PARASOPHIA(「外伝」)

有朋自遠方来 不亦楽乎


下り新幹線に乗って、横浜から旧知の現代美術家(現代彫刻家と呼ぶべきか)が、「PARASOPHIA」を見る為に京都にやって来た。その気になれば東京の自分の制作場所で幾らでも会える人物であるが、京都で会ってみるという珍しい体験をしたくなり、待ち合わせをして「立ち話」をする事にした。


向こうも旅人である。旅人がタイトなスケジュールを組んで行動をしているところに「一緒に食事でも」となれば、確実に旅人のスケジュールは乱される。その「食事」が東京では絶対に食べられないものという訳でも無く、各店に於ける「偏差」の範囲内、或いは「偏差」すら無いものだったりすると、旅人に声を掛ける「一緒に食事でも」は犯罪的ですらある。向こうは「サブウェイ 三条烏丸店(例)」で早々に済ませようと思っているかもしれないのに。


加えて、こうした場合の「一緒に食事でも」の場合に陥りがちなのは、「どうですか?京都は」の話題が多くなる事だ。それは来日アーティストに決まって「どうですか?日本は」と聞くのと同じで、従って聞かれた側がうんざりするのも同じだ。以前京都国際マンガミュージアムのアニメーション関連のシンポジウムで、事ある毎に京都のコーディネーターが「どうですか?京都は」と聞いていて、外から来たパネラーが心底うんざりしていたのを思い出す。そうした質問に対しては、相手は決まって――うんざりを隠しつつ――「ファンタスティック」的な事を返すだろうが、そうした定型を真に受けて嬉しくなったりするのは愚かの一語に尽きる。定型で膨らむ自意識(例「クールジャパン」)程に厄介なものは無い。やはり「立ち話」が良いのである。


待ち合わせの場所は、京都二日目の旅人が会場に入ったばかりの京都府京都文化博物館別館とした。そこで展示を見終わった頃を見計らっての突撃である。4歳児を連れて行く事にした。


「PARASOPHIA」公式サイト英語版の “About" には、日本語版の「開催概要」では割愛されている “The exhibition will be complex and multilayered in content, drawing the intellectual empathy of specialist art audiences, with a lighthearted air that can be enjoyed by the whole family." という一文がある。飄亭の松花堂弁当プッチンプリンも入れて、それで “complex and multilayered in content" にしてみた的なものだろうか。この “a lighthearted air that can be enjoyed by the whole family" の受け皿を、「PARASOPHIA」としては京都市美術館の「蔡國強」や「やなぎみわ」や「ジャン=リュック・ヴィルムート」辺りに設定しているのかもしれない。しかし今から行くのはどちらかと言えば “drawing the intellectual empathy of specialist art audiences" 寄りに思える京都府京都文化博物館別館である。


京都府京都文化博物館別館。随分と3月よりも変わっていて、取り敢えずこの館の前の両翼各十数メートル分だけは「パラソフィアやってます」感がそれなりに出てはいた。そこでドミニク・ゴンザレス=フォルステルを4歳児と一緒に見て、4歳児の集中力が弱まったところで部屋を出る。2分。


二度目の今回は全くそれで良いし、勿体無いとも思わない。ドミニク・ゴンザレス=フォルステルが想定する観客に、少なくともこの日本の4歳児は入っていないという事を確認出来た訳であるから。その得難い2分に1,800円である。


森村泰昌氏は端からパス。決して2度見たり3度見たりして体験が大いに深まって行くといったものでは無いし、端的に言って4歳児の興味を引くものでもない。或いは興味が引かれるかもしれないが、しかし今回は大人の方が引かれないし、その森村泰昌氏分だけ旅人の時間を奪う事にもなる。どうしても見たければ4歳児が自分で金を払って見て欲しい。但し4歳児はこの建物から一刻も早く出たい様だ。公園の砂場が待っている。


ドミニク・ゴンザレス=フォルステルを出た階段下の薄暗いスペースで横浜から来た旅人と少しの時間話す。前日からのメッセ上のやりとり同様、相変わらず「PARASOPHIA」に対して旅人から肯定的な声は聞こえない。そこでこれは肯定し難いものの肯定し難さに対する分析を通じてそれを肯定的な解釈に変換するという、見る側に対して相当に高度な要求を課せられる芸術祭(例えば彼がメッセ上で難じていた「高松次郎ミステリーズ」と同様に)なのだといった旨の事を短く伝える。短か過ぎたかもしれないが。


傍らでクッションの上で飛び跳ねていた4歳児がいきなり「くま」と言う。アジア的に珍妙でアジア的に下品な洋風建築(「重要文化財」。確かに「ちぐはぐとしての日本の文化を考える上で重要」という意味で「重要文化財」である)のクッションの滲みの中に「くま」を見つけたのである。



確かに「くま」である。非常に困った事に、それはこの館のどの展示物よりも今は面白く見えてしまう。そして痛快にも、このクッションの上の「くま」を見るにも、やはり入館料1,800円が必要になるのだ。


「PARASOPHIA」を見に行った体験。4歳児にとってはこれなのである。そして4歳というのは、何かを集中的に凝視して没入する(例えば「テレビを見る」)事では無く、世界の全体に自ら目を配り、その中で自己を位置付けて行く能力をこそ養うべき時期になる。そういった能力がすっかり固定化してしまい、今以上に飛躍的にそれが向上しない大人はその限りでは無い。テレビでも美術でも何でも凝視して、それに没入さえしていれば良いのである。