【プロローグ】
チャールズ:ダーウィンに端を発するとされる、所謂「進化論」を全否定する思想を持つ人々の数は、地球上の無視し得ないパーセンテージを占める。
http://j.people.com.cn/95952/6593652.html
アダムとイブ以前に「人」は存在しない。「神」とは似ても似つかない、醜い「猿」からの連続性で語られる「歴史」など、嘘っぱちの「偽史」である。「人」は誕生した時から「神」の似姿でなければならない。そうした思想を持つ、無視し得ない数の人達からすれば、「罪」という概念の根本は、「知恵の樹の実」を食べねば発生しない。あの「楽園」に於いては、お馬鹿さんでしかなかった「人」よりも、大脳の機能的には圧倒的に「進化」していた(「優生」種である)と言える「狡猾」な「蛇」に唆(そそのか)されて「知恵の実」さえ食べなければ、「人」は「罪」という概念からは、永遠に免れた筈なのである。
そうした考え方からすれば、これは「楽園」側にあると言える。
この女性像は、一般的には「ヴィレンドルフのヴィーナス」と称されている。現代の基準からすれば、あまりに「あけすけ」な姿であるものの、しかし、見方を変えれば、これは全く「あけすけ」ではない。いずれにしても、そうした「あけすけ」とされているものを、現代の「世界基準」の「道徳」は嫌ったりもするから、その「世界基準」に従った形の、現代の日本の新聞広告掲載基準等では、例えばこの様に修正したりする。
「あけすけ」が「あけすけ」として見えなかった時代ーーそれを仮に「楽園時代」としておくがーーそこから何時どの様にして、「人」が「追放」されたのかは、「知恵の実」譚に頼る事をしなければ、身体の匿名性を失なった事によるところも大きいだろう。即ち「ヴィレンドルフのヴィーナス」が「ヴィレンドルフちゃん」に変わった時が、「罪」への「問い」である「道徳」のはじまりの一つだと思われる。
「ヴィレンドルフのヴィーナス」と「ヴィレンドルフちゃん」を分かつものは、「個人」の特定を最も基礎付ける「顔」の存在だろう。現代の犯罪捜査に於いてすら、DNA鑑定や指紋採取を差し置いて、個人特定の基本は何よりも「首実検」なのだし、生体認証が導入されたIDカードにすら、顔写真が残り続けているのも、そうした事に基づいている。「顔」と「名」が対応した時に「道徳」は頭をもたげる。「罪」への「問い」である「道徳」は、「匿名」の身体には宿らない。「道徳/非道徳」を規定する「罪」は、「問い/問われる」ものであり、それを「問う」特定の相手、即ち「個人」の存在こそが「罪」の「問い」には不可欠だ。
例えばギュスターヴ・クールベの「世界の起源(L’Origine du monde)」に描かれた、「生体」にも「死体」にも見える「顔無し(匿名)」の、医者や検視官のものである様な「裸身(naked body)」は、果たして「非道徳」と言えるだろうか。仮にその「裸身」が「非道徳」に見えたとしても、その「罪」を問われるのは、それを半ば「盗撮」的に描いたクールベにあり、「盗撮」されてしまった「裸身」の持ち主(モデル)には無い。「裸身」は、「道徳」的な人間であろうが、「非道徳」的な人間であろうが、生きていようが、死んでいようが("body" には「死体」の意味もある) 、誰もが「持っている」ものであるからだ。
何よりも「顔を見せる」事をこそ「非道徳」と考える様な文化圏では、「最初」の衣服は、「個人」が特定可能な場所にこそ、装着されねばならないだろう。現在「我々」が最も身近に知るところの文化に於いて、「恥ずべき」とされる身体部位が存在してしまう事は、生物的事実として避けようが無いが、それと「個人」とを対応させる徴である「顔」を隠して、「裸身」を、「匿名」性の、「誰もが『持っている』」ものとしてしまえば、それは「恥ずべきもの」として顕現しない。
こうした文化圏の人からすれば、股間にイチジクの葉を纏った人を描いた絵画は、最優先に隠すべき場所を、根本的に間違えている様に見えるかもしれない。
即ち、これは「誤り」且つ「非道徳」的であり、
これこそが「正しく」且つ「道徳」的である。
「顔無し」の「裸身」であった「ヴィレンドルフのヴィーナス」に、「個人」を特定出来る「顔」を付けてみる。些かこれもまた別の意味で匿名的ではあるものの、ギリシャ時代のヴィーナス像のそれをアイコラしてみた。
途端に「罪」が頭をもたげる。「匿名」的な「身体」は、特定の某という「個人」の「肉体」に変わる。「裸身」は「裸体」に変わる。象徴的であった「身体」は、「豊満なバディ」という個別的なものになる。
「道徳」的であろうとする場合、「顔」を隠す事を最優先としない文化圏ならば、「ヴィレンドルフちゃん」の採るべきポーズはこうなる。
それに今日的な「道徳」のフィルターを被せればこうなる。「非道徳」の「罪」が薄らいだだろうか。
「ヴィレンドルフのヴィーナス」に水着を着せてみた。水着という「衣服」は、我々の知る文化圏では「恥ずべき」箇所を隠す最小限の布地という事になっている。果たしてこれは「ヴィレンドルフのヴィーナス」の「恥ずべき」箇所が「隠れて」いるだろうか、それとも、より「恥ずべき」ものが、より「見えて」しまっているだろうか。或いは、この時にこそ、「恥ずべき」ものが出現したのだろうか。
貞淑と服とのあいだには、たいして重要なつながりは一般にないが、ただし、個人的にせよ社会的にせよ、いつわりの貞淑を服が生み出すということになると、これは話が別である。
アーネスト・クローレイ
【続く】
2009年08月26日初出の文章に加筆修正