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心霊

承前


中島智氏から、拙ブログにこうしたレスポンスを頂いた。

大村益三さん @omuraji のブログ、「風狂http://bit.ly/x7NPYH に関連して、<風狂>なる拙文、「亡霊としての芸術」をリンク→ http://genbaken.com/essay/nakashima.html (風狂は遍在する?)


https://twitter.com/#!/nakashima001/status/154965753672630273


早速読んでみる。いや、実はこれを読むのは初めてではないのだが、改めて読み直してみると、これまでここで書き散らしてきた事、そしてこれから書き散らそうとしている事とクロッシングしている部分が少なくない事に気付く。しかし当方は、「脱線」する事をこそ第一の旨としているので、一瞬だけ「覚書」と重なった後、また何処にふらふらと迷い出すか、実は本人にも判らないのである。

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昨年12月に、東京国立近代美術館に行った理由は、勿論、企画展である「ぬぐ絵画―日本のヌード 1880-1945」を見る為にであったが、同時に別の目的もあった。それは、常設展示に、藤田嗣治の「アッツ島玉砕」があればと思って期待していたのだが、しかしそれは展示室には無く、結局それを見る事は叶わなかった。少しだけ落胆した。


 この大きな絵が出来あがった日のことは、藤田邸に住み込んでいる私の女友だちから詳しく聞いていた。山崎部隊長を先頭に全員玉砕の姿を写したその画面のまえに家の者は集まってローソクをともし線香をあげて冥福を祈った。夜も更けたと思われるころ、画面の中央に描かれている山崎部隊長、それから画面に散在している兵隊のそれぞれの顔がふっと笑いかけて元通りの絵の顔にもどったという。「御霊還る」。この不思議な出来事は翌日の新聞に写真入りで報じられていた。そのときローソクがゆらゆらと揺れて少し明るくなりました、と女友だちは異常な感激をこめて語ってくれたものだ。それにしても新聞記者まで呼んで弔いの儀式をしたとは行き届いている。


野見山暁治「四百字のデッサン」 戦争画とその後――藤田嗣治


「全員玉砕」なのである。要するに「死体」ばかりの絵なのである。生半な「幽霊画」など及びも付かない、その数十倍の「大量」の「死」がここにはある。従って、この絵に何が起きてもおかしくは無いのだ。絵の中の山崎保代陸軍大佐(死後二階級特進、陸軍中将)やアッツ島守備隊の兵の死体が、「ふっと笑いかけて元通りの絵の顔にもどった」としても、彼等の「心霊」の致すところであるから致し方無い。


斯様にこの絵は、「心霊」が取り憑き易いのだろう。少し前に、この絵を自作に使用した際、余りにタイトなスケジュールを組んで制作に充てていた為に、疲労がマックス状態になった。「心霊」はそういう時に決まって襲ってくる。朦朧とした頭のまま、それを「額装」していると、「心霊」が画面から現れて来た。


これが「原画」である。



少し見えてきた。



大分見えてきた。



画面の右にすっかり見えている。



また別の日の事である。同じ絵をぼうっと見ていた。すると別の「心霊」が画面から現れて来た。


ここにいる。



それは、正にこれだ。



そして、この「心霊」にも見える。



更に、この「心霊」にすら見える。



折角、竹橋くんだりまで行ったのに、常設展示で、JBの「ゲロッパ(Get Up)!」や、しげるの「愛のメモリー」を聞けなかったのは、返す返すも残念な話であった。

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アッツ島玉砕」に「山崎保代陸軍大佐」や「アッツ島守備隊」の「心霊」が浮かんでくるというのであれば、それはとても良く判る話だ。「アッツ島玉砕」に「藤田嗣治」の「心霊」というのも、まあ判る事は判る。そうした「何がどうしてこうなった」という分り易い因果譚は、例えば心霊写真評論家や心霊写真鑑定家と呼ばれる大衆文化の人が得意とするところであろう。しかし「アッツ島玉砕」に「ジェームス・ブラウン」の「心霊」や、「松崎しげる」の「心霊」や、「超人ハルク」の「心霊」というのは些かも判らないだろう。


勿論それとは別に、「パレイドリアで決まりっ!!ハイッお終い!」としても良いし、「シミュラクラ現象ッ!!プレグナンツの法則ッ!!以上ッ!!」で終わらせても良いのだが、しかしそれではつまらないではないか。さても「パレイドリア」と名指されている「錯覚・錯誤」は、「真理・真実」の「外部」にあるとされている。しかし「真理・真実」をこそ「錯覚・錯誤」の「外部」とする事もまた、集合論的に可能であろう。「真理・真実」以外のものが「錯覚・錯誤」であるという言い方は、同時に「錯覚・錯誤」以外のものが「真理・真実」であると言い直せる。即ちこの絵は、論理的(詭弁的)には、「ジェームス・ブラウン」や「松崎しげる」や「超人ハルク」こそが、「藤田嗣治」によって描かれた「実在」であり、「山崎保代陸軍大佐」や「アッツ島守備隊」の方が、「心霊」側に属しているとする事も可能だ。勿論、論理的(詭弁的)にはであるのだが。


中島智氏の「覚書」にある、「佐賀県の戸野様」が「近所のコンビニでセクシーな女性を発見し、ついつい背後から激写した1枚」である「心霊写真」を例にすれば、


http://www.geocities.jp/sadako134/029.html


床に映った「心霊」こそが「実在」であり、立ち読みをする「セクシーな女性」や、その隣のお兄さんや、雑誌類や、床に至るまでが「心霊」であるとするならば、「床に現れた心霊」ではなく、その逆に「心霊に現れた床」と言えたりもする。我々は、このマッピングされた、2の24乗色のビットの集合、即ち可能的には「ノイズ」でしかない様なものに、「セクシーな女性」や「お兄さん」を「見立て」る事で、ようやく「安心」しているのだとも言える。実際、この「非日常的」とすら言える「セクシーな女性」が、「実在」するとする事の方が、おかしな話かもしれないのだ。先天性の全盲者が、或る日視覚を得たとして、その最初にこの「心霊写真」を見たならば、果たして「どちら」を「真理・真実」とし、「どちら」を「錯覚・錯誤」とするだろうか。或いは、それらは全く同列に存在するものとするであろうか。



アンリ・ミショーの「メスカリン素描」である。しかし何ともまあ「アッツ島玉砕」の死体の山に似ている事であろうか。実際、何も薬物を使わずとも、ノイズなどという有り触れたものはどこにでも存在していて、その気になれば、何時でも誰でも見えるものなのである。全くミショー残念の巻である。


【続く】