これからの写真【プロローグ】

【プロローグ】


8月7日に愛知県美術館へ行った。「これからの写真」展の会場内、畠山直哉氏、鈴木崇氏、新井卓氏を見終わり、田代一倫氏の展示室に入ったところで、入口近くの畠山直哉氏の展示室の方から大きな話し声が聞こえて来た。後で調べてみたら、それは「愛知県美術館友の会特別鑑賞会 『これからの写真』展で、アートのこれからをみよう!」というイベントだった。同展の担当学芸員である中村史子氏の声が壁を隔てて聞こえる。「この写真の全てに写っているたった一つのものがあります。それは何でしょうか」。


「友の会特別鑑賞会」の一作家当たりに掛ける時間は平均して5分間位だろうか。比較的多めの作家もあれば、そうでない作家もある。一方当方は一作家に15分位は掛ける質なので、次第に「友の会特別鑑賞会」との距離は狭まって来る。続く木村友紀氏の部屋は、4分で立ち去る事を決意してしまったので尚更両者の距離は縮まり、遂には「友の会特別鑑賞会」が隣室の田代一倫氏まで迫って来た。


「友の会特別鑑賞会」に飲み込まれてはならないという気持ちが先走った。そこにあったカーテンをむんずと掴み次の展示を見ようとすると、監視員の方から声を掛けられた。すぐに入ってはいけなかったらしい。カーテンの前にコーションが貼り出されていた。


 次の部屋に展示されている出展作品、鷹野隆大「おれと」シリーズは、写真家・鷹野隆大本人とモデルのヌード写真です。
 性器を含む全身ヌードを撮影した写真もあり、鑑賞時、不快感を抱かれる方もおありかもしれません。鑑賞される場合は、あらかじめその旨をご承知おきください。
 また、中学生以下のみでのこの作品の鑑賞は制限します。ただし、保護者および引率の大人が展示内容をご承知の上、同伴される場合は、展示室内にお入りいただけます。


その横に並ぶ様にして「作家」を説明するキャプションが立っている。


 2000年の「ヨコたわるラフ」の発表以降、鷹野隆大は独自の男性ヌードで見る者を戸惑わせ、挑発してきました。例えば、女性のようなポーズをとる男性、上半身と下半身で分断された体、着脱される女性用/男性用の衣服が作品には登場します。鷹野は意識的に、ジェンダーやヌードの記号や規則を揺るがし解体してみせたのでした。
 その一方で、明晰なコンセプトだけには収まらないのが、「おれと」シリーズです。二つの裸体のうち、片方は鷹野自身でもう片方は撮影モデルです。明らかな目的がないまま揚げられる普通の裸体は、私たちが日ごろ目にする自分自身の裸とほとんど変わらないため、鑑賞者は作品としての距離感をもって写真と向き合いがたいものです。こうして鷹野は鑑賞者を、保守的で居心地の良い芸術鑑賞という枠組みの外部へ連れ出してしまうのです。


ゾーンの中に入った。ゾーン内の滞在時間は約2分間。作品についての言及は、この続編でするかもしれないし、しないかもしれない。滞在時間が2分間だったのは、「不快感」を持ったからとかそういう理由からでは無い。


ゾーンの外に出ると「友の会特別鑑賞会」と鉢合わせる。逃げる様に田村友一郎氏の部屋に移る。再び中村史子氏自ら「友の会」会員にコーションしているのを壁越しに聞く。数メートル先に辛うじて見える「友の会」の年齢層は高めだ。一つだけ言えそうなのは、その殆どが「現代美術の内側にいる人」ではなさそうだったという事だ。「現代美術の内側にいる人」が、しばしば揶揄的に言うところの「一般人」というのがそれに当たるかもしれない。それを見て、改めて「美術館」というものは、大部分が「一般人」で構成された「市民」のものなのだと感じた。


「美術館」という設えの誕生そのものは、「市民革命」による「市民」の誕生と軌を一にしている。嘗て「私人」の「私有財」であったものを、「市民」の「公共財」とする事で、初めて「美術館」という理念装置は可能になった。但し「美術館」という理念装置が想定している「市民」は、理念的(抽象的)な「市民」である。理念的な「市民」は、時に現実的な「市民」と重なる場合もあるが、しかし多くの場合両者は全く異なるものである。ここで理念的な「市民」を「社会契約によって形成された共同世界のメンバー(シトワイヤン)」とするならば、今日その「共同世界」こそが極めて不確実なものになっている事は否めない。極めて現実的に言って、世界各地の「人類」のレイヤーで起きている様々な事態を、西欧近代の理念的な「市民」概念で説明する事が可能だろうか。


