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騒動

承前


「カオス*ラウンジ」、或いはその「メンバー」と、特にその2011年に入ってからの一連の「騒動」は、多くの人間(但しごく一部の日本人)にとって、この2011年夏段階で、口籠りの対象であるかの印象を受ける。若しくは、その「騒動」を「触れたくないもの」としているかの印象すらある。或いはまた、それについて書かれていたとしても、その幾つかは、酸っぱいものが口中に広がっている書き手の表情が浮かんでくるかの様だ。いずれも、歯切れは決して良いとは言えない気がする。それでも「文化系」の人の一部には、同じ「文化系仲間」意識故か何かなのだろうか、その実際上の、「仁義」だか、「手順」だか、「礼節」だかの瑕疵を指摘した上で、しかしそれを上回るとする彼等の「コンセプト」を「文化」的に擁護する様な書き方をする人もいる。


彼等の「コンセプト」の核の一つであるだろう、「現代芸術」的な意味での「主体の否定」は、それこそ「現代芸術」の伝統的且つ正統的なライトモティーフであり、その21世紀初頭の日本に於ける最新バージョンとして、彼等の「宣言」と数々の「弁明」から導き出される「コンセプト」を、その「現代芸術・主体の否定史」のセンター位置に置く事は、可能と言えば可能ではある。それ故に、21世紀初頭の日本に於いて、伝統の「主体の否定」の最新版である彼等が、21世紀初頭の日本の「文化」的に言って、「重要」な位置にいると思えたりもする事もあると思われる。


少し前(と言っても数十年前)なら、例えば「ウィリアム・S・バロウズ」であったもの、或いはその少し後には「リミックス」や「サンプリング」であったもの、或いはまたローカル的には「盗め!」であったものが、21世紀初頭版のそれは、「ローレンス・レッシグ」や、「リチャード・ストールマン」や、「アーキテクチャ」や、「ネット」や、「二次創作」やらの語で修飾される事になる。いずれにせよ、そうした「現代芸術・主体の否定史」こそが、「現代芸術・コンセプト史」や「現代芸術・文脈史」を、伝統的に形成してきたと言えるだろう。


改めて、「カオス*ラウンジ」という、一見すっかり「新しい」かの様に見える「現象」もまた、その意味で「現代芸術」の「伝統」にしっかりと則っていると言えるだろう。そして、ここで些か論件先取すれば、「主体の否定」という「現代芸術」のライトモティーフは、常に「『否定』する『主体』によって、その『主体』が『否定』される」という「同語反復」的、或いはもう少し良く言えば、「自己言及」的な構造を持つ。それもまた「現代芸術」や「現代思想」の「伝統」だと言える。そして常に、それは「自己言及」の形で現れるが故に、「『他者(なる『客体』)』によって『主体』が『否定』される」経験を、「現代芸術」は未だに持っていないか、或いはその存在に気付いていないかだったりはする。そしてそこに今回の「騒動」の核心部分の一つが存在している様な気もするが、それはひとまずさておき。


それでも「カオス*ラウンジ」に「新しさ」があるとして、しかしそれは、「主体の否定」に代表される様な「システム」的な「新しさ」と、意匠としての「モティーフ」的な「新しさ」を分ける必要はあるだろう。「システム」的な「新しさ」に関しては、これは先述した様な「伝統」の「モディファイ」として、その意味で「新しい」と言える。例えば、「ガソリン自動車」という大枠の「システム」に変更は無いが、そのシリンダー構造に「新しさ」があったり、ロータリーエンジンの「新しさ」だったりする様な「新しさ」だ。もう一つの「新しさ」は、「カーデザイン」に代表される「モティーフ(意匠)」的なものであり、これが「カオス*ラウンジ」の外見上の「新しさ」を決定している。この二つの「新しさ」は別のものであり、「カオス*ラウンジ」の「システム」上の「新しさ」が、例えば「オープンソース」的なものであったとしても、しかしその「オープンソース」と、「モティーフ」上の「新しさ」である「アニメ絵」を結び付ける紐帯は、極めて恣意的なものだろう。


例えばネット空間から、数々の「富士山」や「裸婦」や「静物画」や「風景画」や「美人画」等の「油絵」画像の一部をコピーし、それを再編集的にペーストしつつ、「何だか訳分からんもの」や「救済と天罰」にしたとしても、それでも「オープンソース」的な文脈に落とし込む事は十分に可能だ。そして「油絵の絵描きさん」という「著作権ホルダーからの申し立て」等が舞い込み、その「クレーム」に対して、「著作権」的であったり、「創作論」的であったり、「主体の否定」的な議論を吹っ掛けて「コンフリクト」する事も、まあ可能と言えば可能ではある。それでもそこに問題があるとすれば、「富士山」や「裸婦」や「静物画」や「風景画」や「美人画」等の「油絵」では、「意匠」、即ち「モティーフ」的に古臭いという事になるのだろうか。しかしそうした「新しさ」の「モティーフ」もまた、何時かは古臭くなるものだ。30年後の「キメこな」は、果たしてどう見えるだろう。


「現代芸術」は、「他から取ってくる事」、即ち「テイク」は得意だ。「現代芸術」は、そうやって「テイク」し続けて生き延びてきたとも言える。それもまた伝統であり、「カオス*ラウンジ」も、その伝統に則っている。但し「他に与えていく事」、即ち「ギブ」は不得意であるか、そもそも「他者」が「テイク」したくなる様なものを、結果的に差し出せなかったという側面はある。平たく言えば、「現代芸術」は、「他者」が「テイク」したくなる「魅力」に、圧倒的に欠けているのだ。「現代アート」が「オタク」から「テイク」し続ける事はあり得ても、「オタク」が「現代アート」を「テイク」していくというケースは、ゼロか極めて稀だろう。


仮に「オープンソース」を引き合いに出すのであれば、自作のライセンスにも十分に留意するべきではあっただろう。そこに手を付けてこそ、真に「システム」的に「新しい」と言える。確かにこの「騒動」の当事者、その両者間には「著作」概念に対する相容れなさが確実に存在する。その一方を「進んでいる」とし、その一方を「遅れている」とする事も、「文化」的な議論として可能ではある。しかしその不均衡はまた、互いの世界から見た「魅力」の不均衡でもあるだろう。そしてこれは、作品のライセンス形態云々の話とは、また別の問題になってくる。誰も手を入れたがらない「オープンソース」という存在は、それ自体が矛盾的ではないだろうか。


【続くかもしれない】