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Kurisuchan Rassen

承前


半年程前の事、展示に使用する自作品を入れる額を探しに、地方都市の額専門店へ行った。作品のサイズが大きいので、どれを選んでも結構な出費になる。自然と「現品限り」というフロア置きの魅力的なラインナップに目が行った。しかし、なかなか希望のサイズの額が見付からない。それなりの量の「現品限り」を店内で探すこと約30分。ようやく3枚程見付けたものの、その内の2枚には、「クリスチャン・ラッセン」氏の「A全」程の大きさの、エディション入りの作品が既にマウントされていた。残りの1枚は「ヒロ・ヤマガタ」氏。いずれも額付で5千円前後。しかし寧ろこの5千円は、この額専門店的には額の価格なのであり(何も入っていないものとの価格差は無い)、そこに入っている「クリスチャン・ラッセン」氏や「ヒロ・ヤマガタ」氏の作品は、この店の扱いとしては「額の付属物」であると思われた。恐らくこの額専門店のスタンスは、「これを購入されたお客様が、マウントされている『額の付属物』を各々剥がされる事で、額として使って頂けます」なのであろう。額から出されて裸ん坊になった作品のその後は、各々考えて下さいという事になる。


しかし、結局この額を購入する事は無かった。そのサイズが微妙に希望していたものと違うのと、「クリスチャン・ラッセン」氏のそれは、枠の色が紫と緑という「トロピカル・カラー」だったからだ。「クリスチャン・ラッセン」氏や「ヒロ・ヤマガタ」氏の作品の有無については、この場合どうでも良かったから、例えば「よりによって『クリスチャン・ラッセンヒロ・ヤマガタ)』の『お下がり』なんて」といった様な勿体を付けた理由は、自分には何も無いのであった。枠の色が希望するものではない。一方「ヒロ・ヤマガタ」氏のものは、色は良かったものの縦横比が希望するものとは異なっている。購入しなかった理由はそれだけなのである。

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まさか今になって、「クリスチャン・ラッセン」氏でこんなに頭を使わされるとは思わなかった。例の「CASHI の件(明日25日まで)」である。


この度CASHIにて、8月1日(水)から8月25日(土)までの期間、ラッセン展を企画いたします。


1990年代以降、日本社会全体で高い知名度を誇るクリスチャン・リース・ラッセンは、特に一般の人々からは「美術」の代名詞であるかのように捉えられることがあります。


その一方で、一言に「美術」と言ってみたところで、その美術を取り巻く状況によって、活動の形態も作品のあり方も分断されているのが日本の現状です。例えば、ラッセンがしばしば位置付けられるインテリア・アートであったり、日展院展、二科展に代表される公募団体展であったり、本展会場となるCASHIが活動の舞台とする現代美術などがあります。


「美術」という日本語は、これらすべてを包括していながら、それぞれがほとんど交わることのない大きな歪みも内包してきました。しかし、ひとたび「作品」という単位で比較・鑑賞を行っていけば、その歪みを一旦見えなくさせ、大きな視点から「美術」について考え直すきっかけを作ることができるかもしれません。


出品作家はラッセンに加えて7名を選出いたしました。現代美術を活動の舞台とする作家から、公募団体展で華々しい経歴を持つ作家、特定の業態に位置づけることが難しい作家まで、そのバリエーションは様々です。作品の様態も、絵画、ドローイング、写真、立体、複製画など様々あり、それらを括る最小の単位は「作品」というほかないでしょう。


ラッセンを筆頭に、これまでお互いに有効な分析の機会が与えられることのなかった作品同士を並べ、作品という単位にこだわって美術を見直してみることが、この曖昧な現状に対して最も誠実に向き合う方法であろうと考えて、本展を企画いたしました。つきましては、実際に会場で作品を鑑賞することで、この思いを共有して頂けましたら幸いです。


企画:大下裕司、原田裕規 / 主催:CASHI


http://cashi.jp/lang/ja/exhibition/1150.html


クリスチャン・ラッセン」氏。フルネームは "Christian Riese Lassen" らしいのだが、敢えて「クリスチャン・ラッセン」というカタカナ名で言っておく。というのも「クリスチャン・ラッセン」とは、他ならぬ「日本・美術・問題」の名称だからである。しばしば「問題」として語られる「クリスチャン・ラッセン」だが、しかし「クリスチャン・ラッセン」という「問題」は、日本以外では全く通じない、日本特有の「地方問題」なのである。恐らくは、ヘボン式ローマ字で記述されるべき「問題」だと思われる。


