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貴賎

嘗てその「アーティスト」は「日本現代美術」のそれなりに「重要な作家」だと目されていた。現在の「基準」からすれば、それは「無きに等しい」や「児戯に等しい」のかもしれないが、それでも1980年代なりに、「日本現代美術」には「アートシーン」が存在し、その「アートシーン」に於いて、彼の名は「広く」知られていた。当時の「美術手帖」の折々の特集には、彼の名が何回か掲載されていたし、同誌の「現代作家訪問インタビュー」的な企画でも、ピックアップされる事が多かった。


彼は自分の出自を呪っていた。


「本当に馬鹿なんですよ」


彼の口から「馬鹿」と言われているのは彼の父親だ。


「本当に嫌で嫌で堪らなかったんですよ。何も新しい物を生み出す訳じゃないし、そもそも周りからも尊敬されるどころか馬鹿にすらされているんですよ。新しい物を生み出さないなんて、全くろくな物じゃありませんよ。最低です。父親は僕に仕事を継がせたかったみたいですけどね」


そしてそれに続けて彼は言った。


「だから僕はアーティストになったんです」


彼が考える「アーティスト」の対極にある、彼の父親の職業は、所謂「職人」だ。来る日も来る日も、クライアントに請われて仕事に出掛ける。当然その仕事には「技術者」の「工夫」は存在するものの、「個人」の「表現」はインクルードされていない。金持ちの屋敷に呼ばれて仕事をし、3時休みに縁側で茶を出されては、クライアントの奥様相手にお愛想を言ったりもする。それを話す時の彼は本当に嫌そうだったが、その彼は父親がそうして働いた対価で美術大学に行き、その「家業」は彼の弟が継ぐ事になった。


彼と会う度、事ある毎に彼はこの話を出してきたが、常にある種の「不幸」を感じざるを得なかった。その「不幸」の淵源は多々あるだろう。「エディプス・コンプレックス」なる、一般受けする単純な物語で説明する事も可能かもしれないが、しかし実際には、それぞれの環境によって、より様々に輻輳した複雑な感情や事情があると思われる。「アーティスト」と「アーティザン」の間に存在するとされる、職業的「貴賎」の問題も大きい。当然そこでは「アーティスト」は「貴」で、「アーティザン」は「賤」という事になる。


いずれにしても彼は念願の「アーティスト」になった。彼は「貴」の仲間入りをした。当時、彼を熱心に推す有力美術評論家もいたし、その評論家は彼の大作を購入したりもした。「80年代日本現代美術」は彼の作品を幾度も語った。今でも「戦後日本現代美術史」的な特集が組まれる事があれば、その名がその端に入っているかもしれないという、それなりの「名声」も得た。彼の「取り扱い画廊」も複数存在し、現代美術の海外展の「日本代表メンバー」にも入った。パブリックアートを制作し、今でもそれは残り続けている。そのまま行けば、今頃はどこかの美術大学で後進指導の立場に就いていただろうと想像も出来る。しかし次第に彼は、折角獲得したその「貴」から距離を置き始め、やがてその場から事実上「退場」していく事になる。「だから僕はアーティストになったんです」から約10年が経っていた。


「話を聞いて下さい」


待ち合わせた八王子の喫茶店で、彼はこう言った。


「アーティストなんて最低ですよ」


彼に何があったのかは判らないし、それを問う気も無かった。但しその当時、嘗て「重要」だと思われていた彼の作品が、後の数年で一顧だにされないものになっていたのは確かだった。「新しい才能」の一人として彼が占めていた場所には、代替わりした別の「新しい才能」が代置されていた。30代半ばの彼は、既に「日本現代美術」からは「忘却」の対象として扱われていた。「ロートル作家」の「新作」は、言論からも市場からも、ことごとく「無視」されていた。


「健忘症」が「善」とされる世界がある。「忘却」は「生理」であるとされるが故に、それは「否定」でも「批判」でもなく、従って「言葉」は必要とされない。問われて改めて、「ああ、そんな作品があったね」「ああ、そんな人がいたね」で済ませられる。「言葉」が必要とされない「厄介」には、「忘却」の他にも、「飽きる」という「生理」がある。「もう飽きた」は最強の「判断」の一つだ。


「もう東京のギャラリーで発表する事は無いでしょうね」


そして彼は、「美術」の一切合切から、一方的に連絡を絶つ形で「行方不明」になった。


実は、彼は未だに「作品」を作っている。但しそれは、現在の「日本現代美術」が一顧だにしないエトヴァス(何か)に思える。その「何か」は、「美術」からは「作品」として見えてこない。某地方都市で、ひっそりとそんな「何か」を、彼は気の向くままに作り続けている。


彼の住む地方都市の、地元資本のデパートの美術画廊で偶然見たその「作風」は、「アーティスト」時代とは180度変わっていた。彼は、「アーティスト」時代に捨ててきた、自身が学生時代に評価されていた「巧み」を前面に押し出して、その「何か」を制作していた。しかし如何せん、その「巧み」は、「美術」レベルでの「巧み」であり、「職人」のそれには程遠いものだ。それは「アーティスト」の「作品」でもなければ、「アーティザン」の「仕事」でもない「何か」としか言えない。その「何か」に「逃走線」の可能性は存在するかと問われたとしても、実際良く判らないというのが正直な感想だ。


彼の「取り扱い画廊」に時々行く事がある。


「◯◯さん、今何やっているか知っていますか?」


ギャラリストが聞く。地方都市のデパートの美術画廊で目撃した一件は伏せておいた。


「さあ、知りませんね」


「そうですか。あの人一体どうしちゃったんでしょうね」


どうやらそれ以上「取り扱い作家」の追跡調査はしないようだ。


「それにしても、あの最後の展覧会の作品は酷かったですねえ」


それを今言っても詮無い話ではないか。彼は「音信不通」を選んだのだ。そしてGoogleでは、彼の名前は殆どヒットしない。


【続く】