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日本

例えばディズニー/ピクサーのアニメーション映画「カーズ2」の公式サイトから。


http://www.disney.co.jp/cars/


その驚くべき冒険の始まりは、なんと日本。ネオンが美しく輝く街“トーキョー”に、“ゲイシャ”カーや“カブキ”カーなど摩訶不思議なクルマが次々と登場し、マックィーンやメーターを魅了します。


アメリカが日本を描く。これだけで期待は否が応にも高まるが、実際の作品もまた、どうやらそうした期待に違わぬエキゾチックステロタイプな日本が諸所に見られる様だ。日本版の予告編には、フジヤマ、ゲイシャ、カブキは元より、五重塔、日本髪、太鼓橋、石灯籠、城、番傘、銅鑼、鉢巻、相撲、鳥居…。そして統一感に乏しい極彩色の看板が飽和した都市に、ボンネットの日の丸に、ゲームキャラに、洗浄トイレのオペレーション画面のアニメキャラと、どこまでも「日本」が描かれている。その「日本」は「わびさび」では勿論なく、また現代日本人が遡行的に注意深く発見した「奇想」でもなく、単にスチャラカなイメージの系譜ならぬ群だろう。


こうした海外映画に登場するフジヤマ、ゲイシャ、カブキで表現される日本は、常に鏡像と対話する事がこの上なく大好きな日本人の身悶えの対象であったりするのだが、ならば、今やフジヤマ・ゲイシャ・カブキと並んで、アニメ(= anime ≠ animation)もまた、日本人が「真の日本はコレジャナイ」と身悶えして然るべきステロタイプな海外からの日本観という事なのだろうか。確かに、今やアニメは、21世紀初頭の日本人の、特に海外向けの自画像を描くのには、一番手っ取り早い錦絵的ネタであるとは言えるかもしれない。それが、何時までネタとしての効力があるものかは判らないが。


しかし英語版の Trailer では、それ程に日本のシーンが登場する訳ではない。そこでは日本は物珍しい風変わりな国として描かれているものの、その扱いは「世界中を舞台にした壮大な“スパイ戦”」に登場する国の一つでしか無い。日本版の予告編に見られる、「日本」にウェイトを置いたこうした編集を行ったのは、マーケット含みの「日本側」の事情によるところが大きいのだろう。ステロタイプでも何でも、兎に角「世界」で日本が取り上げられる事が重要だという事だろうか。何はともあれ、日本が話題になっている事が重要だという事だろうか。どんな形であっても「世界」に日本が登場する事は喜ばしいから、フジヤマ、ゲイシャ、カブキの珍妙さにも目を瞑ろうという事なのか。その上で、それが本当の日本を知る切っ掛けになってくれれば良いとする考え方は、確かに常に存在する。誤解を切っ掛けに、真の理解へ。しかしそう考えてから、果たして何十年が経っただろう。結局理解は、常に圧倒的な誤解に負け続けている。日本に対する理解を「世界」に求め続けても尚、それは些かも実現されていないかの様に見える。日本はとても難しい国だという問題だけが常に残り続ける。


日本への誤解を払拭して理解を求めたい。しかし他人に求める理解というのもまた、一種の誤解ではないだろうか。例えばアメリカという国に対して「カウボーイ」というステロタイプがあるとする。恐らくそうしたステロタイプに対して、「真のアメリカはコレジャナイ」とするアメリカ人の存在を否定する事は出来ない。しかし、アメリカという国を、政治、経済、軍事を含めて一言で評したい時に、「カウボーイ」というステロタイプ(誤解)が、時に役立ってしまう事があるのは事実だ。他人に期待する自らに対する理解とは、他人からこう見られたいという、自己に対する願望である事が多々ある。それは自分自身に対する一種の思い込み=誤解であるのかもしれないし、他人からの誤解は、自己願望的であるものに対する批判的性格を持っているかもしれない。「そうは言っても、アメリカはやっぱりカウボーイだろ」といった様に。ならば「そうは言っても、日本はやっぱりフジヤマ・ゲイシャだろ」や「そうは言っても、日本はやっぱりアニメ・ゲームだろ」という誤解に、一定の批判的真理といったものが存在するかもしれない。それでもそうした誤解がどうしても嫌なら、これ以降、一切他国に対してこうしたステロタイプで語らない事が、倫理上求められるところではあるだろう。

