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落とし所

承前


「プロ」の現代美術作家というのが可能なものなのかどうかは判らない。


大辞泉(Mac OSX「辞書」)で「プロ」を引けば、


プロ

《「プロフェッショナル」の略》ある物事を職業として行い、それで生計を立てている人。本職。くろうと。「その道の—」「—顔負けの腕前」「—ゴルファー」↔アマ。

「プログラム」「プロダクション」「プロレタリア」「プロパガンダ」などの略。
☞ 専門家•スペシャリスト•玄人


とある。「ある物事を職業として行い、それで生計を立てている人。本職。くろうと」な現代美術作家が、どれ程いるのかは判らないが、前段の「職業として行い」は有り得ても、後段の「それで生計を立てている」、即ち「作品(芸術活動)だけで食えている」はかなりハードルの高い基準だろう。現実的には、副収入(或いはそれが本収入)があってこそ、作家活動を続けられるというケースはかなり多いと言わざるを得ない。「それで生計を立てている」という場合の「プロ」は、例えば「金を貰っているプロなんだからちゃんと仕事しろ」という用例が上げられるが、こう言われると言葉に窮してしまう現代美術作家は少なくない筈だ。


「プロ」という言葉には、技術面で一定のレベルをクリアしているという意味が含まれる事もある。上掲の「専門家•スペシャリスト•玄人」がそれに当たる。例えばその用例としては「流石はプロ」という言い方がある。しかし現代美術の場合、それが必須条件になるという訳でもない。そもそもが、現代美術は、その持てる技術や専門知識を競う事を一義に置かないジャンルである。だからこそ「巧」を標榜する現代アートが「話題」になったりもする訳で、ましてや作品制作を外注や従業員等に作らせる作家に「専門家•スペシャリスト•玄人」はなかなか当て嵌り難いだろう。寧ろそれは「プロデューサー」の略語としての「プロ」になるのではないか。

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西国で見た「プロ」の現代美術作家の個展。


この作家は「巧」であった。この絵の線を描けと言われたら、そんなに「達者」には描けないと白状しなければならないだろう。そうした「達者」は「手練」とも言える。「手が練られる」と書いて「手練」であり、一つ事の反復がそうした「手練」を生むとも言える。「手練」な線。それは「手」が記憶している線だ。そしてそうした線は、共有を拒むところがある。


とても「大きな」絵があった。但しそれは一枚絵ではなく、小さなパネルを繋げて得られた大きさである。展示会場での展示となる訳だから、可搬性を考えればそうならざるを得ない。その場所に半永久的に設置される為に描かれている訳ではなく、この「大きな」絵は、この展示会場に「運ばれて」来て、会期が終わればどこかに「運ばれて」行く運命にある、旅芸人の如き存在だ。


大きな絵は難しい。こんなに「大きな」作品を制作した事は無いが、仮にその広大な面積を小さな要素で「みっしりと埋める」事を自らに課せば、場合によっては自分の「引き出し」を総動員させなければならなくなる。そこではアーティストの「引き出し」の範囲が顕わになる。仮にそれが少ないものであれば、少ない要素を変奏的にする事で、大きな作品を作るという方法論はあるだろう。この絵を始めとして、展示会場にある殆どの絵には、同じ要素が共通して、反復的に使用されている。但しそれは「主題と変奏」では無い様に見える。恐らくここには「主題」は不在だ。


そして再びここで頭を過ぎったのは、このとても「大きな」作品の「落とし所」は何処なのだろうという事だった。その作品は、何よりも展覧会の為に作られたのだろうと想像される。自分自身の思い出作りや、何かの受注があっての制作ではないだろう。それは、展示会場の大きさからサイズを割り出された、展示会場の為の「特注品」だ。


展覧会の為に制作される作品。展覧会とは一つのイベントであり、そのイベントに向けて制作され、そのイベントに於いて期間限定で公開され、そのイベントが終われば何処かへ消える。仮に誰かがそれを購入したとしても、新たなイベントが行われ、そこで公開されない限り、それは誰の目にも触れないものになる可能性も大きい。


展覧会作品の「落とし所」は一体何処だろう。