モッサリ


先日の思いつきどおり、後期試験は、オカンアートミュージアム設立準備室学芸員に任じられた<あなた>がそれを如何に企画・展示するか?という課題に決めた。課題内容の説明(指示書)をメール配信する手続きを終え、きょうは終了。

https://twitter.com/#!/nakashima001/status/144849196892164097


留意ポイント。「オカンアートを扱うことの困難さとは、それが私たちにとって完全に対象化することの不可能なアートであることです。それは私たちの生活記憶のなかに浸潤し、潜勢しています。でなければ、それがお洒落な部屋をたちまちにしてモッサリさせてしてしまうことすら感受できないわけです。」

https://twitter.com/#!/nakashima001/status/144852904451391489


このような、既に<血>のごとく浸潤している類いのミームと向き合うことをしなければ、モノカルチュラルな批評眼や学習された価値基準から抜け出すことは難しいだろうと思う。それはなにより(その基準によって埋没する)日本のアーティストにとって不幸なこと。

https://twitter.com/#!/nakashima001/status/144856262226616320


中島智氏ツイートより

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それを「知らない」という向きに。


http://www.geocities.jp/loveokan/okanart/museum/


オカンアート

オカンアートとは主に中高年の主婦(母親=オカン)が余暇を利用して作る自宅装飾用の芸術作品の総称である。

具体例を挙げればドアノブ飾り、刺繍入り家電カバー、タオル掛け、人形、牛乳パックアートなど様々。

2003年ごろ、巨大電子掲示板2ちゃんねるにおいて娘が母親の作品を紹介した事が発端で話題となり、命名された。

マスメディアやカルチャーセンターなどで紹介される手芸や工芸の手法を参考に、主に紙などの家庭内で生じる廃棄物を利用して作製されるため、概して安っぽい見た目である。また本人が制作活動に飽きるまではどんどん増えていき、室内をもっさりとした脱力系の雰囲気にしてしまうことも多い。


Wikipedia「オカンアート」
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%AA%E3%82%AB%E3%83%B3%E3%82%A2%E3%83%BC%E3%83%88


ここで「知らない」という向きは、かなり少なくなったであろう。あれである。元になった2ちゃんねるによる「解説」はこうだ。


【脱力!】 オカンの芸術作品 【恐怖!】


1 名前:おさかなくわえた名無しさん[] 投稿日:03/03/28 05:11 id:waV2EMQB
 油断してるとドンドン増え瞬時に部屋をモッサリさせる脱力兵器
 役に立たないオカンの芸術作品について語りましょう。


 油断してると郵送されてきたり(郵便物爆弾)
 部屋に飾られたり(地雷型)
 ついには自分でも、つい作ってしまう。という 感染の恐れあり(細菌兵器)
 の脱力芸術の数々について(写真のウプもウェルカムです!)


http://www.geocities.jp/loveokan/okanart/01/


2ちゃんねる生活板オカンアートスレ過去ログまとめ
http://www.geocities.co.jp/Foodpia/2512/okanart/index.html


2ちゃんねる的なスレタイトルのフォーマットに基づいて、「オカンの芸術作品」を【脱力!】と【恐怖!】が囲んでいる。それは、「【脱力!】且つ【恐怖!】」という事なのか、「【脱力!】であるが故に【恐怖!】」という事なのか、「【恐怖!】であるが故に【脱力!】」という事なのか。


「オカンアート(以後「オカン・アート」)」単体で、直ちに【脱力!】であったり、【恐怖!】であったりする訳では無いだろう。例えばたった一つのティッシュケースが、毛糸でモコモコになっていたり、デコパージュで覆われていたりしていたとしても、確かに若干の「脱力」を感じたりはするものの、決して【脱力!】や【恐怖!】までに至るものではない。「オカン・アート」が【恐怖!】や【脱力!】の対象であるのは、「油断しているとドンドン増え」、また「油断してると郵送されてきたり(郵便物爆弾)」、「部屋に飾られたり(地雷型)」といった「増殖」性にこそある。仮に「オカン・アート」単体が、不穏なものとして現れたとしても、それは後の増殖と、それによる侵略を予感させるからだろう。


それにしても「オカン・アート」である。それは「オカン」と「アート」が組み合わさって出来た名称だ。世には多くの「アート」と呼ばれるものがあり、その中でも「コンテンポラリー・アート(現代アート)」は、比較的良く知られたものだろう。「コンテンポラリー・アート」には多くの下位概念があり、「ポップ・アート」「ミニマル・アート」「コンセプチュアル・アート」等々が存在する。それらの名称を構成するそれぞれの語は、前者が後者を形容する様な形になっている。即ち「コンテンポラリーなアート」「ポップなアート」「ミニマルなアート」「コンセプチュアルなアート」等々であり、前者は形容動詞としての働きを持ち、「・」は「〜な」の意味を持つ。