「美術館」も「美術館」なりに「共同世界」を想定するものの、しかしその「共同世界」概念の届く範囲は、現実的に言って恐ろしく狭いものだ。そこで、「公共」であるにも拘わらずそこを「聖域」とする(=「聖域」であるのに「公共」である)という「転倒」が行われる。「美術館」では「市民」は再び「臣民」に戻り、「聖」なるコレクションを「拝見」する者になる。その「聖」を保証するものが、「王」が不在となった後は「芸術性」という事になるのだろうか。それが「王」であるという事だけで、価値が自己言及的に担保される「王」の様に。別の言い方をすれば、「王」が「王(芸術性)」と見做されなければ「聖」のバリアーは効力を失う。


Saa gik Keiseren i Processionen under den deilige Thronhimmel og alle Mennesker paa Gaden og i Vinduerne sagde: "Gud hvor Keiserens nye Klæder ere mageløse! hvilket deiligt Slæb han har paa Kjolen! hvor den sidder velsignet!" Ingen vilde lade sig mærke med, at han intet saae, for saa havde han jo ikke duet i sit Embede, eller været meget dum. Ingen af Keiserens Klæder havde gjort saadan Lykke.
"Men han har jo ikke noget paa," sagde et lille Barn.


皇帝は美しい天蓋の下、堂々と行進していました。全ての人々は通りや窓からその人を見て叫んでいました。「全く皇帝陛下の新しい服は飛び抜けて素晴らしい!何と長い裾をしているんだ!本当に良くお似合いだ!」。誰もが自分は今の仕事にふさわしくなく、馬鹿だという事(注)を知られたくないために、自分が何も見えていない事を隠していました。これまでこんなに評判の良い皇帝の服はありませんでした。
「でも、あの人は裸だよ」小さな子供が言いました。


Keiserens nye Klæder(皇帝の新しい服)ハンス・クリスチャン・アンデルセン(拙訳)


(注)アンデルセンの寓話に登場する二人の詐欺師は、「皇帝の新しい服」が「自分にふさわしくない仕事をしている人と、馬鹿な人には何も見えない布(havde den forunderlige Egenskab at de blev usynlige for ethvert Menneske, som ikke duede i sit Embede, eller ogsaa var utilladelig dum)」で作られていると信じ込ませた。


皇帝はどうすれば良かったのだろうか。一つだけ言えるのは、皇帝は「公共」の場で「パレード」をしなければ良かったのである。「聖域」の中では「裸」であっても「飛び抜けて素晴らしい服」とされていたのだから。そこは子供(Uskyldiges=罪なき者)が入ってはいけない「罪深き者」の集まる場所なのだ。

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美術館展示写真、愛知県警「わいせつ」 一部覆う


 愛知県美術館名古屋市東区)で開催中の「これからの写真」展(同美術館、朝日新聞社主催)で展示されている写真家・鷹野隆大氏の写真が、「わいせつ物の陳列にあたる」として愛知県警が12日、同美術館に対処を求めた。同美術館では13日から作品を半透明の紙で覆うなどして展示することにした。


 問題とされたのは、男性の陰部などが写った作品12点。匿名の通報があり、県警生活安全部保安課が同美術館に「刑法に抵触するから外してください」と対処を求めた。同美術館と鷹野氏は協議し、撤去でなく、展示方法の変更で対応すると決めた。小品群11点は紙をかぶせ、1点の大型パネルは胸より下をシーツ状の紙で覆った。鷹野氏は「人と人が触れあう距離感の繊細さを表しており、暴力的な表現ではない。公権力による介入を隠すのではなく見える形にしたかった」と変更を了承した。


 「これからの写真」展は同美術館で1日に開幕。写真家や芸術家ら9人の写真や映像、立体作品など約150点を展示し、9月28日に閉幕予定。

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 愛知県美術館の話 鷹野氏のブースは布で区切って入り口に監視員を置くなど観覧制限もしていましたが、作品は非常に真摯(しんし)なもので、わいせつな表現とは全く違います。性器が写ったことが注目され、興味本位で鑑賞されることは本意ではありません。表現の意図を伝える次善の方法として、作家本人の手で変更をしました。


