英語

流石にその時はカラー放送が当たり前の時代になっていたが、家庭用ビデオは一般化していないという時代だった。それでも学齢以下の女児、小学生の女児達は、その一挙手一投足を難無く覚えてしまった。それを放浪の画家氏同様、サヴァン症候群的能力故と無理矢理括れば括れるのかもしれないが、しかしそう解釈したところで極めて無意味ではあるだろう。但しそうした能力は、誰でも記憶を外部記憶に蓄積する事の出来る現在の日本からは、失われつつあると言えるかもしれない。



上り調子にあった頃の日本という国の、それは「社会現象」でもあった。日本の70年代後半という「時代」を象徴していたとも言える。寧ろ70年代の日本では、美術がそう考えたいところの「もの派」的メンタリティよりは、こちらの方が遥かにメジャーだったのではないだろうか。即ち、70年代日本のメンタリティもまたスチャラカだった。子供達はその二人の振り付けを熱心に覚え、その音盤が大量に売れるだけではなく、彼女達の姿を印刷した、食品から自転車に至る、様々なキャラクターグッズが飛ぶ様に売れた。それから30数年後のAKB48の現在に至るも、全くその効力を失わない、戦後「メディア・ミックス」商売の一大トピックとして、それは大衆文化史の語り草になっている。


このプロジェクトは、日本国内に於いては向かうところ敵なしの存在だった。当代の日本の超一流の作曲家、超一流の作詞家、超一流の振付師を従えたプロジェクトは、やがて「世界」を視野に入れる。それぞれに自身の「ルーツ」が、「そこ」にあると思ったのだろうか。「そこ」で自らの実力を試してみたいと思ったのだろうか。


このデュオ・グループと同時代にヒット作を歌っていた五木ひろし(1975年「千曲川」)、八代亜紀(1977年「おんな港町」)、北島三郎(1979年「与作」)、千昌夫(1978年「北国の春」)、小林幸子(1979年「おもいで酒」)、渥美二郎(「夢追い酒」)、都はるみ(1976年「北の宿から」)等々は、恐らく「世界」などを視野には入れていなかっただろう。太田裕美(1975年「木綿のハンカチーフ」)、イルカ(1975年「なごり雪」)、さだまさし(1977年「雨やどり」)、松崎しげる(1977年「愛のメモリー」)、狩人(1977年「あずさ2号」)等々も、「世界」市場に対しては、明確な意思を持っていなかったと思われる。ハイ・ファイ・セット(1976年「フィーリング」)、世良公則&ツイスト(1977年「あんたのバラード」) 、サーカス (1978年「Mr.サマータイム」)、サザンオールスターズ (1978年「勝手にシンドバッド」)、ゴダイゴ(1978年「ガンダーラ」)、桑名正博(1979年「セクシャル・バイオレットNo.1」)、チューリップ(1979年「虹とスニーカーの頃」)、甲斐バンド(1978年「HERO」)等々は、 それぞれに「世界」市場がその射程に入っていたかもしれないが、しかし彼等の頭上を、この「スタ誕」出身のアイドル・デュオが易々と越えて行ってしまう。「世界」の側から「発見」された、坂本九の「忘れ得ぬ芸者ベイビー(オランダ)」、別名「スキヤキ」の様な例を別にして、日本の大衆音楽が、「世界」を自主的に目指し、実際にそこへの一歩を記した、これは最初で最後の例の一つだろう。


アメリカ「上陸」後、最初のシングルが、1979年5月リリースの " Kiss In The Dark " だ。


マイケル・ロイドによるプロデュースで、アメリカではディスコ/クラブ向けに12インチヴァージョンも存在する。B面の「Walk Away Renee(ウォーク・アウェイ・ルネ)」はレフト・バンクの曲をカヴァーしたもの。


収録曲


A面:Kiss In The Dark
作詞・作曲:Michael Lloyd、編曲:John D'Andrea

B面:Walk Away Renee
作詞:Mike Brown-Bob Calilli、作曲:Tony Sansone、編曲:Erich Buling


http://ja.wikipedia.org/wiki/Kiss_In_The_Dark




ビルボード最高位が37位。キャッシュボックスで最高位49位。そして日本のオリコンで最高位19位の曲である。



極めて凡庸なディスコ・ミュージックに思える。少なくとも、この「ピンクレディー」プロジェクトを支え築いてきた、日本国内での特殊な「コンテクスト」など、端から全く考慮などされていない。そして動画後半の、日本人である彼女達が " Thank You " としか答えられないという仕込みギャグ。既にここで、このプロジェクトの「世界」への道は、極めて険しいものである事が判る。


それでもこのデュオ・プロジェクトは、NBCでレギュラー番組を持つに至る。


Pink Lady and Jeff


"Pink Lady and Jeff" (ピンク・レディー・アンド・ジェフ)は、アメリカ合衆国で制作された、60分枠のテレビ番組。ピンク・レディー出演のバラエティで、1980年に、NBC系で6回が放送された。元々のタイトルは、"Pink Lady"。日本の地上波では、未放送。


