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転倒

「箸が転んでもおかしい年頃」という言葉がある。大辞泉には「ちょっとしたことでもよく笑う年頃。思春期の娘にいう」、大辞林には「なんでもないこともおかしがって笑う年頃。女性の十代後半をいう」とある。広辞苑の最新バージョンは手許に無いので知らないが、似たり寄ったりの内容だろう。


しかしそうした「思春期の娘」達、「十代後半の娘」達は、或る時には「スプーンが落ちてもおかしい」だろうし、「醤油差しの口から醤油が垂れてもおかしい」だろうし、「魚の骨が歯の間に挟まってもおかしい」だろう。「箸が転んでもおかしい年頃」は、決して「箸が転べば必ずおかしくなる年頃」という意味ではない。その年頃の娘を笑わそうとして、箸を持ってきさえすれば、それで全てが事足りるという意味ではない。そうした娘達と仲良くなろうとして、「ほうら箸だぞ。おもしろいだろう。おもしろがれよ。女子供はこれが好きな筈だ」などという大人のアプローチが仮にあるとしても、残念ながらその殆どが失敗に終わるだろう。この場合、「おかしさ」にとって、「箸」は蓋然的な位置に留まり、決して必然的なそれではない。「箸」自体には、娘達を面白くさせる要素など一つも無いのだ。


週刊文春7月14日号の、劇団ひとりの連載コラム「そのノブは心の窓」は、「娘が笑わなくなった」だった。手許にその雑誌が無い(資源回収に出した)ので、うろ覚えで書くが、生後10ヶ月の、劇団ひとり大沢あかねの長女が、それ迄笑い転げていたものに対して急に笑わなくなった。そもそも、大人の目からすれば、何がおかしいのか一向に判らない事で乳児は屈託なく笑う。その「笑いのツボ」が、プロの芸人である劇団ひとりには良く判らない。プロの芸人の基準からすれば、面白くない事でも乳児は笑い、逆にプロの芸人が面白いと思った事は、余り乳児にはウケない。そしてそれまでウケまくっていた乳児向けの「芸」は、急にその乳児によって、あっさりと飽きられてしまう。そういった内容であったと思う。


乳児もまた、トイザらスで売られている様なおもちゃ(良く出来ている商品)をおかしく思う事もあれば、それに全く反応しない事もある。そうした考え抜かれたおもちゃ(良く出来ている商品)よりも、単なる野菜スティックに反応する事もあれば、水を入れたペットボトルに興味を示す事もある。「箸が転んでもおかしい年頃」を捩って言えば、「野菜スティックがおかしい年頃」とも「ペットボトルがおかしい年頃」とも言えるのが乳児だ。


しかしそうした「年頃」は長続きしない。やがて「ただ箸が転んでもおかしくない年頃」や「ただの野菜スティックではおかしくない年頃」や「ただのペットボトルではおかしくない年頃」になっていく。そして、「『ただ』のもの」で、十分におかしく思えるという、或る意味輝かしく楽園的な「年頃」から追放されてしまったそうした人達の為に、「芸術」は存在するとも言える。


「芸術」。その多くは「『ただ』のもの」ではない。確かに、箸が転んでもおかしかった事を忘れた人の目の前で、「ただ」箸を転がせる様な事をしても、多くの場合何の反応も無いだろう。「芸術」は、箸が転んでもおかしかった事を忘れてしまった、その能力が失われてしまった人達に対して、創意工夫を重ねて、箸が転ぶ様をおかしく見える様にしようという「笑いのツボ」を探し求めようとする工夫をする商売だ。それは「箸が転んでもおかしい」事を忘れた人達に対して、お笑い芸能という商売が存在する様なものだ。或る芸術家は、箸を巨大にする工夫をするかもしれない。或る芸術家は、箸をカラフルにする工夫をするかもしれない。或る芸術家は、大地を吹く風によって箸が転がる工夫をするかもしれない。或る芸術家は、箸を転がせるハイテク機械装置を工夫するかもしれない。それらはいずれも「箸が転ぶ」事を主題化した「芸術作品」だ。


「箸が転んでもおかしい年頃」の人にとって、「箸が転ぶ」事は世界の転倒(転ぶ)を意味する。乳児にとっての野菜スティックやペットボトルも同じ様な意味があるだろう。それはその時には「箸が転ぶ」事でなければならなかったし、また別の機会には「箸が転ぶ」事でなくても良い事だ。しかし箸が転んでもおかしかった事を忘れてしまった者による「箸が転ぶ」事を主題化した「芸術作品」はそうではない。いつ如何なる時にも、箸は華麗に、時には晦渋に転ばなければならない。「芸術作品」に於ける「箸が転ぶ」おかしさは常に一定している。一定しているからこそ「芸術作品」としての価値はある。世の中の人間が、箸が転ぶ様な極めて簡単な事で、世界が転倒する事を覚えている者ばかりであれば、芸術家やお笑い芸人は、途端に飯の食い上げになってしまう。


80年代後半から90年代の頭に掛けて、美術作品が異常に巨大化した時期があった。個人的には、主にアメリカの美術界がそれを主導してきた印象があるが、兎に角「巨大」に「箸を転ばせる」事が、「崇高の美学」として語られるという事も無くはなかった。「崇高の美学」には元手が掛かる。この時期から「芸術作品」の「原価」は極端に高いものとなる。「箸の転び」を「崇高」におかしく見せようとするにも、莫大(崇高)なコストが掛かる様になったのだ。


「崇高の美学」は基本的に事実上網膜的である。網膜を介しない崇高。そうしたものがあるとしたら、それは「箸が転んでもおかしい年頃」や「野菜スティックがおかしい年頃」や「ペットボトルがおかしい年頃」の人達こそが知っているのかもしれない。高さ10数センチばかりの仮面ライダーオーズ(新番組のフォーズとしておいても良い)や、キュアビートの「お人形」に、或いは高さ数十センチの砂場の山や積み木の城に、高さ数十メートルの彫刻を遥かに超える世界を見る能力を有する年頃であれば。


網膜があまりに大きな重要性を与えられているからです。クールベ以来、絵画は網膜に向けられたものだと信じられてきました。誰もがそこで間違っていたのです。


マルセル・デュシャン


考えてもみれば、誰もが「箸が転んでもおかしい」ままでいれば、何時如何なる時でも、何に対しても世界の転倒を見出せられるままでいれば、その様なコストを掛ける必要性も少なくはなるだろう。練りに練られた「箸の転び」を次から次へと作り続けるよりも、「箸が転んでもおかしい」人達を作る方が、余程合理的で低コストではあるだろう。そうすれば、何も美術館や美術イベントに行き、立派な形に整備された「箸の転び」を見るまでもなく、日常生活の中で、幾らでも「世界の転倒」に出会い、それを堪能する事が可能になるかもしれない。


そして尚も、多くの「芸術家」は、多少なりとも箸が転んでもおかしかった事を忘れていない者ではあるだろう。作品のアイディアが、そうした日常的な「箸の転び」から得られている事も少なくはない。美術館に行き、そこで他人の「芸術作品」を見て、そこから自らの作品のアイディアの構想を得るというのも勿論悪い訳ではなく、そうした過去作品への注釈的な意味を持つ作品もまた少なくはない。当然、その作家にとっての「世界の全体」はそれなのであり、世界の転倒もそこにあるからだ。


芸術家と、そうでない者の分断をしたい訳ではないが、それでもそこに分節線を引くとすれば、箸が転んでもおかしかった事を忘れているか否かという例もあるだろう。誰しもが芸術家になれる訳ではないとしても、芸術家の側にいる事は可能なのだ。