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数年前の関東ローカルのテレビCMに、「東京ガス」の「ガス・パッ・チョ!」シリーズがあった。当時急速に普及し始めた「オール電化東京電力)」に対抗した、ガス会社による反撃の意味を持つシリーズだった。


シリーズに共通していた設定は、独身(想像)の若い男(妻夫木聡)の部屋のクロゼットが「タイムマシン」の出口と化し、そこから「歴史上の偉人」が飛び出してくるという「タイムトラベル」ものである。21世紀の「ガス器具の進歩」に驚く、過去から来た「歴史上の偉人」は、後代に纏わされた「大河ドラマ」的「歴史の重み」とは程遠い、極めて等身大の人間として描かれている。タイムトラベル物の特徴の一つに、過去と現在、現在と未来を繋ぐ最大公約数が、「等身大」である事がキーポイントになっている事が上げられる。デロリアンで過去に行き、そこで等身大の若き日の父母に会うマーティ・マクフライ、「暴れん坊」をしまくる「等身大(笑)」の八代将軍徳川吉宗と共に、グリードと戦う仮面ライダーオーズ


「ガス・パッ・チョ!」シリーズには、ピピッとコンロ「信長(利休)」篇、ミスティ「ガリレオ」篇、エコジョーズ「ベートーベン」篇、床暖房「小野妹子」篇、マイホーム発電「フレミング」篇、エコウィルニュートン」篇、ピピッとコンロ「信長光秀」篇、床暖房「赤穂浪士」篇、ミスティ「シェークスピア」篇、ピピッとコンロ「信長・本能寺」篇、ガスファンヒーター「ノーベル」篇、エコウィルマルコポーロ」篇、ミスティ「福沢諭吉」篇等がある。


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数日前にデュシャンの事を書いたのは、この妻夫木聡の部屋のクロゼットから、デュシャンが転がり出てきたらどうなるだろうと考えたからだ。勿論ガス会社の宣伝らしく、100年後の「ガス器具の進歩」に驚きつつ、ピピッとコンロや給湯器を、次々と「レディ・メイド」としていくデュシャンという設定も悪くはない。ミスティに入って身体を洗いながら「1.落下する水と、2.ガスが与えられたとせよ」と言ったりするデュシャンに、妻夫木聡が「だからそれが一体何なの?」とツッコミを入れると、デュシャンが「あ、今『覗いた』でしょ」と返すというオチで15秒。しかしそうした企画以前に、中高の歴史教科書に載っていない人物の登場に、大部分の一般テレビ視聴者からは「デュシャンって誰よ?」という事にはなるだろう。ならば、デュシャン登場時に、妻夫木聡に「あんた誰?」と言わせるという手も有りかもしれない。


今から100年前、1911年のデュシャンは24歳の青年で、現在フィラデルフィア美術館が所蔵する「階段を下りる裸体 No.1(Nu Descendant Un Escalier, No. 1)」を、M30号程の大きさのカードボードに油彩で描いていたりした。



その作品は、翌年デュシャン25歳の時に描かれた、彼の初期の代表作の一つとされる「階段を下りる裸体 No.2(Nu Descendant Un Escalier, No. 2)」の祖型になり、その「No.2」はと言えば、1913年にはニューヨークのアーモリー・ショー(「国際現代美術展」"The International Exhibition of Modern Art" )で物議を醸した、デュシャンの最初のスキャンダラスな作品(パリ時代にも美術界の一部で物議は醸したものの、このニューヨークでのそれは、新聞漫画のネタにまでなるスキャンダルであった)であり、これがアメリカに於けるデュシャンの名を決定的に有名なものとした。勿論前年の24歳のデュシャンはそれを知る由も無いし、当時、アメリカ移住が頭にあったかどうかも判らない。



しかしその「階段を下りる裸体 No.1」を描く直前には、「ソナタ(Sonata)」や「春の若者と少女(Jeune homme et jeune fille dans le printemps)」の様な、デュシャン的に「足元が定まっていない(他の画家なら一生同じ様な絵を描き続けたかもしれない)」油彩画も描いていたりする。




その年にフランシス・ピカビア(32歳)と知り合い、その3年前の1908年には、フェルナン・レジェ(27歳)やコンスタンティンブランクーシ(32歳)と共に赴いたパリ航空ショー(デュシャン21歳)では、同行したブランクーシ32歳に向かって、「絵画は終った。このプロペラに勝るものをいったい誰がつくれるか。どうだね、君は?」と言ったとされ(生意気)、翌年1909年には、フィリッポ・トンマーゾ・マリネッティ(33歳)が「機銃掃射をも圧倒するかのように咆哮する自動車は、《サモトラケのニケ》よりも美しい」と言ったりした、そんな「時代」である。


河本信治氏は、昨日終了の東京・六本木の森美術館『フレンチ・ウィンドウ展:デュシャン賞にみるフランス現代美術の最前線』の関連イベントの講演会「デュシャンという物語の始まり」の中で、「そんな『時代』」についてこう語っている。


