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アイデンティティ・クライシス

今から20年以上前に「湾岸戦争(Gulf War)」と呼ばれる「戦争」があった。それを「正確」に記している解説があるかどうかは判らないし、そもそも何をして「正確」であると言わしめるかも判らないが、取り敢えず朝日新聞社の現代用語事典である「知恵蔵」ではこう触れられている。


1990年8月のイラククウェート侵攻以降、国連安保理は再三にわたって撤退を要求、同年11月、翌91年1月15日までに撤退しない場合は武力行使を加盟国に認める決議を成立させた。期限切れ直後、米軍を主力とする多国籍軍イラク空爆で戦争が開始された。戦局は多国籍軍の圧倒的優位のうちに推移、同年2月末にはクウェートからイラク軍が一掃されて停戦が成立した。だが、敗北にもかかわらずフセイン体制は存続。フセイン体制をいかにすべきかという問題が残った。湾岸戦争は問題の解決ではなく、イラク戦争への通過点であった。この戦争が示したのは米軍の圧倒的な強さであった。日本、ドイツ、アラブ産油諸国による戦費の負担も特記されるべきである。米国のたどり着いた軍事力の高みと、当時の経済力の凋落(ちょうらく)を示した戦争でもあった。


「解説文」として、この文章が妥当であるかどうかは判らない。特に後半部分は、Wikipediaなら修正を求められるだろう。「知恵蔵」以外にも、世の中には数多くの「湾岸戦争」の「解説」がある。「不足分」はそれで補うと良いだろう。


1991年の1月17日に、「国際連合国連(United Nations=連合国)」は、「アメリカ合衆『国』」主導の「『多国籍』軍」で、イラクへの爆撃(「砂漠の嵐」作戦 operation desert storm )を開始した。そのオペレーションは、人類初の「リアルタイム中継」された戦争の作戦でもあった。バグダットの夜間対空砲火の映像が夜を徹して流され、イラク攻撃に使用された巡航ミサイル「トマホーク」に搭載されたビデオカメラによって、「攻撃」そのものの映像が、「攻撃」側の視点で世界中に共有された。


世界の想像力は、テレビゲームの如き「中継画像」のその先に、リアルな殺戮を想起した。そして世界中で「反戦運動」が起きた。ニューアカ「末期」の「文化人」は「文化人」で、それぞれにその「リアルタイム中継戦争」を、カントやクラウゼヴィッツヴィリリオ等の「戦争論」を使って分析したりもした。時の日本政府は、「『多国籍』軍」に90億ドルを「援助」する事を決定する。こうして日本は「湾岸戦争」に「参戦」した。


そうした中、1991年2月9日に文学者(柄谷行人中上健次川村湊田中康夫高橋源一郎いとうせいこう等)による「『文学者』の討論集会」が行われ、その「集会」から「アッピール」が提出され、新聞各紙朝刊にそれが掲載された。


「アッピール」は二つの声明文から構成されていた。


声明1
 私は日本国家が戦争に加担することに反対します。


声明2
 戦後日本の憲法には、『戦争の放棄』という項目がある。それは、他国からの強制ではなく、日本人の自発的な選択として保持されてきた。それは、第二次世界大戦を『最終戦争』として闘った日本人の反省、とりわけアジア諸国に対する加害への反省に基づいている。のみならず、この項目には、二つの世界大戦を経た西洋人自身の祈念が書き込まれているとわれわれは信じる。世界史の大きな転換期を迎えた今、われわれは現行憲法の理念こそが最も普遍的、かつラディカルであると信じる。われわれは、直接的であれ間接的であれ、日本が戦争に加担することを望まない。われわれは、『戦争の放棄』の上で日本があらゆる国際的貢献をなすべきであると考える。
 われわれは、日本が湾岸戦争および今後ありうべき一切の戦争に加担することに反対する。


一九九一年二月九日


1991年の「文学者」にとって「世界史の大きな転換期」とされた「湾岸戦争」に対するこの「アッピール」の「声明2」には、柄谷行人中上健次島田雅彦田中康夫高橋源一郎川村湊津島佑子いとうせいこう、青野聰、石川好、岩井克人鈴木貞美立松和平、ジェラルディン・ハーコート、松本侑子、森詠といった「発起人」16名が「署名」し、より「抽象性」の高い「声明1」には、その16名を含む43名が「署名」した。


