利得

ペットになり得る「動物」には様々なものがある。そのマスボリュームは犬や猫という事になるが、その他の哺乳類、鳥類にしても、爬虫類にしても、両生類にしても、或いは昆虫から、果てはミジンコまで、「愛玩」や「共生」の心あるところ、ペットの種もまた尽きまじだ。


当然「愛玩」や「共生」の対象であるから、そこは「無償の愛」の世界であり、「ペットと一緒の生活」という「ライフスタイル」の利得を獲得しようとする人々で動物商は賑わう。そこでは通常「飼い主」は、ペットで「元を取る」とか「儲ける」という形での利得を考えないものであり、ペットに掛けた金は、常に「掛け捨て」であるのが普通であり、そのペットの一生を見届けるというのもまた普通である。「普通」ならば。


しかしペットの世界にも「マーケット」は存在する。その代表的なものは「賢明な交配」の「優生学」的「血統書」が幅を利かす世界だろう。とは言っても、流石に「優生・純血」な上にも「優生・純血」な犬や猫を「仕入れ」ても、それをそのまま転売するという事は余りされないだろうし、その内に、月齢、年齢が上がって、相対的な「商品価値」が下がってしまったりするから、その世代での価格上昇はほぼ見込めない。しかし、ややもすれば断種の対象となる「野良」や「雑種」と異なり、「優生・純血」なペットには、その生殖機能が大いに期待されているところがあり、そうした「次世代」がペットの「マーケット」を構成したりもする。「愛玩」「共生」で終わる飼い主に、リセールの際の「品質保証書」としての「血統書」は、ほぼ無意味だろう。


ペット生産と販売を業とする方々の多くは、そうした世界に属している訳であり、「業」であるからこそ、掛けた「投資」の「掛け捨て」は望まれぬ事である。ペットの価格が「原価計算」と「適正利益」で構成されているならば、「人気種」と「不人気種」の価格差は生じないが、実際にはそうした「気分」である「人気」によって「市場価値」が乱高下する世界だ。「シベリアン・ハスキー」が「人気」となれば、市場価格が上昇する為にそれをフル生産し、「ゴールデン・レトリバー」が「人気」となれば、「作る」そばから売れる為にそれをフル生産し、一転それが不人気、大暴落となればさてどうしましょうである。不人気種の「血統書」、大暴落種の「血統書」。それは果たして如何なる意味を持つだろうか。


ペットの「価格」を左右するのは、主に「生体オークション」である。


こうして、毎週300〜500匹の子犬がこのオークションから関東各地のペットショップへと流通していく。


2008年度、全国の地方自治体に引き取られた犬は11万3488匹に上り、うち8万2464匹が殺された。(略)


流通システムの根幹を成しているのが、ペットオークションだ。ペットショップ(小売業者)は、その仕入れ先のほとんどをオークションに依存している。ブリーダー(生産業者)にしても、出荷の5割以上がオークション頼り。推計だが年間約35万匹の子犬が、オークションを介して市場に流通している。つまり現在の犬の流通は、オークションなしには成り立たなくなっているのだーー。


AERA 2010年5月31日号
http://www.aera-net.jp/summary/100523_001653.html


ここでの「オークション」価格は、そのままペットの「プライマリー価格」に連動する。「オークション」であるから「買い手が付かない」事もある。そもそも「儲け」が見込めないペットはここにはやってこない。それもまた「市場」に於ける「生存競争」、「適者生存」だと嘯く(うそぶく)事も可能ではあるのだろう。ペットの供給もまた、常に需要を上回る。ペットの「人気」は水物だが、しかしそれがペット「業界」に「活気をもたらし」、それはまた「二兆円産業(日本国内)」として「大きな社会的・経済的意味を持つ」に至ったという言い方も出来たりはするだろう。ペットをビジネスとする、養殖・繁殖業、流通業(小売・卸・生体オークション・貿易業等)、役務サービス業(動物病院・ペット美容・ペットホテル・ペットリース等)、製造業(メーカー)等(闇市場等除く)にとっては、活気が無いよりは活気がある方が良い。恐らくそうした思いは、需要側にも幾らかはあるだろう。