しかし「オカン・アート」はそうではない。それは「オカンによるアート」を意味し、「未開人によるアート」「子供によるアート」「障害者によるアート」「動物によるアート」等と同じ様な「〜によるアート」である。即ち「〜なアート」は「アート」の「本流」を形成するものであり、「〜によるアート」は「アート」の「末流」、乃至は「アート」の「外部」に存在し、観察次第では「アート」にも見えるものを指す。従って「オカン・アート」的な「〜によるアート」には、唯一除外されているものが存在する事が判る。それが鶴見俊輔言うところの「純粋芸術(Pure Art)」である「アーティストによるアート」であり、「オカン・アート」と同じ様な意味で、「アート」の「本流」とされているものを、「アーティスト・アート」とは普通言わない。


もう一つ「オカン・アート」で重要だと思われるのは、「オカン・アート」は「アーティスト・アート」界から命名されたものではないという事だろう。例えば「アール・ブリュット」には、それを命名する「アーティスト・アート」界の事情というものが大いにある。「アール・ブリュット」は、「アーティスト・アート」の反命題として存在する。「アーティスト・アート」に対して、他ならぬ「アーティスト・アート」界が自己批判する為にこそ、「アール・ブリュット」は存在するとも言える。「アーティスト・アート」の「テーゼ」に対し、「アール・ブリュット」は「アンチテーゼ」として存在する。そしてそれらは、やがて来る形のアウフヘーベンされた「ジンテーゼ」によって「統合」される。勿論それは「アーティスト・アート」の勝手な思い込みだ。「アーティスト・アート」を何ら批判しない形で、「アール・ブリュット」に言及した「アーティスト・アート」界の言説を、寡聞にして知らない。「〜によるアート」は、時に「アーティスト・アート」にとって、「都合の良い」対象として要請され、「都合の良い」外部存在(アンチテーゼ)として固定化される。


しかし「オカン・アート」の命名者は「2ちゃんねる」である。従って「アーティスト・アート」が命名した「アール・ブリュット」の「アール」と、「2ちゃんねる」の「オカン・アート」の「アート」が、語としては「同じ」ものでありながら、しかし全く違うコノテーションを持つものである事に留意すべきだろう。「オカン・アート」は、「アーティスト・アート」のアンチテーゼとして顕現しない。「アール・ブリュット」には、例えば「ブリュットな人にもアール(アート)が出来る」という含意もある事と思われる。そこでの「アール(アート)」は、飽くまでも高位の存在として、ポジティブな意味を持つだろう。しかし「オカン・アート」には「オカンにもアートが出来る」という意味は存在しない。寧ろ「あ〜あ、オカンが『アート』をやっちゃったよ(´・ω・`)」的な含意があり、その「アート」は、例えばあの pixiv の「現代アート」タグの「アート」に見られた様な、侮蔑的表現としての意味があるだろう。即ち「アート」=「ブーイングの対象」である。「アート」が標榜する「愛」は、ここでは全くと言って良い程に通じないどころか「迷惑」ですらある。


一方で、「オカン」もまた、古今東西の芸術家が賛辞を捧げた「母」ではなく、従って森進一(川内康範)が歌い上げるところの「おふくろさん」でもなく、経産であるか否かに関係なく(即ち、母であるか否かに関係なく)、生活臭を漂わせた中年以降の女性に対して、半ば侮蔑的に向けられる言葉である。決して「聖オカンマリア」と言わない事でも、それは明らかだろう。「オカン」に極めてポジティブな意味があるのであれば、「聖母マリア」ならぬ「聖オカンマリア」には少しも問題は無い。少し前なら「オバタリアン」と言われていた存在にこそ、「オカン」は近いとも言えよう。


こうして「オカン(侮蔑語)・アート(侮蔑語)」というかばん語の重畳(数学的累乗ではないので、マイナス×マイナスはプラスに転じない)性が、「オカン・アート」をして【脱力!】【恐怖!】たらしめるのだと言えるだろう。それがよりによって、それを専門に扱う「オカン・アート・ミュージアム」が設立される(フィクション)というのだ。これは、例えば公民館の「会議室」や、信金の「ロビー」辺りで行われている、自主企画された「オカンアート」の展示発表会と、どこが異なり、どこを異ならせなければならないのだろうか。「オカン(侮蔑語)・アート(侮蔑語)」の「アート(侮蔑語)」から侮蔑性を取り除いてやり、それをポジティブな「アート(尊敬語)」に変えてやれば、それで良いのだろうか。しかし、すると、「チンパンジー(侮蔑語)にもアート(尊敬語)が出来る」的な、何だかいつもの構図に収まった気もしなくもない。では、「オカン(侮蔑語)」を「母(尊敬語)」に変えてやり、「母(尊敬語)・アート(尊敬語)」に変えれば良いのだろうか。しかし恐らくそれは、「オカン・アート」とは全く別のものになる気がする。


