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六本木(下)

承前


正直なところを言えば、東京の六本木に来た最大の理由は、或る作品を見たかったからである。六本木通りを挟んで最初に北側に行った方が良いのか、それとも南側に行った方が良いのかとの小思案は、一番食べたいものを最初に食べるか、最後に食べるかという選択に対するものであった。そして結局一番食べたいものを最初に食べるという結論に至ったのである。


「評判の作品」という事で、それを見るのに、「競争率が高い」という情報を事前に得ていたから、週半ばの平日の午前中という、最も客足が悪そうな時間帯をわざわざ狙った。案の定、国立新美術館はガラガラである。1C 展示室の武蔵美受付の壁の裏にその作品はあった。



隣の展示室との連絡通路を半ば塞ぐという、「東京五美術大学 連合卒業・修了制作展(以下「五美大展」)」でも、最も「恵まれていない」場所である。伝え聞くところによると、1月の武蔵美学内の卒業・修了制作展では、「恵まれた」空間が与えられていた為に、暗室内での映像投影、総入れ替えという映画館的な公開をされていたらしいが、この「五美大展」ではそれが叶わないという事で、モニタ映像とヘッドフォン音声といった「次善の策」になったという。しかし、この「次善の策」こそが、結果的にこの作品に対してより複雑な構造を与えている様にも思えた。とは言うものの、4月の「恵まれた」バージョンも見てみたいとは思う。


作品映像には幾つかの「段階」が存在している。作者本人が某所でその「段階」について明かしているが、ここではそれを書かない事にしておく。いずれにしてもどの様な作品であるのかについて、作者が公開している文章を引く事にする。


百瀬文《聞こえない木下さんに聞いたいくつかのこと》


今回私は、この作品のために木下知威(きのした・ともたけ)さんという方と対談をさせて頂きました。
木下さんは現在建築史の研究、視覚文化論などの研究をされている方でいらっしゃいますが、生まれつき全く耳が聞こえません。
耳の聞こえない人が「聾者」と呼ばれるのに対し、耳の聞こえる人は「聴者」と呼ばれるそうです。
この映像は、聾者である木下さんと聴者である私とで行った、「声」をめぐる対談を記録し編集したものです。


http://www.ayamomose.com/news.html


許されるだろう補足説明をすれば、この映像の中での「木下さん」は、「口話」を用いて「声」で作者と「対談」している(様に見える)。


こうわ【口話


聴覚障害者が,相手の音声言語を読話によって理解し,自らも発話により音声言語を用いて意思伝達を行うこと。


スーパー大辞林


但しこの「声」が問題なのである。「聾者」である「木下さん」にとっての「声」は、当然「聴者」のそれとは全く異なる。「声」であるにも拘わらず、それは「声」では無い。自分が発する「声」と、他人が発する「声」は、同じ存在様態では無い。そうした事情が「木下さん」の「声」で説明されて暫くすると、最初の「段階」が訪れる。そしてまた次の「段階」へと移行する。仮に「話し言葉」と「書き言葉」が相反するものであったとしても、この「対談」ではその両者を分かつスラッシュの存在が疑わしくなっている。ここでの「話し言葉」は、一種の「書き言葉」でもある。例えば「書き言葉」である「悪筆」の文章を「解読」するのに、脳は虫食い算の様に、文脈に従って読み辛い字の「エラー補正」をしたりもする。その結果、例えば「り」に見えていた「悪筆」の文字が「い」である事を知る。ここでの「対談」は、そういうものである。


「対談」の「内容」は、字幕を通してヘッドフォンを付けない「音声」無しの状態でも掴めたりはする。それは「木下さん」の世界に似たものかもしれない。そしてヘッドフォンを付けると、確かにそれは「聴者」にとって馴染みのある世界になる。しかしそこでも、やはり字幕が「不可欠」である事に、やがて「聴者」は気付く。何故ならば、ヘッドフォンを装着する事によって、「声」を「聞く」事が出来ない「ハンディ」を持つのは、一転して「聴者」の側になるからだ。加えてその字幕もまた、誤読的な「嘘字幕」の可能性を否定出来ないのである。


不意に、自国語とはおよそ異なる言語のさなかに自分を見いだし、あたりにつぶやかれている聞き馴れぬ物音に、ぎこちない吃音をたどるようにして耳を傾ける者だけが、同時代人に言葉としては響かない彼らの言葉を、みずからの問題として引き受けることができるのだ。


