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妙好人

承前


前稿で柳宗悦氏を出した。本稿もまた柳宗悦氏から始めたい。


 才市の歌は誠に珍しい発見と云わねばならない。殆ど仮名より書けない無学な人が、約二十年間に渡って、夜な夜な書きつけたもので、全部残っているとしたら、少なくとも八千首近くになるのであろう。それが又一切南無阿弥陀仏の一句を中心とする歌なのだから驚く。所が皆同じようでいて同じではない。年代を辿れば、ほぼ思想の推移が分るであろうが、何としても、こんなに宗教的に深い歌はめったにないと思われる。


(略)


 その詩の宗教的な深さに就いては、多くの人が之から書くであろう。仏教界には寒山詩始め、蘇東坡の詩とか、日本では五山の文学とか、和讚では親鸞のものとか、和歌では明慧のものとか、無難のものとか色々あって、蘭菊の美を競うであろうが、それ等は、皆学僧のもので、教養あり、詩才あっての仕事である。所が才市はろくに学問もない下駄やの親爺で、漢字は殆どしらず、使えば大概は当字であるし、真宗の術語は耳で覚えたものを、さしこんだに過ぎない。誤字脱字、仮名遣の間違い等々色々目につく。それにも拘らず将来彼の歌は必ずや高い位置を歴史に与えられるであろう。歌と云っても三十一文字ではない。それかと云って七五調の新体詩でもない、そうかと云って自由詩を標榜したものではない。そんなものを知らないから、一切そんなものから自由なのである。それに目につくのは方言まる出しである。それも方言の方がよいからと云って方言に態(わざ)としたのではない。それ以外に持ち合わせがないのである。それに自問自答の歌が沢山出てくる。之が又素晴らしい。自分を離してものを客観的に歌うと云うことが殆どない。心そのままを吐き出したものである。


柳宗悦「才市の歌」




柳宗悦氏に先立って、妙好人浅原才市氏の事実上の紹介者として名高いのは鈴木大拙氏である。その鈴木大拙氏による妙好人の解説。

 浄土系信者の中で特に信仰に厚く徳行に富んでいる人を妙好人と言っている。彼は、学問に秀でて教理をあげつらうというがわの人ではない。浄土系思想をみずからに体得して、それに生きている人である。信者はいずれもしかあるべく、また学者というがわの人々でも、かくなくてはならぬのではあるが、妙好人というは、特に目立って有難人(ありがたにん)なので、この語は殆んど術語の如くにこれらの人に与えられる。『妙好人伝』というは、この種の篤信者の伝記を列ねた書物である。
 

鈴木大拙「日本的霊性」


宗教者に「プロフェッショナル」が存在するという前提に立てば、妙好人が在俗の「アマチュア」の篤信者であるという区分けは可能だ。但し「妙好人」の語は、中国浄土教の僧である善導が、その「観無量寿経疏」に於いて、念仏者を「若念仏者 即是人中好人 人中妙好人 人中上上人 人中希有人 人中最勝人也(もし念仏するものは、すなはちこれ人中の好人なり、人中の妙好人なり、人中の上上人なり、人中の希有人なり、人中の最勝人なり)」としたところから始まっている。「人中妙好華」。人中にあっての妙好華、念仏者がそのまま妙好人であり、従って「プロ」や「アマ」の別がそこに存在している訳ではない。


以下、鈴木大拙氏による浅原才市氏の紹介。長文だが引く。


 藤師(注:藤秀璻師)によると、才市妙好人は、浅原才市というので、石見の国邇摩郡大浜村大字小浜(現在は島根県邇摩郡温泉津町温泉津大字小浜)の人、八十三歳で、昭和八年一月に往生している(校注:実際は昭和七年一月十七日)。五十歳頃までは舟大工であったが、履物屋に転職して死ぬるまで、下駄つくり並びにその仕入れをやった。才市の父も八十以上まで生きていて、ずいぶんの「法義者」であったという。才市が仕事のあいまに鉋屑に書きつけた歌はだいぶんの数に上ったものらしい。法悦三昧、念仏三昧の中に仕事をやりつつ、ふと心に浮ぶ感想を不器用に書いたものである。しかし彼はこれがためにその仕事を怠ることは断じてなかった。人一倍の働きをやったという。いわゆる法悦三昧に浸っている人は、ことによるとその仕事を忘れて、お皿を壊したり、お針を停めたりなどして、実用生活に役に立たぬものも往々にある。才市は全然これとその選を異にしていた。仕事そのものが法悦で念仏であった。それでも人間の意識は自覚する。おのずから諷詠の言葉が口を迸り出ざるを得ない。才市の「歌」にはなんらの彫琢、なんらの技巧がない。才市のもっていたすべての文学的才能と文学的知識を尽くして、蜘蛛の糸を吐くように、三十一文字とも今様とも新体詩ともなんともつかぬ自然の歌が出来あがった。実に不思議な宗教的情操の発露である。
 藤師によると、才市は十八、九の頃から聞法の志に厚かった。が、どうしても出離の大事に関する解決がつかぬので、五、六年ののち、一事聴聞を捨てた。二十七、八歳になって、また大事一日も捨て難き思いになって、再び聞法の道に進んだ。都へ出て大法主の説法でも聞けば、早く解決がつくと考えたが、石見の片田舎から出京することは思いもよらぬ大難事であるので、地方寺院および在家でも、法席の開かれるところは必ず行って聞いた。いよいよ安心の境地に達したのが五十を超えたときであったという。この間の悪戦苦闘は想いやられるが、彼の歌には堅苦しい真宗語彙の臭みがないのが有難い。学問文字に心を取られて経験の方に余り関心をもたぬ人々は、何かというと、概念的に物を言いたがるものである。「妙好人」にはその習性が出ないので、経験そのものに直下にぶっつかる。我らはこれを味わわなくてはならぬ、そしてそれから思想体系を作り上げるのである。体系がまず出来て、それで経験を搾り出さんとしても、それは石から油を搾るようなものであろう。
 