概要


1970年代に日本国内で頂点を極めたピンク・レディーは、アメリカ進出を企図。1978年4月、ラスベガスで公演。1979年には、"Kiss in the Dark" を発売し、ビルボードのヒットチャートで37位を記録した。これらの実績の上に実現したのが、NBCでの "Pink Lady and Jeff" への出演であった。司会進行を助けたのは、コメディアンで俳優のジェフ・アルトマンである。


内容は、歌にトーク、コントといったバラエティであった。ゲストは、ブロンディのデボラ・ハリー、チープ・トリックのリック・ニールセン、アリス・クーパーなどのミュージシャンや、ローン・グリーン、レッド・バトンズ、ジェリー・ルイスら往年の名優・コメディアンと多彩であった。当時、大ヒット・ドラマ「ダラス」に主演していたラリー・ハグマンも、ゲストの一人であった。番組のエンディングでは、ピンク・レディーがバスタブでビキニ・スタイルになって、ジェフと共に行うショート・コントが流された。


評価


この番組について、多くのアメリカの書籍やサイトでは、ワースト番組(もしくはショー)として酷評され、6回で終了した理由についても、視聴率の不振による打ち切りとされている。


これに対し、実際はNBCとの契約は7年であり、本番組については10回放送の申し出があったものの、ピンク・レディー側(増田恵子)の希望により6回で終了に至ったもので、平均視聴率は22%に達していたという、全く逆の言及もある。


いずれにせよ、アメリカの3大ネットワークで日本人が持った冠番組は、現在までのところこれが最初で最後である。アメリカでは放送から二十年以上を経た今日、全回分を収めたDVDが販売されており、根強い人気が存在することもまた確かである。


http://ja.wikipedia.org/wiki/Pink_Lady_and_Jeff





その理由に諸説あるものの、いずれにしても、このプロジェクトのアメリカ進出は、結果的に「アメション」の形で終息してしまう。


アメション


アメションとは、アメリカへ短期渡航した人をからかう言葉。


【年代】 1950年(大正時代〜)  【種類】 −


アメションの解説


アメションのアメとはアメリカ、ションとはしょんべん(=小便)を意味し、「アメリカへ小便をしに行った」という言葉を略したもの。戦後占領下の日本では代議士、芸能人といった著名人が箔をつけるため、続々とアメリカへ渡った。そんな著名人に「アメリカへ行って小便しただけだろう」という冷やかしの意を込めてアメションと言った。アメションという言葉自体は大正時代から使われたが、こうした経緯から戦後流行語となり、イギション(イギリスへ・・・)、フラション(フランスへ・・・)といった派生語もうまれた。


日本語俗語辞書
http://zokugo-dict.com/01a/amesyon.htm


しかしこの「世界」進出は、「箔をつける」どころか、渡米前から失速気味だったデュオ自体の日本国内に於ける寿命を縮める結果になり、結局帰国後僅か1年で、このデュオは解散する。


彼女達にもう少し、英語の語学力があり、精神的粘りがあれば良かったのだろうか。或いはそのプロジェクトに関わった全ての日本人が、「世界」のショービズ界に「ピンクレディー」プロジェクトの何たるかが判る様に、日本のショービズの独特の事象、概念等を、「世界」のショービズ界の理解のキャパシティーを考慮し、「世界」のショービズの文脈に載せて、堪能な上にも堪能な英語で説明すれば良かったのだろうか。


一つだけ、これらの動画を見て判る事は、「世界」のショービズ界からは、「ピンクレディー」という、或る種の奇跡的成果物は、永遠に生まれ得なかっただろうという事だ。彼等にその概念を説明したところで、彼等はそれを理解し、それを好もうとする欲望そのものを持たないだろう。それは語学などでは到底覆せない。


ピンクレディー」は、ローカルな制約だらけかもしれない日本の芸能界の文脈にあってこそ生まれたという事実があるその一方で、「世界」のショービズには、「世界」と名指された国のショービズなりの限界や制約がある。彼女達やそのプロジェクト・スタッフ達が、幾ら英語に堪能になろうと、それでも限界はあるのだ。それはこちら側の限界もあるだろうが、受け入れる側の限界も大いにある。結局英語が堪能になればなる程、それは「世界」のショービズ界の中の、ニッチな「アジア系」の凡庸なシンガーへの道を歩まされるのかもしれない。それは彼国に生まれた「アジア系」のシンガーやダンサーが常に直面する問題だ。数多の輸出アーティストの様に、日の丸を掲げて、その日の丸の事情を説明すれば良いという話ではない。


しかし説明と共に輸出するそれこそが、一部の人には「国際化」という事なのだろう。確かに「世界」のネイティブ相手に「国際化」とは言わない。