嘗てあんなにも「クリスチャン・ラッセン」だった筈なのに、今では Wikipedia 日本語版ですら、その記述は驚く程少ない。これが Wikipedia 英語版ともなれば、2009年に著作権絡みで "deleted" され、そのまま放置されている。"Christian Riese Lassen" 氏の公式サイトらしきものはあるにはある。


http://www.lassenart.com/


現在 "art" 関係のサイトで多言語併記となれば、アジア圏の代表となるのは大抵「中文」だ。もう少し気が利いたところだと「한글」もあったりするが、「日本語」は割愛される事が多い。しかし "Christian Riese Lassen" 氏のそれには "中文" も "한글" も、或いは "اللغة العربية" も、剰え "Française"、"Deutsch"、"Italiano"、"Español"、"Português" 等々といった数々のヨーロッパ語も存在せず、自身の母国語である英語と「Japan」のみである。これは、 "Christian Riese Lassen" 氏の主要な「顧客」が、他ならぬ日本語の人という事を示しているのだろう。トップページのフッタには、わざわざ "We have developed a website for our Japanese visitors so they may better view and navigate information about Christian Riese Lassen." とある。誘われる儘にそこに入ってみると、恐らく日本向けであろう商品展開や、高級リゾート物件のレンタル事業、そして英語版には存在しない会社概要のページがある。そこには唯一の「支社」がテナントとして入っている「有明フロンティアビル」の堂々たる画像が掲げられているが、一方で、Google Map に、 "Lassen International, inc." の "Headquarter" として記されている住所、 "300 S.El Camino Real Suite 215 San Clemente, CA 92672 U.S.A." を入れると、「わたせせいぞう」氏的な風景の中の、鄙びた "Starbucks" を表示してくれる。どこまでも「日本・美術」の人、「クリスチャン・ラッセン」氏なのだ。


兎に角、1980年代後半から1990年前半の日本では、「クリスチャン・ラッセン」氏は、「ヒロ・ヤマガタ」氏等と共に「目立っていた」存在だった。当時あれだけ「目立っていた」のであるから、当然「売れていた」のだと考えるのが人情というものであるし、実際売れてはいたのだろう。今でも量販店等の「ジグソーパズル」コーナーに行けば、「クリスチャン・ラッセン」氏や「ヒロ・ヤマガタ」氏のそれは、「ディズニー」や「ジブリ」等と並んで定番中の定番である。版画作品の需要は兎も角、2010年代の現在でも、その手の需要はしっかり存在すると言える。


なまじ「売れて(目立って)」いなければ、「問題」の起き様も無かったと想像されるものの、しかし「クリスチャン・ラッセン」氏(及び「ヒロ・ヤマガタ」氏)は、当時「売れていた」様に見えていた(繰り返しになるが、実際もそうだったのだろう)。その「国際」的「美術的価値」を巡っての「問題」が、主に美術関係者から提起された。そうした「問題提起」の一つとしては、この中ザワヒデキ氏のエントリが比較的良く知られている。


 現代美術関係者以外には多少わかりにくいかもしれないが、ヒロ・ヤマガタと聞いただけで耳を覆いたくなるような不快感がこの名にはある。ラッセン、マックナイトなども同様で、視界に入っただけで眼も心も汚されたような気分になる。


(中略)


 私はこれを「ヒロ・ヤマガタ問題」と呼んで、二十世紀中に解決したいとかねがね思っていた。結論を急ぐと、現状の民主主義体制を是認している限り解決不可能と判断した。逆に言えば、美術は、種々の寛容が惹起した商業本位的衆愚とは相容れない何らかの権威によって、画定されなければならない。その権威を、同語反復を内包した論理に求めたのが方法主義であり、私の考える解決である。


http://assman.tumblr.com/post/1120755677


「耳を覆いたくなる」どころか、「目を覆いたくなる」「口を覆いたくなる」の「三猿(見ざる・聞かざる・言わざる)」状態が、「ヒロ・ヤマガタ(「クリスチャン・ラッセン」)問題」とされるものなのかもしれない。だからなのか、敢えて公的な場所で「ヒロ・ヤマガタ(「クリスチャン・ラッセン」)問題」を口にする美術関係者は殆ど存在しなかった。但し、飲み屋での美術関係者の、舌打ちを伴う話題の定番ではあった。そこでは何かに付けて、彼等が「障害」的な存在として認識され、それらの「障害」を取り除けば、何か自分達にとって、とても良い事がすぐにでもやってきそうな、そんな結論に常に導かれていた。しかし正確に言えば、その「障害」の意味するところは、多くは「ヒロ・ヤマガタ(「クリスチャン・ラッセン」)」作品の購買者を(その「販売方法」に「陥落」してしまう事を含め)指しているケースが殆どだった。即ち「ヒロ・ヤマガタ(「クリスチャン・ラッセン」)」そのものではなく、それを「良しとする」人間(中ザワヒデキ氏的なタームでは「衆愚」)をこそ「啓蒙」しなくてはならないという結論に、飲み屋という空間では至ったものである。