蓮實重彦「「ジル・ドゥルーズと『恩寵』」


人によっては、この作品は「騙詐」による「搾取」の様にも見えてしまうだろう。しかし「騙詐」とは何であろうか。「騙詐」を感じるのは誰であろうか。「騙詐」はどのレイヤーで認識されるのであろうか。「搾取」的とされる作品は数多いが、この作品はそうした「搾取」的になる事を避ける一つの方向性をも示している様な気がする。それは作者が言うところの「責任」や「誠実」とはまた違ったところにあるものだ。


この作品は極めて後を引く。当然その「設計」は優れているが、一方で慮外であるだろう「設計・外」のものも優れていると言えるだろう。そしてそうした「設計・外」がまた、優れた「設計」に見えてしまうところに、「傑作」という語を使用するのに躊躇わない理由がある。


参考:「木下さん」=木下知威氏による、同作品の「感想」。
http://tmtkknst.com/LL/2013/01/19/%E6%84%9F%E6%83%B3%E3%80%80%E2%80%95%E3%80%80%E7%99%BE%E7%80%AC%E6%96%87%E3%80%8A%E8%81%9E%E3%81%93%E3%81%88%E3%81%AA%E3%81%84%E6%9C%A8%E4%B8%8B%E3%81%95%E3%82%93%E3%81%AB%E8%81%9E%E3%81%84%E3%81%9F/

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大規模な合同卒業・修了制作展であるから、ここには様々な作品が存在している。そして様々な作品の幾つかは、様々な「問題」を主題的に「提起」したりもする。そうした「問題」に対して「社会が見ないふりをしている」かどうかは判らないが、その「問題」を「社会が見ないふりをしている」と作り手が思ってしまう事はままある。そして「社会で問題になっている事を作り手が見ないふりをしている」、或いは「社会で問題になっている事を作り手が見ていない」というケースもそこには含まれるかもしれない。いずれにしても、大部分が20代前半である人達の「問題提起」であるから、場合によってはバンドの狭いものがあるのは致し方の無いところだろう。その「問題提起」の多くは、広範な観客の平均値としては現実的にはスルーされる傾向にある。


新国立美術館を出て、移動距離の最小ロスを念頭に森タワー53階に向かった。行程の最小ロスを阻む最大のものは六本木通りだったが、それも地下道を利用してロスを最小限に止めた。「会田誠展 天才でごめんなさい」展。確かに「話題」の展覧会である。但しこちらは「問題提起」が「話題」になる事を意図し、それ故に「仕掛けた」作品が並んでいるという印象がある。従って些かも「話題」とならずにスルーされるのは、作品制作時点では本意では無かっただろう。但し今回の「話題」の現実的な面に於いては、明らかにそれが関係者の手に余るものになってしまった感は否めない。


昨日の朝日新聞のローカル記事(配達された朝日新聞には掲載されていなかった)に、南條史生森美術館館長のPAPSの抗議に対するコメントが掲載されていた。


日本では少女を題材にした性的表現のマンガがあふれている。会田作品は現実を反映する鏡。社会が見ないふりをしている問題のフタを開け、議論が生まれることに展示の意味がある。


http://www.asahi.com/shimen/articles/TKY201302280724.html


新聞、しかもそれが朝日新聞という事もあって、その記事の信用性を疑う向きが多い事は多い。「現実を反映する鏡」という語を南條史生館長自らが使用したかどうかは判らないが、仮にそうであるとしたら、作品は「鏡」であるから「鏡」に抗議するのはお門違いという様にも読める。であるならば、抗議は「鏡」に映っている「実体」に対してこそ行なって欲しいという事になるのだろうか。


「実体」が失われれば「反映」も失われる。当然「反映」以外の「剰余」部分が多く存在するからこその「美術作品」である訳だが、恐らくその「剰余」部分の大きなウェイトを占めるものの一つは、作家の「器用仕事」的テクネーである事は疑い無い。個人的にはこの作家の「反映」部分に、卒業・修了展の「問題提起」を主題とする多くの作品に見られる「反映」同様、余り興味は沸かないのだが、一方でその「テクネー」には一目を置く。


会場で妄想してみた。これらの作品のテクネーが、直前に見た卒業・修了制作展の平均的なレベルであったらどうだろうかと。翻って、卒業・修了制作展の「問題提起」を主題とする作品のテクネーが、この作家のレベルであったらどうだろうかと。加えて、卒業・修了制作展が森美術館で、会田誠展が国立新美術館で行われていたらどうだろうかとも妄想した。しかしすぐにこの展覧会では物を考えるのを止めにする事にした。この展覧会の幾つかの作品もまた、後を引くには相違無いが、それは多分に生理的なレベルのものだ。決して生理のその「下」を見せてくれるものでは無い。


改めて、今日のこの日は、国立新美術館の25分の映像ですっかり終わってしまったのだと感じつつ、再び「六本木ヒルズ・ダンジョン」で迷わせられたのであった。


【了】