自首

承前


本来の予定では、次にアドルノの「文化批判と社会」について続編を書こうと思っていた。こうした有事の際には、必ずと言って良い程、文化という野蛮(アドルノ)が、社会の混乱に乗じる形で、野蛮のブルドーザーを出動させるからだ。


有事になると、殊勝にも文化は自らの無力に一旦は敗北感を表明したり沈黙したりする。勿論こうした敗北感は、文化の自らに対する故無き優越感の、単純な裏返しである事は論を俟たない。本来無力であってはならない「物神(実際には恣意的信仰対象である)」であるのに、現実的には無力の地位に貶められているというルサンチマン、「世が世ならば」の積年のレコンキスタ(再征服)的怨念が、文化という野蛮を横溢している。その再征服の国土の嘗ての治世が、何時の世の話なのかは判然としないし、そうした文化の治世が、現在から遡行的に想定されたものではなく、現実的に地上に現れたのかどうかもまた判らない。


しかし一瞬の無力感の後、一転して文化は有事に対して高揚を覚える。有事は世界に構造変化を将来させる筈だ、その構造変化に文化が必ずや(その「必ず」の根拠は極めて薄弱である)組み入れられる筈だ。勿論こうした薄弱な根拠に基づく、この上ない程の高揚感もまた、敗北感の単純な裏返しだ。嘗てタモリは、台風が来るとその非日常性に心踊ると言っていたが、タモリならぬ文化もまた、有事の非日常性に心踊る。有事になると文化は張り切る。ウキウキワクワクする。文化はようやく自らの出動機会が与えられたと勘違いして、お呼びの掛かっていない大火事の現場に、通俗の水鉄砲で駈け付ける。


構造変化を見込める有事になると、文化はここぞとばかり「恨みはらさでおくべきか」の魔太郎になる。有事の度に発せられる「今こそ文化が求められている」は、単純に「今こそ恨みはらさでおくべきか」的な復讐の呪いの言葉であり、同時にそれは権力を巡る言説である。文化は常に自らが権力化する事を欲している。だからこそ、文化は普段から権力的に振る舞う事で「その時」を待ち続ける。「実際はもってもいない独立性をもっているようなふりをして、厚かましくも指導者づら(アドルノ)」するのが、文化の特徴的な生態である。


文化と有事。文化とフクシマ。それらは本来どこまでも並行的な存在だ。それでもその並行を無理矢理クロスしようと望むならば、そこには道を付けなくても良い場所に無理矢理道を通そうとする、極めて土建的なバイパス工事が必要とされる。文化とフクシマのショートカットはそれ自体が土建的だ。そして土建的なアプローチによって野蛮のブルドーザーが出動する。「フクシマから世界に文化を発信していく」という言辞は、「私の発表機会をフクシマに作る」を意味したりもする。フクシマの問題であるものの、フクシマ人(≠福島人)にそれを任せる事は無いのだ。




【緊急開催!!】「REAL TIMES」 は、全体をとおして3月11日以降の「今→リアルタイム」、そして今という「リアル(な/の)時代」をテーマに した新作展です。ぜひ!!! http://p.tl/1xsT 予告動画!!!!!!→ http://p.tl/mpVV


http://twitter.com/#!/chimpomworks/status/68941681768153089
http://hara19.jp/archives/6635


この予告動画は、伝統的なティーザー広告という釣りである。


ティーザー広告(ティーザーこうこく)、ティザー広告とは、広義では、ある要素を顧客に明らかにしないことによって注意をひこうとする商業広告の一手法で、狭義では「本来、広告で伝えるべき商品についての要素のいくつかを意図して明らかにせず注目を集める広告手法」と定義することができる。英語のtease(じらす)から命名されている。覆面広告とも言う。ウェブサイトを使った場合にはティーザーサイトと呼ぶ。


概要


本来、商業広告とは、広告主がある商品やサービスについて、顧客が購入したり利用したりすることを促すために作成・流布させるものであるため、当然に、その商品やサービスについての名称や価格、性能、効能等を明記・明示し顧客に説明することとなる。