「オカン」概念が、「母」概念とイコールではないのは、「母」の裏面が「オカン」であるからだろう。それはどこかでコインの裏表の関係にある。「母」は自分を産み育てた大切な存在。しかし「オカン」は自分の生活に介入しようという迷惑な存在。大切と迷惑の同居が「母/オカン」である。「オカン・アート」の「モッサリ」が、例えば「子」の空間に侵入してくるのは、勿論「オカン」の中の「オートマトン」による部分も否定は出来ないものの、しかしそれもまた「母/オカン」の「愛」の形の一つなのである。「お洒落」や「シンプル」な空間というものは、「母/オカン」にとっては「殺風景」や「殺伐」にこそ見えたりもする。買ってきたそのままというのは、生活の「潤い」に欠けると見えたりもする。だからこそ、「こんなの近くのスーパーやコンビニに、幾らでも売っている」というスナック菓子や饅頭を、事ある毎に宅急便で送ってきたりする様に、生活の「潤い」を向上させるものとして、「オカン・アート」を送って来たり、生活空間の中に侵入させようとする。それは紛れも無く「愛」の形なのだ。だからこそその否定が困難なのである。


世界に「アート」が満ちていくのは、専ら「愛」に由来する。そして「オカン・アート」が世界に満ちていくのも、アートの一ジャンルであるが故に、同様に「愛」に由来している。これらが「憎」に基づいて制作され、それが世界中にばら撒かれるのであればまだしも「救い」がある。「憎」に基づいて、これらが世界を侵略しているのであれば、何らの躊躇も気兼ねも無く、「善」を根拠にしてそれらを排除、駆逐する事が可能だ。しかし「愛」によるものはそうは行かない。「愛」を否定する「善」を構築しなければならない。「地球侵略を目論む」と言えば、直ちに「悪」を連想させるが、「『愛』で地球侵略を目論む」と言えば、それは果たして「悪」であろうか、「善」であろうか。「オカン・アート」という「愛」の形を否定するには、その「愛」よりも強力と見做される原理(「善」)を持ち出さねばならない。それは「美術史」なのか。「美学」なのか。しかし、「オカン」にそんなヘッポコ原理が通じるものだろうか。


「オカン・アート・ミュージアム(再念為:フィクション)」には困難さが伴う。恐らく「ミュージアム」という存在と、「オカン・アート」は相性が悪過ぎる。「オカン・アートの巨匠」であるとか、「オカン・アートの注目の若手」であるとか、「世界が注目するオカン・アーティスト」なるものをでっち上げれば、幾分かは楽になるかもしれないが、それは最早「オカン(侮蔑語)・アート(侮蔑語)」ではないだろう。「オカン」を「オカン」のまま、「アーティスト」という括りを一切せずに、「アノニマス」な儘で扱った場合、ミュージアム・ショップで、それなりにいい値段をしたモコモコのドアノブや、毛糸製のマウスカバーを、来場者は購入するものであろうか。それは、今の今まで「迷惑」でしかなかったものなのだ。しかし一旦「オカン・アートの巨匠」、「オカン・アートの注目の若手」、「世界が注目するオカン・アーティスト」の「作品」ともなれば、飛ぶ様に売れるかもしれない。そんなドタバタな映画を作ったら、それはそれで面白いかもしれない。要は、いきなり「ミュージアム」の職員から「10万人目の来場者です」等と言われて、「オカン・アート」を大量にプレゼントされて、館長と記念写真かなんかを撮らされて、それで「喜べる」様なら「オカン・アート」は「アーティスト・アート」に回収されたのであり、その一方で、その「記念プレゼント」やらに「迷惑だから捨てて下さい」と躊躇なく言える様なら、「オカン・アート」は「オカン・アート」の儘であり、「アーティスト・アート」とは全く接点を持たないものであり続ける。


「オカン・アート・ミュージアム」。それはホワイトキューブに、それぞれの間隔を良い具合に調整して「作品」として見せても詮無いものであろう。「オカン・アート」の真の「魅力(笑)」は、「お洒落」という「美学」を台無しにする程の増殖性こそにある。即ちミュージアムのホワイトキューブは、ホワイトキューブの機能が失われる位にモッサリとせねばならず、当然トイレも、館内レストランも、チケット売り場も、コインロッカーも、全てが「オカン・アート」で満ちていなければならない。要は「オカン・アート・ミュージアム」そのものが、侮蔑の対象とならねばならないのだ。


「あそこに行くと、100人のオカンが待ち受けていて、油断していると、オカン・アートをカバンの中に、どんどん押し込まれる事になるぞ」


「オカン・アート・ミュージアム」は、来場者を【恐怖!】に陥らせ、【脱力!】でヘトヘトにさせて、足腰を立たせなくしてこそ、「成功」なのである。それ自体が【恐怖!】と【脱力!】の存在としての「ミュージアム」。そこでひたすら元気なのは、「オカン・アート・ミュージアム」で、「オカン・アート」を観客のカバンの中に押し込みたい「オカン」だけなのである。


何だ。その辺、普通の「アーティスト・アート・ミュージアム」と、全く同じではないか。


(2009年08月21日初出のものを、大幅に加筆修正)