内装

NGK」で、自動車用スパークプラグの会社「日本特殊陶業株式会社」を想起する人は多いだろう。しかしこと関西圏に限って言えば、「NGK」は大阪千日前の「なんばグランド花月」を想起させたりもする。


http://www.yoshimoto.co.jp/ngk/


よしもと新喜劇」がほぼ毎日上演される「笑いの殿堂」、「なんばグランド花月(吉本会館)」は、老朽化した旧なんば花月(現スイング吉本ビル)に代わる形で、現在の場所に1987年にオープンしている。メイン施設は当然劇場(「なんばグランド花月」)であるが、2009年までは、その付帯施設として、地階に「お笑い」をテーマにしたアミューズメントパーク「お笑い博物館『吉本笑店街』」があった。今でも消されずに残っている「大阪市観光ガイド」から引く。


なんばグランド花月NGK)の地下にあるお笑い博物館。昭和30年代の商店街をイメージした館内には、吉本らしいギャグがあふえています。人気芸人のブースやみやげショップもあり。新喜劇でおなじみの花月食堂もあり、ファンは楽しめること間違いなしです。


http://osaka-guide.com/01play/02-yoshimoto-market.html


「吉本会館」の地階にある「吉本笑店街」は、内装を昭和再現ものとした室内型アミューズメントパーク(代表的なものに「新横浜ラーメン博物館(1994年オープン)」)としては、比較的後発の2004年3月20日にオープンし、5年後の2009年8月31日に姿を消している。「吉本笑店街」以前は、これもまた内装や設備に投資を惜しまない事で有名だった「オモシロオカシイ・レストラン」をコンセプトにした台湾小皿料理店「青龍門(ソーホーズ・ホスピタリティ・グループ。2004年5月31日に民事再生法の適用を申請)」が2002年8月21日にオープンし、そして僅か1年半程で閉店。その前には、ゲームセンター(「競馬場」)「ロンゴロンゴ イン よしもと店(アドアーズ)」が1996年5月にオープンしている。この店もまた、内装や設備への投資が惜しみの無いものであったものの、2002年2月17日限りで撤退。そして「ロンゴロンゴ」の前に、1987年の「NGK」の誕生と同時にオープンしたディスコ「デッセ・ジェニー(Desse Jenny)」があった。80年代のディスコである。当然内装は凝りに凝っていた。


どうにもこの「吉本会館」地階に入るテナントは、いずれも内装がこの上無く豪華であり、且つ店の寿命は短命に終わるという共通項を持っている様だ。仮に豪華な内装が鬼門であるならば、いっその事、現在「吉本会館」の一階に入っている「ザ・ダイソー」に、この地階にも、普段のままの「ザ・ダイソー」でフロアを持って貰ったらどうだろうとも思ったりもする。商売というのは持続させる事こそが難しい。持続させようと思っても、それでもなかなか持続はしない。その難しさに対して「会社の寿命30年」説が日経ビジネス誌によって提唱される位だ。企画書や企画会議のみで構想された様な商売で数年保ったというのは、それでも長い方かもしれないが、それはさておき。


80年代のディスコ。それはまた、その多くの内装に「現代美術作品」がふんだんに使われていた商業施設の一つだった。現在、ビジネスホテルの内装が現代アーティストの手になるという事が話題になったりもするが、この当時の店舗建築に於ける現代美術の使われようは、比べようもなく呆れる程に「日常的」だった。いや本当は呆れてはいけないのだが、兎に角どの美術家がどこの内装を手掛けたかなどという話が、それが「日常的」過ぎるが故に、どれもが注目すべき「ニュース」にはならなかったのだ。それは、どこそこの業者が、どこそこの店舗や企業の内装仕事をしたかという事が、その業者の関係者以外に些かも話題に登らない様なものだ。従って、結果として余りに普通の話であったが故に、今ではそうした資料が、殆ど残っていないという側面もある。企業とのタイアップ(今で言う「コラボ」)も当時は盛んであり、現代美術の作品が、テレビコマーシャルを始めとする商業広告に、多く使用されてもいた。当時は店舗や企業が、自らの「格を上げる」為に、現代美術を欲していた様に思われたものだが、それで実際に「格」が上がったかどうかは判らない。とどのつまり、ぶっちゃけ、それは「バブル」である。但し、「バブル」時に於いても、現代美術の「タニマチ」は、現代美術の単価(労働力含む)が低いが故に、極めて安価に済ませられる費用対効果の大きいものだった。何故ならば多くの場合、それは純粋な「仕事」の「発注」としてではなく、「制作費」の「サポート」扱いだったからだ。「サポート」。確かにそれが「仕事」上の関係にある「客」や「発注者」とは異なる「タニマチ」という事である。