しかし、類似の商品やサービスが他にあり、また商業広告が多く作成・流布されている中では、通常の広告では顧客の注意を引かないために、より派手な色彩、デザイン、音楽等の表現を用いて工夫を凝らすことになる。その発展として「本来あるべきものがない」表現は一見して奇異な印象を残すため、顧客の注意を引きやすい。


そうして顧客の「いったいこれは何であろう?」という興味を喚起したうえで、ある日付以降に全てを明らかにしたり、ある操作(例えば封筒を開封、インターネットサイトでの会員登録、等)を行わせて、広告で伝えるべき要素を明らかにする。このように顧客はじらされることにより意識が能動的にその広告に向けられているために、広告の効果が大きくなると考えられている。


Wikipediaティーザー広告
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%86%E3%82%A3%E3%83%BC%E3%82%B6%E3%83%BC%E5%BA%83%E5%91%8A


こうした釣りに可憐に釣られる「顧客」もまた伝統的に存在するが、それはさておき、今回は「覆面広告」はもとより「覆面アーティスト」の手法も、渋谷の「ビキニ環礁以降の野蛮な絵」に対して、「ネタの人」である彼等は使用した。その甲斐あってか、粗忽な人の中には「バンクシー」なる、それ自体が文化の言説空間に留まる現象と、この宴会芸ならぬ「宴会芸術」の人達を比肩し得ると評価もする。当然それもまた、彼等の算盤ずくによって、広告効果として狙ったものなのかもしれない。そしてそれで得られるものは、「東京ビートルズ」的「日本バンクシー」といった様な、ローカルソサエティの為のブリキの勲章かもしれない。しかし「バンクシー」と異なり、沈黙に耐えられない人達は、結局「私がやりました」と自首をして名を売ろうとする。名を出せば、その名を巡って「文化」的なお喋りが生起する事を、自身知っているからだ。


Twitterの「美術者」関連のTLには、渋谷の一件が「ネタの人」達による仕込みである事が、予告PVによって明らかになって以来、Chim↑Pomがどうしたとかこうしたとか、それに対して「さすが」であるとか「がっかり」であるとか、そうした他愛のない「有名人(Chim↑Pom)」を巡るお喋りの数々で埋め尽くされている。しかしそれらは、飽くまでも「有名人(Chim↑Pom)」と、彼等の提供する「商品」を巡るお喋りに留まるものであり、フクシマそれ自体に寄せられるものではない。Chim↑Pom(文化)に心寄せればフクシマはどうでも良く、フクシマに心寄せればChim↑Pom(文化)はどうでも良い。それら並行的なものの総合は、不可能である以前に無意味だ。それらに無理矢理バイパス架橋工事をして、恰も関係するものとして振る舞おうというのは、極めて暴力的に土木的である。フクシマは文化によって、自らの活動のネタとして利用の対象となる。その仕込みの為には、勇猛果敢にフクシマに乗り込みもするだろう。そして「文化者」は、こうした「文化」的「ネタ」を面白がるだろう。面白がり、一瞬フクシマに心寄せた気になり、文化批判(アドルノ)をしたかの如き気分を得ると、それで彼等のフクシマはお終いになるだろう。


渋谷の「明日の神話」の一件にしても、結局「展覧会(REAL TIMES)」への顧客動員の為の商売上の「仕込み」であったと言え、それにまんまとそれに乗せられ、乗りたいと思う者もまた、極めてお人好しか、暇潰しを求めて止まない暇人か、「文化者」の何れかであるだろう。そうしたお人好しや、暇人や、「文化者」は、極東の一地方都市の下町(東京もまた一地方都市だ)の狭い部屋で、時限的に行われる「展覧会(REAL TIMES)」とやらを見て、そこで一体何を思えば良いのだろうか。今更「展覧会」にのこのこと出掛けなければ、フクシマに対する想像力が引き起こされないというのだろうか。それとも「有名人(Chim↑Pom)」がやりたかった、伝えたかった事を、ニコニコと理解してやる事だろうか。


で、それがどうしたというのだ。


【続く】