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焦燥

承前


そういう訳で、動物園にしても、美術館にしても、博物館にしても、それは明治の初年に、突如として平たい顔族の日本の地に現れたものだ。時経て、昭和から平成に掛けては、動物園にしても、美術館にしても、博物館にしても、それが出来れば、多くは歓迎されたりもした。現代日本では、それらが出来る事で「糞ッ、美術館なんか出来やがって忌々しい」と思う者は「少なかった」。


しかし最近では、動物園にしても、美術館にしても、博物館にしても、予算削減の憂き目に会う事が多い。インフラ整備とそれらではどちらが優先されるべきであるとか、景気対策とそれらではどちらが優先されるべきであるとか、福祉とそれらではどちらが優先されるべきであるとか、教育とそれらではどちらが優先されるべきであるとか、そんな高校の部活の予算獲得折衝みたいな事が、大の大人の世界でも行われている訳である。「いらねえよ」とまでは思われていなくても、「この辺にしておいてよ」を、表立って言われる様にはなった。兎にも角にも金が無い。そうした場合、大抵「文化部」は弱いものだ。


高校の部活にしても、大の大人の世界にしても、「文化部」はそうした折衝事には大抵負ける事になっていて、負ければ周囲に対して言う文句は、高校生も大の大人も大抵決まっていて、「日本は遅れている」のバリアントを口にしたりして、それで溜飲を下げるだか上げるだかをするのだが、溜飲を上げたら喉が酸っぱくヒリヒリするばかりなのである。そもそもが、こうした「日本は遅れている」というジリジリした「焦燥」から、動物園にしても、美術館にしても、博物館にしてもが、明治初年に一斉に出現した訳であり、要はそれらを日本に出現させた、「富国強兵・殖産興業」をももたらせた「焦燥」は、事ある毎に「欧米並み」を持ち出す限りに於いて、未だに生き続けていると言える。


動物園にしても、美術館にしても、博物館にしても、それらが日本に出現しなければならなかったのは、それらが出来る以前とは、日本人の精神活動面に於いて、桁違いの進化(欧米並み)をもたらす為にであろう。動物園が出来ても、美術館が出来ても、博物館が出来ても、それでも日本人の精神活動が、一向に、或いは目立って向上しないとなれば、それらを作る意味も何もあったものではない。動物園が出来れば、動物に対する「理解」が「それ以前」とは桁違いに深まり、美術館が出来れば、美に対する「理解」が「それ以前」とは桁違いに深まり、博物館が出来れば、歴史に対する「理解」が「それ以前」とは桁違いに深まるとされるからこそのそれらの存在であり、そうした「それ以前」との「桁違い」の実現に、日本は約1世紀半を費やすものの、未だにそれは、かなり「手前」の「途上」にあると言える。「文化部」にすれば、百数十年掛けても一向に「進まない」事態に、一体何が、その「実現」に「ブレーキ」を掛けているのだろうかと思いたくなる事も多いだろう。


動物園や、美術館や、博物館が出来た事で、それ以前の、即ち日本の近代化以前とは、日本人の精神活動に於いて、雲泥の差が存在すると仮定してみる。となれば、導き出される結論は、それらが出現する前の、「それ以前」の日本人の精神は「雲泥」の「泥」、即ち「暗黒状態」であった事になる。「暗黒状態」で無ければ、殊更にそうしたものを作り続ける意味が無いからだ。現在、それらの施設の予算が削られたりすると、途端に精神の「暗黒状態」に陥る、この百数十年が無駄になる的な言い方をされる訳であるが、であるならば、それらが出現する前の日本もまた、精神の「暗黒状態」であったとしなければ、そうした指摘は矛盾に陥ってしまうだろう。


そうした「それ以前」の、精神の「暗黒状態」について、幾つか書いてみる事にする。キーワードは「風流」だ。


【続く】