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重責

その「現代美術家」は、現在還暦を過ぎている。30数年前に、この作家が発表し始めた時には、この作家は十分に若く、自身の未来への視界は大きく開けていた。作家人生の「先行投資」の時期。「美術界」の言説もまた、その作家の試みが、やがて「美術史」に「回収」可能な「先行投資」であるかの様に語っていた。「現代美術家」は、自身がそこで見ていた「未来」が、しかし「有限」なものであるとは思っていなかっただろう。そして今、やがて行かねばならない彼岸へのカウントダウンが始まろうという「お年頃」である。妻帯者である。子供もいる。

「現代美術界」では、この「現代美術家」は「有名」であると言える。日本国が関係したものも含め、数々のプライズに輝いている。従って作品価格は上昇した。その価格は超高級車クラスだ。

その作家の作品は「置き場所」を選ぶ。一般的なマンションには置けない。平均的な一戸建てでも無理だろう。そもそもその作品の成立に、日本家屋の「畳」モジュールは、念頭に置かれてはいない。その為に特別な一室を設けられる者のみが、その「超高級車」を購入出来る。故にその作品はほぼ売れない。

美術館が、その「有名」故に、この作家の作品を購入する事もままある。しかし全国津々浦々の美術館がそれを買う訳ではない。畢竟捌ける数は限られている。美術館にも「買わない」「寄贈を受け入れない」理由というものが多々存在する。運良く美術館に潜り込ませる事が出来たとしても、多くの場合「同時代」の「日本現代美術」を「説明」する「ドキュメント」以上の意味では無い。

単純に「商売」として見てみれば、このクラスでも「現代美術」というのは「割に合う」ものではない。得られるのは、それ自体が移ろい易い「評価」だけだ。従って間断なく展覧会を行い、作品を作り続けるという「一流」の「美術家」生活を、その人生の最後の最後まで維持する為に、この作家は「美術大学教授」という「副業」を持っている。その「副業」が、安定した「一流」の「美術家」生活を「保証」する。

美術大学教授」であるから、「展覧会」は「美術大学」という「職場」での「評価」の対象になる「業務」の一部でもある。従って「美術大学教授」の「現代美術家」は、その意味でも「作品」を作らねばならない。事実上売れる事のない超高級車クラスの「作品」は生産され続ける。その一方で妻子は養わなくてはならないが、「作品」で発生した「赤字」は、「美術大学教授」の安定的な「ギャラ」が埋め合わせてくれる。

ここまでが「エピソード1」だ。そしてやがて「エピソード2」が訪れる。「エピソード2」は「作家の死」という、何人たりとも避けられない現実から始まる。前回の記事では彫刻家・建畠覚造氏の御子息である、建畠哲氏の「苛烈」なエピソードを紹介した。そこに書かれた「後始末」は、しかし「物理的」なものばかりではない。

相続税」。日本ではこの問題が、大きく「美術家」の「遺族」に立ちはだかる。それは同様に、「美術家」の「遺族」だけではなく、「コレクター」の「遺族」にも立ちはだかる。「相続税」が発生する点で、「美術」とそれ以外のジャンルは決定的に異なる。

「美術」と「相続税」の関係。その「優れた」ドキュメンタリーに、「奥村土牛」の御子息、奥村勝之氏による佳書がある。

相続税が払えない—父・奥村土牛の素描を燃やしたわけ:奥村 勝之 (著)

http://www.amazon.co.jp/%E7%9B%B8%E7%B6%9A%E7%A8%8E%E3%81%8C%E6%89%95%E3%81%88%E3%81%AA%E3%81%84%E2%80%95%E7%88%B6%E3%83%BB%E5%A5%A5%E6%9D%91%E5%9C%9F%E7%89%9B%E3%81%AE%E7%B4%A0%E6%8F%8F%E3%82%92%E7%87%83%E3%82%84%E3%81%97%E3%81%9F%E3%82%8F%E3%81%91-%E5%A5%A5%E6%9D%91-%E5%8B%9D%E4%B9%8B/dp/4890368906

アマゾンの「商品紹介」の短い文章が、その「苛烈」の一端を垣間見せる。

母一人、子供七人、相続のとき。残された手段は、愛する父の素描を泣きながら大量に燃やすことだった。日本画壇の最高峰として活躍した奥村土牛の人生と家族との交流を入れながら、息子として体験した相続税の苦しみをつづる。

レビューにもある様な、「燃やさずに売れば良いのではないか」というのは、余りに「美術品」という「商品」を知らなさ過ぎると言える。畢竟「美術」とは、「売れない」にも拘わらず、「高額」な値段を付けた「商品」を作り続ける事で、初めてその「価値体系」が成立する世界なのだ。「美術品」が「高額」である理由は、決して「引く手数多」で「需要」が「供給」を上回るからではない。「美術品」は、そうした「商売の常道」からは外れた「特殊な商品」だ。その「高額」を、「箔」と換言しても良いかもしれない。そして、この書にある様に、「文化勲章受章者」で、作品価格もまた超高級車クラスの「奥村土牛」の遺族は、「作品」の「箔」の結晶である「市場価格」によって人生を「狂わせ」られる。

「武士」に生まれたから、その子孫も永代に渉って「武士」であるとか、「農民」に生まれたから、その子孫も永代に渉って「農民」であるなどという「カースト制度」は無くなったとされているが、こと「美術家」に関しては、多かれ少なかれ、望む望まないに拘わらず、「美術家」の子孫は「美術」に拘わらざるを得ない人生を歩まされる。場合によっては「美術家」の子孫は、永代「美術」に閉じ込められる。

冒頭の「有名現代美術家」の話に戻る。「現代美術家」を演じねばならない「公式」の場所では、決して発しないだろう「気の置けない」場所で出た発言だと思われるが、この「有名現代美術家」は、「家族」から「これから新作を作るな、発表するな」と言われていると吐露したという。やがて到来する「有名現代美術家」不在の時に備えての「家族」からの「先手」である。

兎に角「美術品」の「価格」を成立させる、「売れない」にも拘わらず「高額」であるという「有名現代美術家」の作品に対して算出される「相続税」は、極めて莫大なものになるだろう。それは確実に、「遺族」の生活を、事実上蝕んでいく。それによって「一家離散」というケースも無いではない。「作品」を「売る」事で、莫大な「相続税」に充てようとしてみても、「有名作家」ですら作品がそれ程「売れる」ものではないというのは、「奥村土牛」のケースで既に見たところだ。

日本の「相続税」の制度が「おかしい」という立場を採る事も当然可能だ。しかし前回も見た様に、「美術」の「後始末」は「税」だけではなく様々なフェイズが存在する。それを一々クリアする人生を強制的に歩まされるのが「美術家の遺族」だ。勿論それは「美術家」だけでなく、「コレクターの遺族」も同断である。

「作品」を破棄すれば、様々に非難が返ってきたりもする。「作品」を残せば、様々に負担が伸し掛る。果たして「遺族」はどちらを選択すべきなのか。或いはそれが「美術」でありさえしなければ、問題の幾つかは解消されるのだろうか。

「有名現代美術家」の話を報告したのもまた美術家だ。その美術家も、その仕事場に行く当ての無い多くの作品を抱えている。そして残る人生の時間はそれ程多くない。美術家は、「美術品」の遣り取りを、誰かが確実に「ババ」を引く「ババ抜き」に例えた。

「さてこれらをどうしようかね」

顔を合わせれば、その話題ばかりだ。