偶像


言わずと知れたドラクロアの "La Liberté guidant le peuple(「民衆を導く『自由(マリアンヌ)』」)" 。アレゴリカルな「自由」を先頭に、それ自体もまたアレゴリカルな「民衆」が、これもまたアレゴリカルな「屍体」を踏み越えている。それぞれがそれぞれに、それそのものとは一致する事のない「表象」に基づく「絵解き(イラストレイテッド)」である。


「自由」は人間の形で解釈され、人間の形で描かれている。「自由」という「理念」それ自体を絵画で描く事は不可能であるし、そもそも人は「理念」を「人物」に投影したいという欲望もある。それは、「希望」自体を表現する事は不可能だが、「希望」を「表象」するアレゴリカルな「人物」像を以て、「希望」を「表現」し得たと措定する、所謂「駅前彫刻」にも通ずるところだ。兎にも角にも、こうした「理念」を具現化した「人物」を中心に置き、周囲がそれに従うという構図を持つ絵画は、古今東西枚挙に暇が無い。


しかし今日「民衆を導く『自由』」を始めとする、この様な構図の絵画はほぼ描かれないか、描かれたとしてもかなり「特殊」なものに見えてしまう。「導く者(指導者)」を中心に、「導かれる者」がその周囲を囲み、「導く者」に対して熱い視線を投げ掛け、或いは行動を共にするという絵画(及び写真)は、「導く者」が、「政治」的存在であれ、「宗教」的存在であれ、「思想」的存在であれ、その「導く者」を「崇拝」「信仰」する者以外には、「違和感」ばかりが感じられるものだ。



例えばこの「民衆を導く『自由』」の構図を借りて、その「マリアンヌ」の位置に、「スターズ・アンド・ストライプス」柄のハット(それ自体「表象」)を被る「アンクル・サム」を代置しただけでも、それは十分に感じられるだろうし、或いは又、現在様々な「理念」や「信仰」の投影像としての「個人崇拝」の対象である様な他の何者を入れても、それは多かれ少なかれ、その「部外者」にとっては、その咽返る程の「表象」故に、却ってそれに対して腰が引けてしまうだろう。「個人崇拝」とは、「崇拝」や「信仰」の「表象」としての「個人」であると換言する事も可能だと思われる。


今日こうした表現が「不可能」になりつつあるのは、「カリスマ」や「偶像」や「英雄」自体が、「世界規模」としては、事実上「不可能」になりつつある時代の反映であるとも言える。最早一人の「個人」に、自分達が期待するところの「全て」が具現化しているとは誰も思わないし、そうした存在を望んでもいないだろう。今日では「カリスマ」や「偶像」や「英雄」に対してすら、極めてプラグマティックに、是々非々に対応するのが一般的であると思われるが、それでも尚、人々は特定の「個人」に対して、「無謬」な「カリスマ」や「偶像」や「英雄」を望んでいるというのだろうか。しかしやはり未だに望んでいるのかもしれないともしばしば思わされる事もある。


例えば、TwitterのTLを見ていると、「有名人」に対する「返信」の形で、「その件について〇〇さんはどうお考えでしょうか」的な、「質問」なんだか「お伺い」なんだか良く判らないツイートがあったりする。では、その「質問者」或いは「お伺い者」は、その「〇〇さん」から「解答」を引き出したところで、その後一体どうするというのだろうか。それが密かに自分が出した解答に近ければ、「自分はあの『〇〇』と同じ事を考えている」などと満足し、それが近くなければ、或いは自分の見解と全く異なる様であれば、「『〇〇』はやっぱり駄目だ」などと言うのであろうか。ならば初めから「〇〇さん」に聞かなければ良いだけの話ではないだろうか。或いは、その「解答」がどの様なものであっても、「〇〇さん」の答えた通りにするというのだろうか。しかしそれらは、「カリスマ」や「偶像」や「英雄」への待望感情の裏表に過ぎない。それは結局のところ、自らの「鏡像」としての「表象」が、「人物」の形で現実化する事を待ち侘びているだけの話だ。その一方で、往々にしてその「〇〇さん」が、現実的には「世界を変える」だけの力を持たない事を「知って」いたりするから余計に厄介なのである。


【続く】