1913年(注:「アーモリー・ショー」の年であり、最初のレディ・メイド「自転車の車輪」が制作された年でもある)という年は歴史的に重要な出来事が重なっています。カフカの「火夫」(『失踪者』)、ニジンスキーの『春の祭典』、カンディンスキーの『純粋芸術としての絵画』の論文が出て、プルーストの『失われた時を求めて』が始まり、フッサールの『現象学』の最初の草稿が発表されている。また、フォードのコンベアシステム(フォーディズムという大量生産のシステム)もこの年に導入されています。そしてかなり重要な出来事は、ニールス・ボーアの【原子模型】が提唱されたことです。それまでの原子模型は太陽系モデルでしたが、ボーアは全く違う概念を提示しました。そしてアイソトープの発見、放射性同位元素が存在することが主張されました。つまり物質が崩壊して変化するという概念が物理学で問題となってきたのです。


http://www.art-it.asia/u/admin_lec/seUiBftqE1R53Jzp0NyT#text6


モード的な意匠のそれではなく、ストラクチャやパラダイム的に全く「新しい」ものが、次々と生まれ出る「そんな『時代』」。その1913年の翌年には、人類初の世界的な国家総力戦となった第一次世界大戦が始まっていて、それもまた20世紀を大きく特徴付けている。河本氏の言葉を借りれば「19世紀的な定義の【近代】と20世紀的な【近代】との間に亀裂が生まれた」のが1910年代の前半であり、言わば20世紀はそこから始まっていると言えるだろう。


自らを20世紀の側に位置付けたい。当然若き日のデュシャンにもそうした野心はあった筈だ。或る意味でギラギラしていた24歳のデュシャン。それ自体が20世紀的な病かもしれない、芸術上の「自分探し」に明け暮れていたデュシャン。それが事もあろうに、妻夫木聡の部屋のクロゼット経由で、100年後の2011年の日本に転がり出て来てしまったのだ。20世紀の側に自らを位置付けたかったデュシャンが見る、しかしその20世紀が「過去」となってしまった21世紀の日本。若いデュシャンは、ここで何をすれば良いのだろう。


それなりに発表場所はある。若い作家の登竜門とされるものもある。風光明媚な地方に行って、土地と関係を結ぶ思い込みと共に発表するという選択肢もある。アーモリー・ショーの如きアートフェアや、最前線の品揃えを誇るアートイベントもある。しかし彼が欲している様な、自作を「話題」化する場所は、1910年代のレベルで言えば、存在しないに等しいだろう。2010年代の「美術」の観客は、そこで何が起きても、作品に対して物分かり良く理解しようとする。換言すれば、21世紀の観客(及び「大衆」)は、「美術」程度の「話題」に対して、すっかり「すれて」いる。その上で、それでもその作品が極端に大きかったり、大仕掛けであったり、光や音によって観客の思考力を剥奪するものであったり、工作が極めて精緻(但し「美術」レベルで)であったり、そのモチーフや描画が新しそうに見えたり、単に露悪的であるか人騒がせであったり、時事的であったりするものが、どうやら21世紀の日本に於ける、気晴らし的な「話題」化の方法論だ。24歳のデュシャンはそのどれを選ぶべきだろうか。


しかしその「話題」の多くは、数ヶ月後に忘れ去られるものである。従って、何をどうやっても「美術」のパラダイムチェンジなど起きようも無く、またそれ以前に、「美術」そのものにチェンジするに足るパラダイムなど無く、或いはまた、そもそも「美術」のパラダイムチェンジなど期待されてもいなさそうで、例えばそうした「物分りの良い」場所に、倒立した便器一個を持ってきても、スキャンダルどころか話題にもならないだろう。それは便器が歴史化されているというだけではなく、そうした1910年代的な「新しい」試みのスタンスそのものが不可能となっている、或る意味で「デュシャン」という在り方が不可能となっているとも言えるだろう。デュシャン29歳の作品「泉(噴水)」の展示の是非を巡る1914年のニューヨークアンデパンダン展組織委員会の席上、組織委員の一人であるジョージ・ベローズが「これから先、もしだれかが馬の糞をキャンパスに貼りつけたものを送ってきたら、それも美術作品として受け入れるのか」というあり得べきスキャンダルに懸念を評した1910年代と、「象の糞」を使用したクリス・オフィーリの「聖母マリア」が引き起こしたスキャンダルとの間にある、埋められない程の論理階梯的相違。そしてまた、「20世紀的な定義の【近代】と21世紀的な【近代】との間に亀裂が生まれた」のが2011年の3月11日だといった様な日本人の発言を、24歳のデュシャンはどこかで聞いたかもしれない。


転がり出た2011年の日本で、デュシャンは何をしただろうか。或いは何もしなかったかもしれない。或る日、24歳のデュシャンは、東京・六本木の森美術館「フレンチ・ウィンドウ展:デュシャン賞にみるフランス現代美術の最前線」を見に行く。24歳のデュシャンの顔など誰も知らないから、回りから騒がれる事もなく、それを思う存分見る事が出来ただろう。20世紀という「過去」にすっかり定位された、自らがこれから作る作品群。そしてその回りには、それを「教養」として物分かり良く「学習」しようという観客。


そして再びクロゼットのドアを開けて、デュシャンは1910年代のパリに戻る。戻った彼は何をしただろう。アニメ絵の「大ガラス」か。まさか。


【了】