クリスチャン・ラッセン問題」に関する美術関係者のエントリとしては、こちらの大野左紀子氏のものも良く知られた存在である。


http://d.hatena.ne.jp/ohnosakiko/20080421/1208731778


こちらでは、それを「良しとする」人間を、「どんなに頑張っても今いち垢抜けず安っぽい趣味に染まりやすい田舎者=ヤンキー」としている様だ。


しかしこうした「問題」は、何も「クリスチャン・ラッセン」氏や「ヒロ・ヤマガタ」氏を待つまでも無かったのかもしれない。例えば「クリスチャン・ラッセン」批判や「ヒロ・ヤマガタ」批判とされている文章に、それらの代わりに誰でも良い、例えば各々思い付くまま「自分が認めたくない日本画壇の大御所」の名前辺りを代入してみても、その「販売方法」を含めて、恐ろしい程に全くその文意が変わらなかったりするかもしれない。即ち「クリスチャン・ラッセン」批判や「ヒロ・ヤマガタ」批判というのは、日本特有の「日本・美術・問題」の伝統に、極めて則ったもの、そのバリエーションであるとも言えるだろう。何故に日本の政治家は「自分が認めたくない日本画壇の大御所」の作品を「良しとする」のか。何故に日本の企業のトップは「自分が認めたくない日本画壇の大御所」の作品を「良しとする」のか。何故に日本の美術界の頂上には「自分が認めたくない日本画壇の大御所」が鎮座しているのか。「自分が認めたくない日本画壇の大御所」作品には、「国際」性の「こ」の字も存在しないにも拘わらず、何故に高値で売れまくっているのか…。等々。しかしこうした問いもまた、飲み屋の話題の極めて伝統的な定番である。そしてこうした飲み屋での極めて伝統的な結論は、日本の政治家も、日本の企業のトップも、そして日本の美術界も、「どんなに頑張っても今いち垢抜けず安っぽい趣味に染まりやすい田舎者=ヤンキー=衆愚」である、「だから(彼等を)啓蒙してやらなければならない」で大抵その場が纏まるのである。「地域」の「愚」に心痛む「国際」派としての自分。「国際」的であろうと常に悩み続ける「地域」特有の「問題」としての「日本・美術・問題」。「ヒロ・ヤマガタ(「クリスチャン・ラッセン」)問題」もまた、そうしたものの一つだ。但し「自分が認めたくない日本画壇の大御所」批判には、常に「虎の尾を踏む」危険性がある。しかし一方で、「ヒロ・ヤマガタ(「クリスチャン・ラッセン」)」批判には、幸いそういうところは無いのである。「問題」そのものが「カジュアル」なのである。


日本に於ける「ヒロ・ヤマガタ(「クリスチャン・ラッセン」)」作品の「販売方法」に問題ありとするのは、リベラル的に正しい批判であると言えるだろう。今でも全く別の絵柄(萌え)の全く別の作家(絵師)の作品が、全く同様の「販売方法」で東京の秋葉原辺り(「3331」近く)で売られている様であるが、但しそちらの方は「クリスチャン・ラッセン」氏級の作家批判、作品批判にまでは至っていない様である。正面切っての「萌え」批判もまた、或る種の「虎の尾を踏む」危険性が存在するのが、他ならぬ21世紀の日本だ。だからこそここでも「三猿」という事になる。そして、それに対する「負圧」もまた、各々飲み屋で発散するのである。


今はインターネットという便利なものがある。「作品」やその「販売方法」への批判は、直接「クリスチャン・ラッセン」氏に「届く」事は「届く」のだ。


http://www.lassenart.com/japan/contact/index.html

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前置きが長くなった。8月の初旬に "CASHI" の「ラッセン展」に赴いた思い出こそを書く筈だった。「日本・美術・問題」の落とし前としての「日本・美術・問題」という入れ子。しかしそれは稿を改めよう。余り間を置かずに「続き」としたい。



【続く】