政治的実効性に於いて、この文学者による「声明」が、無効であり無力である事を予め承知しているという前置きを彼等自身が出す程には、自らの「声明」の限界に対する最低限の自己認識はされていたと言える。後々この「声明」は、文学界、言論界で「論争」の種となる。しかし「声明」やその後の「論争」は、結局のところ「文学界」や「言論界」に留まったものであり、その「論争」もまた、政治的実効性に於いては、無効であり無力であったと言えるだろう。「文学に何が出来るのか」という問いを前提にする限り、現実的には「文学」は「何も出来ない」のだ。それは、1964年にル・モンド紙に対して答えたジャン=ポール・サルトルの、「飢えた子供の前では『嘔吐(注:サルトルの「代表作」)』など何ほどのものでもない」「作家たるものは今日飢えている二十億の人間の側に立たねばならず、そのためには、文学を一時放棄することも止むを得ない」の何度目かの反復の極東版であると言える。


それでも彼等「文学者」が、無効で無力な「声明」を出さざるを得なかったのは、「戦争の報道が毎日されてるのに普通に生きてるのが、なんとなく落ち着かない、何もしないのが後ろめたい気がする」という、「文学者」としてのアイデンティティ・クライシス、文学者の存在意義そのものに関わるものであったからだと言えよう。「後ろめたい」がその時限りなのか、常にそうなのかは別にして、「文学者」をしてそうした「止むに止まれぬ」行動に至らせた状況を、当時の「文学」の価値の下落と、その回復への願望の証とする事も可能だろう。しかしその分析は、「文学」の現状を「失地」状態にあるとして、そうした「失地」状態の「以前」には、「文学」の「影響力」が相対的に高かったという、些かレコンキスタ的な思い込みを正当化させるに過ぎないとも言える。こうして「危機」を「好機」にする事で、「文学」は自らの「王土回復」を試みようとする。


前述のサルトルの答え/問いに対して、当然「文学は飢えている子供を感動させる事ができるのです」という「模範解答」が存在する。しかし「文学者」を「文学生産者」と換言してみれば、「文学者」は「文学商品」を生産する者となり、それ以上でもそれ以下でもなくなる。実際「文学商品」が「文学消費者」の手に渡り、そこで「感動」が生まれるかどうかは極めて蓋然的であり、「文学商品」の中に「感動」が「成分」の如きものとして、その生産段階から含まれている訳ではない。従って「文学は飢えている子供を感動させる事ができるのです」は、「文学は飢えている子供を感動させる事も時にはあるのです」と言い直さねばならないだろう。「文学」でありさえすれば、「飢えている子供」がそれに対して、100%「感動」する訳ではない。そして、その「感動」生成の確率が、他のジャンルの生産物に比して圧倒的に大きなものかどうかもまた判らない。


しかしそれでも「文学者」は「文学生産者」以上の、他の生産者とは属しているレイヤーが全く異なる存在でありたいと思うのだろう。だからこそ「文学者」は、他の生産者が発する事のない「文学に何が出来るか」という「問い」が可能であると信憑する。そしてそこでは、「文学に何が出来たのか」や「文学は何をしてきたのか」という「問い」は常に省略される。


そしてこの文学者達の「アッピール」から遅れること数日。こちらは本当に忘却の彼方にあり、その資料も殆ど残っていないが、当時の現代美術作家や関係者による「湾岸戦争」に対する「声明」もまた表明された。こちらは新聞に掲載される事は無かった。


その内容は、この文学者の「アッピール」と大きく異同するところはないという記憶があるが、寧ろその最大の共通点は「文学に何が出来るか」と同様の「美術に何が出来るか」という自問自答の「問い」の形にあったと言える。美術家もまた、その「声明」が無効で無力である事を知ってはいただろうが、それでもそれを発せざるを得なかった。そしてここでも「美術に何が出来たのか」や「美術は何をしてきたのか」という「問い」がされる事は無かった。


今日もまた、「文学に何が出来るのか」や「美術に何が出来るのか」の「問い」を発しながら、傷ついた者に対して「心のケア」が必要であり、それを自らの「文学」や、自らの「美術」が担えるとする立場がある。傷ついた者の「文化」的生活を、自らの「生産物」が提供出来るとする立場がある。確かにそれは、自身の「生産物」である「文学商品」や「美術商品」に対する一種の「品質保証」には違いない。しかしその「因」と「果」の関係もまた、蓋然的であり必然的ではない。「文学に何が出来るのか」や「美術に何が出来るのか」には、自らを蓋然性の対象であるとは認め難い、「文学」や「美術」による自身の必然化への欲望がある。「文学に何が出来るのか」や「美術に何が出来るのか」は、ひたすら自らの必然を獲得しようとする足掻きの「問い」だ。しかしその必然が、永遠に出来しないのもまた確かだったりする。何故ならば、それは「文学」や「美術」以外では、全く無意味な「問い」だからだ。


それでも「文学者」や「美術家」は、黙々と、粛々と「文学商品」や「美術商品」を作る事には我慢がならないのだろう。危機に際して、自身の必然性を声高に問いたくなる。それはその必然性を、自ら半ば信じていないからなのかもしれない。


【続く】