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閑話休題


アメリカにおいては現代美術市場が第二次大戦以後、急速に拡大した。1940年と1985年とを比較すると、ニューヨークにおいて、アメリカの現存する美術家の作品を売る画廊とオークションの数は飛躍的に増大し、売却価格も急上昇した。伝統的には、アメリカにおける美術品の購入者とは、「オールドマネー」の保有者(18〜19世紀に巨万の富を築いた実業家たち)であったが、戦後出てきた新たな起業家達は、彼らとは違った「文化」を持つ必要に駆られていた。その中で目をつけたのが、現代美術であったことは、印象派の関連で述べた事情同様である。伝統的な美術品コレクターとは異なり、新興コレクター達は、一旦購入した作品を次々と売却することに、特に大きな心理的抵抗を持たず、むしろ自分のコレクションを「アップグレード」するために、いくつもの作品をまとめて市場に出すこともあり、また、投機的な売買に対するタブー感覚にも薄いという特徴があり、転売市場において活発に売買をするようになった。


河島伸子
追及権をめぐる論争の再検討(1)
ー論争の背景、EC指令の効果と現代美術品市場
http://www.juris.hokudai.ac.jp/gcoe/journal/IP_vol21/21_3.pdf


「一旦購入した作品を次々と売却することに、特に大きな心理的抵抗を持たず、むしろ自分のコレクションを『アップグレード』するために、いくつもの作品をまとめて市場に出すこともあり、また、投機的な売買に対するタブー感覚にも薄い」人達を、「コレクター(収集家)」とするか否かは別にして、そうした人達の存在によって「第二次大戦以後、急速に拡大した」美術市場である。


今般「追及権」について、一部で話題になっている。数日前に「追及権(的契約)」をオークション会社と結んだ村上隆氏のニュースも記憶に新しい。因みに Wikipedia 日本語版には「追及権」の項目は無く、英語版Wikipedia には、フランス語の "Droit de suite" として、短く触れられているに留まる。「追及権」の説明については、以下を引用する。


 一般に追及権は,美術の作品,特にファインアートあるいは視覚芸術作品の著作者の持つ譲渡不能かつ放棄不能の経済的権利とみなされている。オリジナルの作品(原作品),あるいはオリジナルとみなされる作品が公開オークションあるいはディーラー経由で販売された際,この権利によって著作者は販売額の一部を与えられる。


小川明子
日本における追及権保護の可能性
http://www.21coe-win-cls.org/activity/pdf/6/15.pdf


セカンダリー価格が、プライマリー価格よりも高い場合(そうでない場合も当然ある)、作家を含むプライマリーの関係者が、自分達の手の届かないところで、自分達が売ったものが、桁違いの高値で取引されるセカンダリー・マーケットを「面白くない」と思う気持ちはあるだろう。一方で「持ちつ持たれつ」な見方からすれば、セカンダリーはプライマリーの価格決定の根拠として働いているではないかという主張も可能だ。但し美術品のそうした「変動相場」は、プラスにも働けば、マイナスにも働く。


川島氏の論文では、冒頭「追及権」について、「作家(注:文筆家)が、自分の書いた本が一部売れるたびに印税を受け取るのと同様に、美術家も、美術作品が人の手を渡る度に、その利益の一分を受け取るべきであるという考えが基本になっている」とあるが、当然、本の印税はプライマリー段階での話であり、美術作品に於ける、作品が「人の手を渡る」事とは異なるフェイズにある事には十分な注意が必要だ。勿論「複製メディア」である「本」と、そうでない「美術作品」の差もまた存在する訳であり、そこが「追及権」論議の核の一つにもなっている。いずれにせよ、「追及権」が求められる根本には、プライマリーが及ばぬところでの財の形成が「面白くない(バリアント含む)」という「感情」と、その財の形成から疎外された者に対するロマンティシズムの面を持つ事は無視し得ない。


ボロ(これがこの時代の「ボロ」だったのだろう)を纏った貧しい二人の子供が、オークション会場で「10万フラン、落札!」とハンマーが打ち下ろされた絵を指さして「お父さんの絵だ!(Un tableau de papa !)」と叫ぶ、第一次世界大戦前に描かれたジャン=ルイ・フォランのカリカチュアリトグラフ)と、それを元にした新聞のキャンペーンが、「追及権」の必要性を問う切っ掛けになったというのが斯界の定説となっている。そうしたメディアを上げての熱心なキャンペーンによって、フランスは1920年に、世界で最初の「追及権」を取り入れた国となった。