朝日新聞
http://www.asahi.com/articles/ASG8D65H8G8DOIPE034.html


鷹野氏自身が本当に「公権力」という言葉を使ったかどうかについては判らない。こちらのインタビュー記事では、鷹野氏は一貫して「行政府」或いは「行政機関」という言葉を使っている。ここには「公権力」の語は無い。別のメディアの報道によれば、8月8日に「愛知県警(注:所轄)の方が2人来て見学」し、3日後の11日(休館日)に「“わいせつにあたる”との通告(注:電話)を受け」たと言う。そして翌12日「県警の担当官が現場を確認」し、「このまま続ければ検挙」という流れになったという事らしい。「通報」は8日の前日(自分が愛知県美術館で「友の会特別鑑賞会」に遭遇した日)辺りに行われたのだろう。「通報」の内容は、日刊ゲンダイの報道によれば「性器が映った写真を展示しているのはわいせつではないか」というものであったらしい。しかしこれもまた「伝聞」を元にして記事起こしをしているので、「通報」そのものの正確なところは判らない。


参考:「愛知県美術館における鷹野隆大の作品展示について」ユミコチバアソシエイツ
http://www.ycassociates.co.jp/jp/information/aichi-takano/


ここでこの「通報者」を A氏とする。そのA氏は「これからの写真」展の「観客」の一人であったのかもしれないし、自身は「観客」では無かったものの「観客」から展示の様子を聞いたのかもしれないし、或いは電車の中や喫茶店で「観客」が話しているのをたまたま聞いたのかもしれないし、または SNS や電子掲示板で展示されているものを知る事になったのかもしれない。


A氏の選択には幾つかあった筈だ。例えば愛知県美術館に直接「電凸」を始めとする「抗議」をするというのはその一つだろう。実際にそれは行われたのかもしれない。しかし最終的に A氏は警察に「通報」するという方法を取った。即ち A氏自身と愛知県美術館の間に愛知県警を挟んだのである。「これからの写真」展のカタログの中村史子氏による解説文「光源はいくつもある――写真の多義性をめぐって――」には、「メディウム(媒体)」という言葉が登場する。皮肉にも A氏は愛知県警を「メディウム(中間項)」とした。この「メディウム」を利用する事が、A氏の信ずるところを実現する最も「効率的」且つ「効果的」な手段である事を A氏は知っていた(或いはその時知った)。


「……それを直接言ってくれればこちらも意図を説明するなどのコミュニケーションができたのに、突然、警察への通報という形になってしまいました。警察も通報されれば無視はできない。『見えるか』『見えないか』という一線で妥協することになりました」(高橋秀治 愛知県美術館副館長)


「本当に怖いのは警察への匿名の通報で、こういう事態が簡単に起きかねないということの方」
「アート作品は言いがかりをつけようと思えば、かなりいろんな方法で言いがかりをつけやすい。これは他の問題にも当てはまり、公園の水遊び場で遊ぶ子供がうるさいから市にクレームをつけて水を出なくさせる、ホームレスを排除するためのベンチが増えていく…などが実際に起きている。社会の息苦しさを感じてしまいます」(五十嵐太郎氏)


THE PAGE「愛知県美術館『わいせつ写真に布』の波紋」
http://thepage.jp/detail/20140822-00000011-wordleaf?page=2
http://thepage.jp/detail/20140822-00000011-wordleaf?page=3


公権力」とも「行政機関(行政府)」ともされる警察が、「メディウム」である事を良く示す漫画がある。台詞を引く。


土橋
ところで中岡のおやじ いまごろ警察でたっぷりしごかれてるでしょうな ええ気味ですよ!


鮫島(町内会長)
あんな非国民はしごかんといけんのだ


土橋
まったくです ハイ


鮫島
息子の指は傷だらけにするし… あの一家はゆるせん! ちったあこらしめてやれってんで警察につきだしたんじゃ


以前から中岡みたいな大日本帝国のはじさらしは警察に調べさせんといけんとおもっていたんじゃ


土橋
殺されればいいんです 戦争に協力しないやつは


中沢啓治はだしのゲン


「警察に調べさせんといけん」「殺されればいい」。理念的「市民」ではない、現実的「市民」とはそういうものでもある。「市民」は警察という「メディウム」の「使い方」を良く心得ている。自分自身が手を下さなくても、警察がそれを代行してくれる。一方で「通報しますた」というのは電子掲示板での決まり文句だが、しかしその多くは極めて「カジュアル」に発せられている。「シリア邦人拘束」の際の「通報」(「通報者」は「通報」相手が何者であるか知らなかったらしい)がそうであった様に。「通報」は「切実」から「カジュアル」までのグラデーションの中にある。果たして A氏の「通報」はどの位置にあったのだろう。