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首都圏以外の地方では、入手し難い首都圏の地方紙(ブロック紙)が東京新聞だ。関東は、一部地域を除いて全国紙が強いという土地柄であり、従って東京新聞を購読する読者は少数派になる。中日新聞東京本社発行である為か、郷土紙としての性格も、地域と一体化したかの様な他の多くの地方紙に比べれば薄いと言える。しかし朝夕刊セットが、1ヶ月 3,250円(税込)であり、例えば朝日の 3,925円(税込)、日経の 4,383円(税込)からすれば、年8千円〜1万数千円程セーブとなる破格の値段であるから、例えば業務上それを読む事を半ば義務付けられる特定の新聞購読から解放された年金暮らしの人達には、結構人気が高かったりはする。


「地方」では入手困難な地方紙、東京新聞の先週末の7月1日夕刊記事がここで見られる。美術評論家の筆になる。


http://twitpic.com/5jfiku


「裸体画論争を現代化」という見出し。ロンドンのガゴシアン・ギャラリーで行われている村上隆氏の個展に出品されている「黒田清輝へのオマージュ。『智・感・情』」に関するものだ。


黒田清輝の代表作である「智・感・情」。その裸体の扱いを巡り、発表当時大きな物議を醸し(日本国内)た同作。村上氏が約三年の準備期間(摸写)を経て、永く歴史的な文化財として鑑賞されてきた黒田の絵画を、オタクイラストレーション界の三名の絵師と共に、現代のオタクカルチャーの文脈の中で再生。三者三様のコラボレーションを成し遂げ、別の意味を持たせる事に成功した…。


その様な事が書かれた後は、この絵に関する、海の外に一回も出た事の無い諸問題が綴られている。その上で「黒田清輝の『智・感・情』は、一九〇〇年にパリで開催された万国博覧会で銀賞を受賞する。いわば、世界の文化シーンで一級の芸術品であることが認められたのだ」として、この「世界の文化シーンで一級の芸術品である」黒田の絵を巡る日本国内に於ける諸問題が、即ち世界にも通じる問題である様にも読めたりする。因みにこの銀賞の十一年前、一八八九年パリ万博では、久保田米僊が黒田より上位の金賞を受賞している。万博に於ける銀賞受賞が、世界の文化シーンで一級の芸術品である証明になるならば、この金賞受賞もまた、世界の文化シーンで久保田米僊の作品が第一級の芸術品である事を示しているという事になる。記事の最後は「はたして英国のアートシーンで、(「黒田清輝へのオマージュ。『智・感・情』」が)どのような評価を得るのだろうか」と結ばれている。


この展覧会が始まったばかりの頃の、或る人の報告。


当然観客の関心はそれら性的フィギュアに集まるわけで、それで悪くないのだけど、日本で二日間限定で公開され、たいへんな反響を得た黒田清輝とそのオマージュ作品群が残念ながらスルーされ気味なのが気にかかった。コンテクストが複雑すぎて日本国外の観客には理解されにくいのかもしれない。


http://twitter.com/#!/hazuma/status/85513020721209344


「複雑すぎ」なコンテクストが理解されないと、この絵画そのものの理解に支障があるとするならば、会期が終わるまでには、この絵画の「複雑すぎ」るコンテクストへの理解が、日本人以外の観客に進む事を願おう。


いずれにしても、こうした記事を読むと、やはり改めて日本はとても難しい国だという印象が弥増しに増す。こうした自国のローカルな文化的捻れをコンテクストにし、それをここまで問題にし続けるというスタンスを持つ国が、果たして日本の他にあるかどうかは寡聞にして知らないが、「日本・近代以降・美術」の場合、こうした問題を問い続ける事が、半ば条件化しているところがありそうな気もする。


記事中の写真となった絵を、そもそもがそうした問いの存在を知らないか、或いは興味の無い人達に見せてどう見えるかは判らないが、これが日本と同じ様な、非欧米圏の他の某国の美術界が、近代とそれ以前との乖離にその国の文化が苛まれているとするこうした問題の機制を持ち、半ば制作の条件と化したそれを「世界」に理解させる為に、「世界」に向けてそうした問題ごと発信するという戦略を持っていたとしたら、「某国・近代以降・美術」はやはり困難の中にあると見える事だろう。


ピカソがアフリカ彫刻に着想を得て、自分の、そして彼が属した地域内に於ける美術界の「発展」に接続させた様な戦略を、事実上、日本は「世界」の美術界から、どこかで予め禁じられている国ではあるだろう。例えば日本人画家が、どこか全く別の文化圏の彫刻に着想を得て、自分の、そして「日本・近代以降・美術」の、或いは「世界」の美術の「発展」に接続しようとしても、恐らく「世界」はそうした役割を、直ちに日本には期待してはいないのかもしれない。「世界」にとって、日本は常に「日本」でなければならず、日本は常に「日本」をのみ参照せねばならず、場合によっては欧米的要素が感じられる事すら、猥雑なものとして印象付けられてしまうケースは多いだろう。テクノロジー・アートですら、作家は仏教と絡めて説明する事を半ば求めらたりもする。精神分析と絡めれば、日本にも精神分析を解する人間がいるのだと驚かれたりもする。日本はとても難しい国だ。