このカリカチュアが描かれた1910年前後の10万フランは、現在の邦貨にして約2億円という計算になるらしい。カリカチュアの中のパパは、当代のセカンダリー・マーケット的に「買い」な上にも「買い」の「人気」画家になったのだ。であるのに、その子供が尾羽打ち枯らしているとなれば、一体プライマリー価格は幾らだったのだろうという疑問も湧く。1,000フランだったプライマリー価格が、死後30年で800,000フランになったミレーの「晩鐘」の如くに、それはセカンダリー価格の1/800だったのだろうか。ならば「パパの絵」のプライマリー価格は25万円という事になる。確かにそれのみでは「食えない」だろうが、しかしプライマリー市場でもそれなりの価格で売れていたにも拘わらず、また存命中で現役中であり、オークションで高値で取り引きされる今となっては、作品のプライマリー価格も急上昇している「人気」画家にも拘わらず、パパはそれによって得た収入を、家庭には一切入れなかったという、或る意味で「芸術家」らしく「家庭を顧みない人」だったという可能性を否定は出来ない。しかしそれでは只の「非道い親」のカリカチュアになってしまい、「追及権」のキャンペーンには全くそぐわないから、そうしたあり得るケースは無しにする事にしよう。


それはさておき、この場合、「追及権」によってこの二人の子供(パパが不在であるとして)に入ってくるのは、売上額の3%であったとしても約「600万円」である。宝くじ高額当選者の中には、人生を誤るケースもゼロではないと想像されるが、振って湧いた「大金(しかし微妙な額)」を手にしたこの子らにも幸多かれと、「大金」が入ったからこそ思わざるを得ない。それをどう配分しようとか、税金対策をどうしようとか、まあそれはそれでとても大変なのであり、それ自体がまたカリカチュアの題材に十分になってしまうだろう。


しかしそれもまたさておき、これは「10万フラン」で売れたケースであるからまだしもであるが、例えば「1万フラン」という、オークション的には「微妙」な額で落札された場合、二人の子供に入ってくるのは約「60万円」である。しかし「60万円」は、この子供達の困窮した生活にとって「焼け石に水」であろう。少しまともなアパートを借りて数ヶ月。或いは溜まりに溜まった借金返済にそれは回されるだろうか。兎に角そこで「60万円」は露と消える。その「60万円(マイナス諸経費+税)」を元手に、彼等はFXでもするだろうか。しかしそれでも「大きな商い」は無理だろう。


いずれにしても、その「60万円」は「当座の60万円」であり、結局二人の子供達の人生そのものは、やはり彼等が切り開いていくしか無いという、「入って」も「入らなくても」同じ様な結論に達する事もあるだろう。要は「追及権」によってもたらされるものは、「名誉の臨時収入」程度に思っておいた方が良いという事だ。仮に「追及権」が謳う「貧しい美術の著作者の保護」にまで至る現実的な金額を、「追及権」だけによって得ようとするなら、作品の不断の、しかも定期的な転売を前提としなければならない。即ち、「一旦購入した作品を次々と売却することに、特に大きな心理的抵抗を持たず、むしろ自分のコレクションを『アップグレード』するために、いくつもの作品をまとめて市場に出すこともあり、また、投機的な売買に対するタブー感覚にも薄い」人達の存在と、その活発な活動こそが、そこでは求められる訳であり、要は「作品と一生を共にする」事は、そこでは望まれる話であるとは言えなくなる。


「若い人の作品」や「無名の人の作品」であったかもしれないカリカチュアのパパの作品は、プライマリー・マーケットでは「リーズナブル」な値段であったのかもしれない。パパは「後の値上がり」によるプライマリー価格の改定によって、「リーズナブル」な値段に抑える為に「マイナス」であったかもしれない「損失分」を相殺しようと思ったのかもしれない。多くの画家の様に「後の値上がり」を夢見るパパ。そうした「後の値上がり」を決定するのは、パパの時代にあっても、プライマリー・マーケットではなくセカンダリー・マーケットだ。皮肉な事に、カリカチュアの場面は「貧しい美術の著作者」であるパパの夢だ。


一人の紳士が画商の元にやってくる。慇懃に迎える画商と「貧しい美術の著作者」パパ。そしてそれを影から見守るボロを纏った二人の子供。「リーズナブル」な絵の売買成立。すると、パパと画商とそして二人の子供が必死の懇願のポーズ。


「お願いです!早くこの絵を高値で売っ払っちまって下さい!決して自分の下に止めておこうなどと思わないで下さい!でないとここにいる皆が生活出来ません!」


それもまた十分にカリカチュアだろう。