鈴木大拙「日本的霊性」


ここで、以後想起されるかもしれないイメージを、先回りして二つ程クリッピングしておく。「アール・ブリュット(或いは「ナイーヴ・アート」)」と「相田みつを」である。「アール・ブリュット」の方は、柳宗悦氏的な文脈からは、容易に導き出され易い事は否定し難いと思われる。妙好人・浅原才市氏に「魅力」というものがあるとして、それを語ろうとする際に、そうした文脈に沿おうとする事は容易いが、しかし同時にそれは極めて退屈なものに終わるだろうとも愚考する。決定不可能なものを決定不可能のままにするのではなく、そこに形を与えて決定可能なものとする。本来アンアイデンティファイドであった筈のフライング・オブジェクトを引っ括め、それらをアイデンティファイドしてカテゴライズしてしまうと、途端にそれが "U.F.O." という退屈極まりない「形式」と化してしまう様なものである。ここで浅原才市氏を取り上げたのは、そういった事からではないのだ。


もう一つ、浅原才市氏の「詩」(としておく)が、21世紀日本に於いて、相田みつを氏の一連の「作品」を連想させるというのも、それらの外見的な「相似性」からしてあり得たりする事は判る。浅原才市氏の自筆の「歌」を見れば、1980年代以降から2010年代に掛けての平均的日本人ならば、尚更その感を強くする事かもしれない。



わかまよい ふるさとわ なむあみだぶつ


浅原才市氏の「なむあみだぶつ」の「落とし」方のスタイルが、相田みつを氏の「にんげんだもの」の「落とし」方に相似しているという観察があり得る事を理解しない訳ではない。しかし単純な先後関係から言えば、浅原才市氏の方が先であるという事もまた確かな事であり、また「あみだぶつ」と「にんげん」の間に横たわる、存在論的な差というものも無視し得ない。いずれにしても、そうした外見的「相似性」がある故に、曹洞宗の在家信者であると同時に、「プロの書家」相田みつを氏(本名:相田光男、雅号:貪不安(ドンフアン)、「毎日書道展」に1954年から7年連続入選)を、妙好人に擬えるケースも無いでは無いが、しかし相田みつを氏のそれは、やはり技術的に練られた「書」であり、「歌」であり、「作品」である。


参考:http://www.os.rim.or.jp/~nicolas/aidamituwo.html


浅原才市氏のそれを、鈴木大拙氏は慎重にも「歌」という形で括弧付きで書いている事に留意したい。浅原才市氏のそれは、公開する事を前提にした「作品」ではない。それは分類不可能なものとして存在する。柳宗悦氏は、これらの私的書き付けがどう書かれ、その後広く公開されるに至った経緯を書いている。


才市の長い生涯は極めて簡単なもののようで、朝お寺参りと、昼下駄作りと、夜歌を書きつけること、之に終始した。歌は六十歳頃から始めたというが、その前、つまり十八、九歳頃から苦悶し始め六十四歳で信心を頂く迄、驚く勿れ四十五ヶ年間も後世の問題で苦労をし、紆余曲折を経てついに握るものを握った。その悦びをなけなしの言葉で綴り始めた。思い当たると下駄の削り残りに書き取って、夜それを清書した。その時新しい歌が浮ぶと、之に加えて行った。夜二時三時にもなった。所謂「夜の味やい」よろこびに浸って書いた。小学校の生徒のつかう綴方の帳面に書き上げ、それがたまりたまって恐らく八十冊近くにもなったであろう。それを別に誰に見せるでもなかった。寺本氏が借りたいと云った時、「人に見せるようなものではない」と云ったが、「自分が法味をしらせて貰う為だ」と聞いてやっと納得し、その折六十冊程渡したという。内三十冊は戦災の犠牲になって了った。別に二冊は藤氏の本で世に紹介され、それをもとにして鈴木大拙博士が見事な註釈を書かれた。


柳宗悦「才市の歌」


些か長くなった。浅原才市氏の実際の「歌」を含めて、残るところを次稿に繋げたいと思う。但しその前に、或る「美術」界の言葉を引用しておく事にしよう。"dOCUMENTA(13)" のアーティスティック・ディレクター、キャロライン・クリストフ = バカルギエフ氏の言である。


わたしたちみなが想像力を共有しているという事実に基づいたデモクラシーを再構築するための想像力の跳躍を実現する必要があるのです。



http://www.art-it.asia/u/admin_ed_survey/PnLUNIHMGywaBV76g8zC


些か論件先取になる嫌いもあるが、果たして「美術」に於いて、「学問に秀でて教理をあげつらうというがわの人」ではなく、最終的に「美術」が目指すであろうところを「みずからに体得して、それに生きている人」としての「妙好人」という存在様態があり得るとして、この「美術」の「プロフェッショナル」であるキャロライン・クリストフ = バカルギエフ氏(「学問に秀でて教理をあげつらうというがわの人」)の言を見て、「都へ出て大法主の説法でも聞けば、早く解決がつくと考え」る様な事を感じるものであろうか。寧ろ「美術」の「妙好人」、或いは「妙好人」でなくても、"dOCUMENTA(13)" に於ける "Korbinian Aigner" の様な存在、即ち「想像力を共有しているという事実」そのもの=「塵」であればある程、そうした「プロフェッショナル」が考える問題に対する構えそのものが、単純に "So What?(それがどうした?)" なのかもしれない。


【続く】