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反復

承前


今に至るも数多の日本人による「近代の超克」が止む事は無いが、その殆どの原形が、69年前のこの昭和17年の座談会に様々な形で現れている。これが平成23年の発言であっても、「大日本帝国陸海軍」が存在しない事と、旧仮名遣いである事以外は、或る意味で「全く変わっちゃいない」のであり、従ってそれは一種の「伝統」の「無形文化」、或いは或る種の「制度」なのだろう。


それらを幾つかピックアップしていく。引用の総量は多いと思われる。(以下引用、全て「近代の超克」座談会より)


ヨーロッパ的近代といふものは間違って居るということを、この頃頻りに考へるやうになつて来て居りますが、さふいふ間違つて居る近代といふものの出発点が何処にあるかといふことを考へれば、やはり大体誰でも考へることは、フランス革命が出発点なんです。仮りにさういふものから考へて、さうひふ所から系譜を弾いて来て居る「近代」、それは政治上ではデモクラシーとなりますし、思想上ではリベラリズム、経済上では資本主義、さういふものが十九世紀であると言つてよいわけだらうと思ひます。それからもう一つはこれは、十九世紀に限つたことではないですけれども、(略)元来近代といふものがヨーロッパ的のものである、といふ風に考へて大体間違ひないですね。(略)さういふヨーロッパの世界支配といふものを超克するために現在大東亜戦争が戦はれて居ります。さういふのもやはり一つの近代の超克といふことであるといつて宜しいと思ふ。


 さういふ風に世界の秩序の外形を変革するといふことが差逼つた当面の問題になつて居るわけですけれども、併しそういふ外面的な秩序や体制の変革だけではなしに、もう一ついはゞ内面的な秩序の変革、精神の変革といふことを考へる必要がありはしないか、さういつたことも考へられて来なければならないだらうと思ひます。どうしても唯外面的な秩序の変革だけでは、本当の究極的な意味で、近代の超克といふやうな意味の根底に触れるといふことは出来ないのではないかと考へられるのです。


鈴木成高


「ヨーロッパ的近代といふものは間違って居る」「内面的な秩序の変革、精神の変革といふことを考へる必要がありはしないか」。旧仮名遣いを新仮名遣いに直せば、同じ様な事を言っている「現代思想家」や「現代芸術家」がわらわらと、そう「わらわら」という感じでいそうではある。と言うか、鈴木成高以降は「ヨーロッパ的近代といふものは間違って居る。内面的な秩序の変革、精神の変革といふことを考へる必要がありはしないか。以下同文。以上!終わり!」で済ませられるのではないかとすら思える。当然鈴木成高自身もまた「以下同文」で済ませられたであろう。「『近代』に於ける『近代の超克』」というマトリョーシカは、「以下同文」の絶えざる「反復」で良い。或いは「近代の超克」とは、不断の「近代の超克」の「以下同文」の「反復」である。そしてその「『差異』と『反復』」にこそ意味があるとか何とか言えば良い。そうした「『差異』と『反復』」はまた、「旧商品を乗り越えた」と称する「流行」を創り出す、「計画的陳腐化(芸術商売も良く使うところの)」とか、「新展開(芸術商売も良く使うところの)」とか、「モデルチェンジ(芸術商売も良く使うところの)」等を、飯の種にする人も持ち合わせているところのものだろう。「近代の超克新作」とか、「近代の超克ニューモデル」とか、「近代の超克新台入替」とかそんな感じである。2011年に「近代の超克」があれば、それは陳腐化した2010年の「近代の超克」よりも、より傾聴すべきものとして現れたりもする。朝に道を聞いても、夕の道を聞かずして死すのは不可なり。その夕の道を聞いても、翌朝の道を聞かずして死すのは不可なり。以下同文。「常に若くあれ」的「常に新しくあれ」。その「反復」にふと立ち止まり、「何故に『近代の超克』という問いは永遠に終わる事は無いのだろう」とは考えない。いや考えない、考えない。


いや勿論、誰しもが、鈴木成高(例)の「近代の超克」と、自分の「近代の超克」は違うと考え、違っていたいと望み、しかもそれが不断に次から次へと「差異」を伴って「反復」されるからこそ、そうした「反復」は正当化される。しかしその「違い」は何処にあるのだろう。その分析の「当否」のところだろうか。それとも鈴木成高(例)は戦争イデオロギーになってしまったが、自分のはそうではないといった様な、主張内の「結論」や、その実際上の機能的「結果」の事だろうか。或いは単に古いとかだろうか。そしてそれらは、「近代の超克」が「反復」される事の、原理的な理由になるのだろうか。


近代人は無邪気な無信仰者ぢゃない。信仰を失つた悲劇人なのです。そこで見失つた神を自意識を通じて再び見出さねばならない。それまでは救はれない不安を本質とする悲劇人なのです。(略)健全なる人間文化の再建のために近代ルネサンス精神を批判超克せねばならない。自然的人間は宗教的人間と実存的に一である。自然に帰ること人間本性に帰ることとならねばならぬといふのが僕の主張なのです。