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一方でこうした日本美術論もある。


 縄文式原始芸術の非精神主義的精神の場、つまり精神が極めて即物的、動的に現実に即し、しかも観念的な功利性を持たぬ在り方を直視し、その無目的の目的、無意味の意味を我々の方法として摑み取らなければならないのである。
 目をひろく世界に転じて見給え。また翻って極めて身近な現実を取り上げてもよい。四囲の物的状況は決定的に変っている。既に久しい「日本的」伝統の欺瞞、繊弱な平面的な情緒主義、形式主義は現実と何ら関りない。これからの芸術家は根源的生命力の叡智を以てこの袋小路をうち開き、真に現実的に世界を摑んでかからねばならない。


「縄文土器論 四次元との対話」 岡本太郎 「みづゑ」1952年2月号


弥生以降、現代日本に至るまでの、「ひどく卑弱であり、陰質である(同上)」日本文化、伝統に、「島国的安逸、現代日本人にそのまま通じる形式主義を見て取り、絶望した(同上)」芸術家によってこれは書かれた。そうした芸術家の絶望の対象となる「欺瞞」的伝統の「日本」はまた、「世界・現代・美術」の下位概念である「日本・現代・美術」が参照する「日本」、そして恐らく「世界」が期待し、誤解するところの「日本」にも、どこかで重なるものだろう。


しかしこの「帰朝」した芸術家の問いもまた、日本人に対して向けられている。仮に縄文をこそ「日本」であると「世界」に理解させるとして、しかしそれは、日本人相手の「日本」の自画像に変更を加える以上に、途方も無く困難で孤独な戦いになるのではないかと想像される。「縄文」を手にそれをこれからしようとする者は、果たして画家の後に続いているだろうか。


悪い場所。それは多分に対アメリカ的なものだった記憶がある。しかしどうやら対アメリカ以上に、対アメリカ以前に、日本という国の難しさは始まっていたと言えるのかもしれない。マルチカルチュラリズムの最大の陥穽は、その評価のフィールドが、往々にしてインターナショナル(な市場)という設えの内にある事だろう。多文化主義の対象となる文化と、そうした対象から予め外れている文化。日本は常に、前者のエスニック綱オリエンタル目東アジア科日本属にあり、通常「世界」として認識されている「欧米」という「主流派」は後者である。


オリエントは、ヨーロッパ人の心のもっとも奥深いところから繰り返したち現われる他者のイメージでもあった。そのうえオリエントは、ヨーロッパ(つまり西洋)がみずからを、オリエントと対照をなすイメージ、観念、人格、経験を有するものとして規定する上で役立った。もっともこのオリエントは、いかなる意味でも単なる想像上の存在にとどまるものではない。それは、ヨーロッパの実体的な文明・文化の一構成部分をなすものである。すなわちオリエンタリズムは、このうちなる構成部分としてのオリエントを、文化的にも、イデオロギー的にも一つの様態をもった言説として、しかも諸制度、語彙、学識、形象、信条、さらには植民地官僚制と植民地的様式とに支えられたものとして、表現し、表象する。


エドワード・サイードオリエンタリズム


日本という困難は、こうした「世界」という幻想性の下に、常にそうした「ヨーロッパの実体的な文明・文化の一構成部分をなす」ところから現出するのであり、それは言わば、日本人が自画像とする様な日本が、常に既にヨーロッパの下位概念である事を示している。


難しい場所は、悪い場所以上に難しい。しかしその難しさから逃れる方法は、実は意外と簡単な事なのかもしれない。その一つには、日本にオリエンタリズムを求める市場からの退場や、ヴァナキュラーな経済文化への移行という選択もあるとは思われる。しかし「『世界』に通じる日本文化」発展の立場からすれば、それは絶対に譲れないところではあるだろう。


こうして「世界に通じる日本文化」の試みは、日本という難しさを抱え込みつつ、長大な時間を掛けて行われてきたし、これからも行われ続けるだろう。もしかしたら、そうした難しさを抱え持つ事によってのみ、市場価値の獲得をターゲットとする今日の日本文化のエネルギーが備給され続けるのかもしれない。