絵画という不思議

Shapeways 3D Printing & the Culture of Creativity from Shapeways on Vimeo.


「フィギュア(模型)」の話である。「美術作品」の話では無い。


フランク・ステラ氏(77才)作品のフィギュアを 3Dプリンタで作るとする。座標系のデータさえ揃えば、半世紀以上に渉るステラ氏の全業績を、3D プリンタは難無くフィギュア化してくれるだろう。"Polish Village" シリーズより前のものは、わざわざ 3D プリンタの手を煩わす必要は無いだろうし、その "Polish Village" シリーズにしたところで、3D プリンタは、内心では俺の仕事ではないと思うに違いない。これが例えば "panel parts" と "panel parts" が「点」状態で接触している "Exotic Birds" シリーズ以降ともなれば、3D プリンタも少しはやる気が湧いて来るかもしれない。ステラ氏の最近作の形状は、極めて複雑に入り組んだものになっているから、それこそが 3D プリンタの独壇場である。と思っていたら、既にステラ氏御本人がそうした技術を作品制作に使用しているのであった。


Perfume Bottle Nudes Inspire Stella’s Process: Interview
http://www.bloomberg.com/news/2012-07-24/perfume-bottle-nudes-inspire-stella-s-process-interview.html


3D プリンタはフランク・ステラ氏作品の「支持体」部分を忠実に再現可能であるには違いない。「表面」部分はインクジェットプリンタに任せれば良い。では例えば "Exotic Birds" のそれぞれの要素の「表面」に施された "scribble(スクリブル)" 部分を立体化するとして、3D プリンタはどの様に仕事をしてくれるだろうか。当然絵具の位置的な座標を取れば、それは全てがほぼ同一平面内に収まる。即ちレース編みの様な透かし模様それ自体として、3D プリンタは出力するだろう。しかしそれは果たしてステラ氏の「スクリブル」を再現し得ているだろうか。



日本の絵画シーンに於いては、ステラ氏の「シェイプト・キャンヴァス」から「レリーフ絵画」に至る作品は「絵画の問題」の適例とされ、それに即して「支持体」や「表面」といった語も、その背景が必ずしもイコールとは言えないフランス語の "Support/Surface"(シュポール/シュルファス)と絡められて語られもした。その二つの「空間」(= 3D プリンタが得意な「空間」/不得意な「空間」)の混在を可視化したものが見せてくれるものの有意性に於いて、「だから一体何だと言うのだろう」といったレベルでの審級を別にすれば、それは「絵画」という「不思議なもの」の持つ「不思議」の一つを見せてくれる。

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「スクリブル」と言えば、絵画の発達上の初期の段階として、全ての誰もがそのステージを経てきているとされている「描画法」でもある。コラド・リッチの著書 "L'arte dei bambini (1887年)" によって発見された「児童画」から始まる、「発達心理学」の系譜にあるヴィクトール・ローエンフェルドの "Creative and Mental Growth" でも、ハーバート・リードの "Education Through Art" でも、発達段階に対する分け方には細かい差異があるものの、その最初期が "Scribbling(Scribble)" である事は共通している。



参考:http://www.geijyutuniyoru.com/kenkyunote/kenkyuunote-6.html


3D プリンタを使ったこういうサービスが存在する。


子どもの描いた絵を冷蔵庫に貼付ける代わりに、3Dの像にするサーヴィス「CrayonCreatures」が登場した。


このサーヴィスは、「3Dプリンティングの応用」に焦点を当ててバルセロナで活動するスペイン人デザイナー、ベルナット・クニが考案したものだ。


(略)