当然の様に、「バブル」真っ只中、1987年オープンのこの吉本興業のディスコ、明石家さんまが吉本の企業体質を皮肉った「銭でっせ」を倒立させた「デッセ・ジェニー」にも、「現代美術」の内装が施されていた。一人の現代美術家(当時20代)がそのフロアの一部を担当したが、自分の記憶が正しければ、それは美術界のニュースにもならなかった。当時、その作家は、某大メーカーのテレビコマーシャルにも、その作品が使用されていた(当然画面にも作家名が表記されていた)りもしたと記憶する。当の作家としては、それまでのギャラリー展示のものと比べても、スケールの大きさを持つものであり、慎重に計算された訳では無さそう(即ち「丼勘定」)な「制作費」も出るとあって、使用された材料もワンランク上のものだったが、それでも店舗空間での「発表」は、当時の美術界的にはフォローの対象外だった。それは「現代美術作家」による「内装仕事」であり、「美術」的に「自律性」をもつものであるとは言い難いと看做されていたからだ。


やがてバブルが崩壊し、あの「ギーガーバー」ですら、無下に閉鎖解体されるという「時代の変わり目」が訪れる。「現代美術作品」の入っていた店舗は、そこに入っていた「現代美術作品」ごとこの世から姿を消した。今「『現代美術作品』ごと」と書いたが、勿論その「作品」が誰かに買い取られ、或いはそれをどこかの美術館、または作家の取り扱いギャラリーが買い上げ、或いはまたそれを倉庫に保管し続けるコストを負担し続ける篤志的な者の存在があるというのであれば、それらのものは今でも物理的な命脈を保っていられただろう。しかし現実的には、それらのテナントや企業がこの世から消滅したと同時に、誰も救いの手を伸ばす事もなく、それらの「作品」もまた、解体業者によって破壊し尽くされて、どこかの廃棄物処理場行きになっていると考えるべきだろう。そして「デッセ・ジェニー」のインスタレーション作品もまた、その後のゲームセンター、中華料理店、テーマパークの奇矯な用済み内装と同じ様な運命を経たのであろうと思われてならない。何故ならば、美術界ですらそう思っていた様に、それは「内装仕事」であり、決して「美術作品」であるとは思われていなかったからだ。


先日、生まれ故郷の町(東京都)を歩いていたら、30年程前に友人が商店に入れた友人の作品が無くなっていた。代わりにそれにそっくりなディスプレイがそこにあった。外された「作品」と、それに代わる「ディスプレイ」の違い。「作品」には「店名」が入っていないが、「ディスプレイ」には入っている。「作品」の「フィニッシュ」には、技術の「拙劣」から発する「味」があるが、「ディスプレイ」の「フィニッシュ」は、隙が無い程に「完璧」だ。正直なところ、その商店から支払われた額は、「ディスプレイ」の方が遥かに高額だろうと想像される。「作品」の方は、クライアントの「これでお願い」主導で金額が決定され、「ディスプレイ」の方は、曲がりなりにも業者の「見積書」が通るからだ。「作品」はどこかで出血覚悟であり、「ディスプレイ」は多くの場合そうではない。


メキシコの実業家が、どの様なつもりで岡本太郎に発注を掛けたのかは寡聞にして知らない。そのオファーに対して画家が幾らで請け負ったのかも知らない。しかしいずれにせよ、この「壁画」もまた「依頼主の経営状況が悪化したことでホテルは未完成のまま放置されることになり、『明日の神話』もロビーから取り外されて行方不明(「明日の神話」再生プロジェクトサイト)」になった。それもまた、些かも例外的な話ではない。それが例外的であるのは、それが破壊されなかった事であり、それが発見されたという事なのだ。


こうした仕事を自分もしなかった訳ではない。そしてその現状がどうなっているかも知らない訳ではない。それを踏まえた上で書くが、「芸術」は、その権利として、「永遠性」を有していると信じられているところがある。しかし正確には、「永遠性」が信憑されている場所でのみ「永遠性」を保てると言うべきだろう。「永遠性」とは無縁の場所に於いて、「内装」としてのみ望まれている「作品」の場合、そうした信憑の外部に自ら身を置いた運命を「芸術」は覚悟するべきなのかもしれない。であるからこそ、尚の事、それは「芸術」の側からも、そうしたものが「芸術」活動であるとは見做されないのだろう。仮に、ニューヨーク・シーグラムビル内の高級レストラン「フォーシーズンズ」に、マーク・ロスコの「シーグラム絵画」が入ってしまっていたら、そのレストランに誂えた形のそれらの評価は、その後果たしてどうなっていただろう。或いは「明日の神話」がメキシコのホテルのロビーにすんなりと収まっていたら、その評価は果たしてどうなっていただろう。


「芸術」は「永遠性」が信じられている信憑の内側にのみ留まるべきであろうか。それとも信憑の外部の論理に、時に従うべきであろうか。或いは信憑の外部に、自らの信憑を説き続け、時に外部の論理を糾弾するべきであろうか。