吉満義彦


この人らしく「中世」が頻出する。「古代」が頻出する。「自然」が頻出する。「霊性」が頻出する。しかしそのいずれもが「近代」からの遡行である限界を超えるものでは無いだろう。そこに恣意性が入る余地は十分に存在する。それは例えば「自然保護」で言われるところの「自然」解釈に見られる恣意性の如きものだ。こうした、遡行的概念であるところのものに「帰れ」系の、即ち「中世に帰れ」「古代に帰れ」「自然に帰れ」「霊性に帰れ」系の、今も善男善女を魅了して止まない「近代の超克」スタイルというのもまた、それが解釈であるが故に「『差異』と『反復』」に陥る事を免れないだろう。しかし、そうした「戻れ」の先に見ているのは、「フリントストーン」や「ギャートルズ」の如き「古代」解釈や、「自然」解釈かもしれないのだ。


芸術関係を引く。


ヨーロッパ人は、近代の超克といふことに対しては、少くとも音楽に関する限り、一先づ手の出しやうがない、と考へてゐるのですよ。だからわれわれ、光は東洋にあるーーといふことを信じてゐますよ。


諸井三郎


ここに困難がある。「近代」を西洋的なものとして措定した上で、その「近代」の「超克」が、ヨーロッパ人にとって「手の出しやうがない」ものだとしても、その任を東洋に委ねるというシナリオは、飽くまでも「東洋」の側からの「願望」であり、見も蓋もなく言えば、20世紀も21世紀も、西洋は東洋にそれを託そうなどとは毛の先程も思っていない。精々のところ、数人の毛色の変わったプレーヤーを、外国人枠でプレーさせる程度に留まる。その限界を無理矢理にでも取り除こうとすれば、「システムの再構築」「ゲーム規則の再構築」に肩入れしたくもなるだろう。イチローや長友ではなく、日本独自競技自体の「国際化」にも似て。しかしそれは、翻ってその競技に於いて、日本が「一先づ手の出しやうがない」になる運命をも受け入れなければならない。そうなれば「外国人」を制限するか、より先鋭的な形で日本を純粋化させるかが選択肢の中に入ってくる。しかしそうなったらそうなったで、それでも「日本の超克」は避けられないだろう。


純粋の日本楽器といふものを使つて現代音楽を創造しようといふ試みや努力は大分前からではあるが成果は上がつてゐない。僕は新日本音楽といふ流派、あゝいふ妙なものならば遥かに日本の純粋な古曲の方が美しいし、立派であると思ひます。(略)たとへば日本の楽器を使つて現代人に訴へる交響楽を創造しようといふ風な試みなどには僕は大いに疑問を持つ。(略)矢張り、西洋楽器といふ器に日本の心を盛らうとする時の苦しみのやうなものが出て来るのぢゃなかいと、僕は今考へてゐます。


津村秀夫


「音楽」を「美術」に、「楽器」を「絵具」に、そして「新日本音楽といふ流派」を「新日本画といふ流派」に変換してみれば、この文章はどう読めるであろうか。


近代が悪いから何か他に持つて来ようといふやうなものではないので、近代人が近代に勝つのは近代によってである。僕らに与へられて居る材料は今日ある材料の他にはない。その材料の中に打ち勝つ鍵を見付けなければならんといふことを僕は信じて居ます。


小林秀雄


果たして「近代人が近代に勝つのは近代によってである」というテーゼに含まれる、それぞれの「近代」は同じものだろうか。そして「勝つ」とは、如何なる意味の決着を指すのであろうか。そもそもそれは決着なのだろうか。しかしそれを曖昧なままにしておく事で、このテーゼは「永遠性」を持ち得るのかもしれない。


「近代の超克」は、「近代」の中にあって「近代」の緩やかな崩壊のイメージを愉しむゲームなのだろう。仮に「近代」の「次」があるとして、その「次」は、どこかで「近代」と連続的に繋がっている事が「近代の超克」の前提となる。だからこそ、この座談会の参加者それぞれが「近代」の分析に腐心している訳だ。「近代」の「次」を、想像可能なものとする為に。「近代の超克」に求められるのは、「近代」から想像し得る限りに於いての「近代」の「次」であり、「近代」の概念から導き出されない「次」では無い。些か極端な例えだが、「近代」を共有しない地球外生命体によって地球が支配される的な「変異」は、決して「近代の超克」でも何でも無い。「近代の超克」が対象とするのは、「変異」や「変貌」ではなく、「変遷」や「変化」なのだ。その意味で「近代の超克」は、常に「近代改」なのであり、同時に「近代」それ自体もまた、不断に「近代改」という存在の仕方をしているものであろう。


〈「近代の超克」ひとまず了〉


【続く】