手塚治虫の「鉄腕アトム」に出て来る「ロボット・パトカー(通称「ワンワン・パトカー」)」が「犬」の形をしているのは象徴的だ。警察は基本的に「ロボット」や「(警察)犬」の様な「メカニズム」なのである。「市民」の「通報」が「メカニズム」にスイッチを入れたのであり、今回も「通報」が無ければ会期終了まで彼等は動かなかっただろう。勿論「メカニズム」はスイッチが入れられる事を待っている。凡そ警察規制(「メカニズム」)というものは、「市民」の警察への「協力義務(「通報」)」によって初めて実行可能だ。果たして「権力」は何処にあるのだろうか。


 かつてドストエフスキーは『悪霊』のなかで「人は自由を追い求めて、ついに警察国家を組織するに至る」と書いたことがあったが、人文主義思想が自然と人間を教会の軛から解放しようとすると、魂の救いを任とする筈の教会までが警察化することは、人間というものの不可避とも言うべき悲惨さを痛感させるものであった。


堀田善衛「ミシェル城館の人」


成立史的にも、近代警察は近代的「自由」のもう一つの形だ。「アジール」というのは「聖域」とも訳されるが、元々はそこに逃げ込んで来た者(復讐や私闘の対象者)が保護され、世俗がそれを侵す事の出来ない場所という「避難場所」を意味していた。転じてそれは「庇護権」とされる。まだ強力な警察的公権力が存在しない自力救済が支配的だった頃(「中世」)の話だ。「アジール(庇護権)」は貴族や教会勢力といった中間権力者(一般住民からすれば「特権層」)の領地と同義だった。やがて「アジール」は事実上「犯罪者の隠れ家」ともなるが、中間権力者は絶対主義国家観によって失われつつある影響力を誇示するかの様に「アジール」を濫用する様になる。警察国家でもあった絶対主義国家は、こうした中間権力者の犯罪者を匿う権利を剥奪して、国家の二重権力体制の一掃に務めた。そして一般住民はと言えば、こうした中間権力者(「特権者」)の専横と犯罪者の恐怖を取り除いてくれる警察国家の伸長に喝采を送ったのである。我々に親しい「自由」は――極めてパラドキシカルではあるが――警察によってもたらされたものだとも言えるのだ。

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「これからの写真」展の鷹野隆大氏のエリアの前には厚手のカーテンが吊るされていた。上掲「警告文」が掲示され、同様の注意が口頭でもされた。この時点で「性器」が写っている事は、観客に知らされていた。「法律の専門家」である弁護士の意見を仰いだ美術館側としては、これで法的な正当性を確保したと思っただろう。しかしそれはいとも簡単に突破された。


ところで「ゾーニング」というのは一種の「規制」である。それは勿論「表現の自由」の「規制」ではない。何故ならば「ゾーン」の中では、相対的に「表現の自由」が保証されているからだ。即ち「ゾーニング」とは「公開の自由」の「規制」である。そして本展では、美術館自ら「自主規制」の形で「公開の自由」の「規制」を施した。


今回問題になっている刑法175条、及び参考として前条の刑法174条を引く。


公然とわいせつな行為をした者は、6月以下の懲役若しくは30万円以下の罰金又は拘留若しくは科料に処する。(刑法 第2編「罪」 第22章「わいせつ、姦淫及び重婚の罪」 第174条「公然わいせつ」)


第175条
わいせつな文書、図画その他の物を頒布し、販売し、又は公然と陳列した者は、2年以下の懲役又は250万円以下の罰金若しくは科料に処する。販売の目的でこれらの物を所持した者も、同様とする。(刑法 第2編「罪」 第22章「わいせつ、姦淫及び重婚の罪」 第175条「わいせつ物頒布等」)


読めば判る様に、これは「わいせつ」の「公開の自由」を「規制」するものである。「これからの写真」展の「ゾーニング」は、ここで言われるところの「わいせつな…図画…を公然と陳列」の部分を回避しようとしたものと思われ、事実上それは何らかの形で「通報→通告」を「市民→警察」から受ける、或いは記憶に新しい「会田誠 天才でごめんなさい」展に於ける「ポルノ被害と性暴力を考える会」の様な「警察」を介さない「市民」の「抗議」が及ぶ可能性を見越しての「自主規制」という事になる。しかし結果的にそれは、方法論的には十分では無かった。「ゾーニング」の中もまた「公然(不特定多数が認識できる状態にすること)」の場所であるとされたのである。「警告文」を読んで「ゾーン」の中に入ったとしても、相変わらずそこにいるのは「不特定多数」であると認識されたという事だ。


