.gero-navi.jp/spot_121.html


「制作環境を択ぶ」作品とそうでない作品。意外にも、制作に対する考え方に、大きな影響力を及ぼすのは実は制作環境だったりする。例えばアートスクール等では、学ぶ人に対して、何はともあれ制作の環境を与えるという事をする。制作環境こそが、その人の制作そのものや制作の方法論を決定する最大の要因でもあるからだ。制作環境に対して思考させる前にそれを与える事自体が、既に最大級に教育的な意味合いを持つ。制作するのに「標準」的とされる面積の壁や床や作業台。「標準」的な道具。それらがあって初めて可能な作品を、それらの「標準」的な制作環境に於いて学ぶ人は作る。当然それらは「標準」であり、且つ「標準」でしかない。そうした「標準」を相対視出来る者は、「標準」から逸脱しても制作する事が可能だろう。他方「標準」の磁場から抜け出せない、或いはその磁場に留まる事を選択した学ぶ人は、アートスクールと同じ様な、「標準」的な制作環境を確保しなければならない気にさせられるのだ。


従って、円空仏や木喰仏の形態を、一般的な彫刻論からではなく「制作環境を択ばず」から論じる事もまた可能だろう。通常は円空仏や木喰仏について語ろうとすれば、彫刻的側面からのものになる。だからこそ「現代彫刻へと続く」という短絡もまた可能になる。勿論円空は飛鳥仏等からの彫刻的インスパイア、木喰は平安時代からの鉈彫像等からインスパイアがあったとしても、しかしそれでも基本的には両者とも仏道の為の造仏である。意外にも、NHKの「美術番組」である「美の壺」が、そうした「彫刻」観から外れた円空仏、木喰仏の解説を行なっている。


円空仏と木喰仏には意外な共通点があります。


円空仏。よくみてください。傷だらけでぼろぼろです。こちら木喰仏。すり減ってつるつるになっています。


(略)


岐阜県のお寺に伝わる円空作の薬師如来。体も顔もぼろぼろに痛んでいます。近所に住む年輩の人が、その理由を教えてくれました。


村の人 「ま、おもちゃがわりっていうかね。水泳にこれをね、今で言うと浮き袋ですか。このようにしてどぼんどぼんどぼんとやったり。」


「ばーっと放り投げたですね、ばーっと。案外広いところやでね、みおるところに。ばーっと。犬かきでいって早く行って掴むとか。」


「これは木ですから沈まないんですよ。これはずーっと浮き上がるわけですから。それなりの遊び方があるんですね」


幾世代にも渡って子供の遊び相手を努めるうちについた傷。


円空仏は、人々の暮らしに溶け込み、親しまれていたからこそ、ぼろぼろになったのです。


一方木喰仏も負けてはいません。地域のお堂に祭られたこの木喰仏。すっかりはげて、笑顔も消えています。
さて、どうしてこうなったのでしょうか。
ヒントは、像の後ろにある大きなくぼみ。実は雪の日、子供達がこれをソリ替わりにして遊んだというのです。長い間子供達と遊んですりへってしまった顔。でもなんだかにっこり微笑んでいるように見えませんか?


円空仏と木喰仏は子供の遊び相手を努めただけではありません。


円空三十三観音像。観音は、人々の苦しみに応じて、三十三の姿に変化(へんげ)し、救うといわれています。


実際に数を数えて見ると・・。おや、31体。2体足りませんね。


住職の説明 「村人がね、ちょっとうちのかみさんが調子悪いとか、おじいちゃんが具合悪いっていうような時があった時に仏様をお借りして行って枕元に置いて一所懸命お祈りしたと。で、そういうようなことであちこち貸し出している内に、なくなってしまったということらしいですね。」


病に苦しむ人々が手を触れたときについた傷。円空仏は、人々をほんのまじかでやさしく見守ってきたのです。
木喰仏にもこんなエピソードがあります。宮崎県西都(さいと)市に残る木喰の自刻像。顔が見事にすりへっていますね。


こんな訳があるそうです。


郷土史日高先生 「木喰上人様の去られた後、 少しずつ拝みながら削って、いろんな体の調子が悪い時、それを頂いて、飲まして頂いたらしいと。こうやっぱり飲まれたんでしょうね。もうちーっとやから。それをお湯にいれておうっとですね。」


木喰は、薬草にも詳しく病人を診察したといわれています。いつしか人々は、木喰の像を煎じて飲むと効き目があると信じるようになったのです。


ぼろぼろつるつるになった仏たち。 この傷は人々の喜びも苦しみも一身に受けてきた証なのです。


美の壺」File13 円空と木喰 http://www.nhk.or.jp/tsubo/arc-20060630.html


ここにもまた「択ぶ」「択ばず」がありそうだ。即ち「用を択ぶ」と「用を択ばず」。換言すれば「どう扱われるかを択ぶ」と「どう扱われるかを択ばず」という事である。同じ羅漢像であっても「美術作品」として「用を択ぶ」ものもあれば、円空や木喰の様に「用を択ばず」のものもあるだろう。そしてどうやらそれが、様々な「択ぶ」「択ばず」に少なからぬ影響を及ぼしている様にも思われる。その意味で、円空仏や木喰仏は「現代彫刻」には決して続かないのだ。そこには埋め様の無い断絶がある。

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「噂の武士」の「宮本武蔵」は、実は偽物だった。「宮本武蔵」は、宿の「客寄せ」として呼ばれて各地を転々とする人物だった。「この彫像をおいて行く これを見たさにまた客が集まる」と宿の主人に告げる「宮本武蔵」。超一流の剣の腕に、超一流の彫刻の技。それでも彼は食っていけない。ラストのページでの平田の独白。


男は言っていた 世の中には一流以上の才能を持ちながらめぐまれぬ者もいると


私は思った 彼が武蔵のニセ者であっても彼自身は本物であると………


男の肩にはあの勝負の世界の孤独感よりも生きるためのキビシサがズシリとのしかかっているように思えた


つげは、こうして「ノマド」を描く事に成功した。


【了】