けいさつけん【警察権】
警察機関が公共の秩序を維持するため,国民に命令強制をなし,その自由を制限する公権力。その行使は法令に基づき,条理上の限界を守らなければならない。


スーパー大辞林


ここで言われる「条理上の限界」というのは以下の4原則になる。


警察公共の原則(私生活・私住所・民事上の法律関係に関与しないこと)


警察責任の原則(故意・過失,自然人・法人の別は問わないが社会公共の秩序に対する障害の発生について責任ある者にのみ発動する)


警察比例の原則(警察権の発動は社会公共に対する障害の大きさに比例しなければならず,つねに必要最小限度でなければならない)


警察消極の原則(公共の安全と秩序に対する侵害の具体的危険性があるときにそれを除去するためにのみ警察権は発動されるべきである)


平凡社「マイペディア」から「警察権」(改行挿入)
http://kotobank.jp/word/%E8%AD%A6%E5%AF%9F%E6%A8%A9


但し最近では、ストーカー規制、DV規制、児童虐待規制等に見られる様に、「警察公共の原則」が「修正」されつつある。DVや児童虐待とされるものの中には、「性的暴力」「性的虐待」の一例として「ポルノを見せる」というものもある。この場合は「家族」が「通報者」になり得る。こうしたケースでの「わいせつ」認定は、それらに「苦痛」を感じた「被害者」に任される事になる。


何はともあれ「警察権」の及ばない範囲が取り敢えず「私生活」「私住所」という事であれば、「美術館」が「アジール」であると主張するのは(「美術の内側にいる人」の「願望」は別にして)法律上から言えば無理がある。特に公立の登録博物館(「美術館」も「動物園」や「水族館」等と同様「博物館」である)の場合、その管轄は各地方公共団体教育委員会地方公共団体に置かれる行政委員会)になるからだ。


公立博物館は、当該博物館を設置する地方公共団体教育委員会の所管に属する。(博物館法 第三章「公立博物館」 第十九条「所管」)


地方公共団体は、法律で定めるところにより、学校、図書館、博物館、公民館その他の教育機関を設置するほか、条例で、教育に関する専門的、技術的事項の研究又は教育関係職員の研修、保健若しくは福利厚生に関する施設その他の必要な教育機関を設置することができる。(地方教育行政の組織及び運営に関する法律 第四章「教育機関」 第一節「通則」 第三十条「教育機関の設置」)


http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%95%99%E8%82%B2%E5%A7%94%E5%93%A1%E4%BC%9A


「刑法」等の「法」を変える、「芸術」にとって「有害」或いは「無視」し得るものであると「美術の内側にいる人」が「願望」混じりに「判定」するところの「市民」の「通報」を禁止する、「通報」が「捜査」すべきものであるかどうかを「警察」に判断させる――「これは『芸術性』があるから『捜査』するのを止めておこう(=「これは『芸術性』が無いから『捜査』しよう」)」といった、それ自体が論証不可能な「芸術性」(論証不可能という点では「猥褻性」と同じ)の判断を「警察」に一任して良いのなら――という事が現実的に難しいのであれば、寧ろこの「ゾーニング」が呆気無く崩壊したしたという事実から何かを学ぶべきなのだろう。いずれにしても今回の愛知県美術館愛知県警察の遣り取りのプロセスは、「私生活」に於いてすら(DVや児童虐待絡みで)「ゾーニング」が求められる「これから」の為にも共有されるべき情報である様な気がする。

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この件を以って、日本の「後進性」を主張したい者もいるだろうが、しかし勿論こうした事は日本に限られる話ではない。


参考:"Dirty Pictures"
http://en.wikipedia.org/wiki/Dirty_Pictures


参考:United States obscenity law
http://en.wikipedia.org/wiki/United_States_obscenity_law


いずれにせよ、仮に「わいせつ」認定に対して「芸術性」を楯にするにしても、当該「俺と」作品が「芸術領域に属している」であるとか「美術館の中にある」といった、「表現一般」の「一律(これは「わいせつ」認定側も使用する。「性器が写っていれば一律アウト」的に)」性からではなく、それ自体が「比類なき芸術作品」であると「称える」言説が必要になるだろう。しかし寡聞にして、この件に於いて最も重要である筈の、「俺と」作品そのものに対するそうした直接的言及には未だに行き当たらないのである。


【プロローグ了】