小さな画家の絵はスキャンされ、CrayonCreaturesのアーティストが解釈し、Z Corpの3Dプリンターでフルカラーの像を作成して出荷される。2次元のスケッチを3次元の物にするCrayonCreaturesの工程は、絵の輪郭を取ることから始まり、次にCADツールを使って「風船のようにふくらませ」、圧力の物理学を応用して形を整え、ファイルをエクスポートして3Dプリンティングを行う。


http://wired.jp/2013/01/16/crayoncreatures/


上掲記事中の「CrayonCreaturesのアーティストが解釈し」は、公式サイトに言うところの "digitally modeled one by one by a skilled 3D artist" に相当する。子供による二次元表現を「『風船のようにふくらませ』、圧力の物理学を応用して形を整え」るという「見切り」が可能になる "3D artist" の "skill" 。ここでの "skill" は「慣習的なものの習熟」を意味している。しかもそれは「大人」の「慣習」である。子供の絵の「空隙」は、大人によって「充填」される。


CrayonCreatures サイトの "About" ページには、アラートの形で "Not suitable for children under 3 years of age(3歳未満の幼児には適していません)" マークが掲げられている。当然それは出力された立体物が、子供に与える「玩具」として「不適」であるという意味だが、しかしその一方で、このサービスは「3歳未満の児童画には適していません」でもあるのだろう。即ち 3D プリンタによる「児童画」の立体化は、"skill" の及ばない3歳以下の描く「擦画( Scribbling)」には対応可能なサービスではない。


「擦画( Scribbling)」で思い出されるのは、サイ・トゥオンブリ氏である。果たしてその絵は「奥行き」を持たないものだろうか。その答えは、イエスが100%とも、ノーが100%とも言えない。サイ・トゥオンブリ氏の画面に「奥行き」が見えない者にとってはそれは紛れも無くイエスだろうが、しかし見えてしまう者にとっては答えはノーである。そして更なる問題として、「奥行き」が見えてしまう者同士であっても、それぞれの見たその「奥行き」が同一のものであるとは言えないという現実がある。児童画の世界では ”Representational(再現性)" に「至らない」とされる "Scribbling" の「奥行き」や「前後関係」は、それぞれの「解釈」に専ら基づいている。それもまた「絵画空間」というものの「不思議」であろう。

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ジョン・チェンバレン氏の作品素材に多用されている車の鋼板ボディの「色」は、塗料が高張力鋼板の表層に塗られているものであるから「表面」の側に属すると言える。しかし同じ車でも、ウインカーライトやストップライトや運転席周りを始めとする多くの樹脂部品の「色」は、「顔料」や「染料」の樹脂への練り込みによって得られているものであるから、それは「支持体」の「属性」としてのものになる。


「表面/支持体」を問題にする美術家が、そのスラッシュを「キャンバス/木枠」に重ね合わせるというケースは多い。「支持体」である木枠にも当然「色」というものは存在するものの、しかしそれは「属性」としてのものだ。但し仮に「ハイパー・リアル」表現の得意な人が、木枠の上に「ハイパー・リアル」な木目を「本物」と見紛うばかりに「描いた」としたら、目に映るものは同じであっても、それは「支持体」の「色」である事を辞めて「表面」の「色」に転ずるだろう。「表面」の「支持体」化/「支持体」の「表面」化といった試みは、例えば井川惺亮氏の昔の作品で随分と行われていた記憶がある。

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初秋になって盛夏の頃を思い出す。この夏に東京で見たそれ程多くない「絵画」の展覧会で、最も印象深かったものは木場の "EARTH+ GALLERY" で行われていた藤城嘘氏個展「キャラクトロニカ」だった。それは個人的には少し意外だった。



「キャラクトロニカ」公式サイトの、企画者・辻憲行氏の文章から引く。


アーティストとしての藤城は、デビュー以来一貫してキャラクターをモチーフとして取り上げてきました。彼にとってキャラクターは単なる消費材でも特定の趣味の対象でもなく、現代社会を生きる人間のありかたを反映する一種の自画像であり、であるがゆえ、彼の表現はキャラクターと都市/風景/言語など、キャラクターをめぐる社会的/文化的/思想的問題系への美学的介入の形式を取ってきました。


http://gjks.org/charactronica/?p=1


恐らくこれが、藤原嘘氏作品への「正しい」入口だと思う。しかしその入口から見えるものが全てであれば、何もあの様な「まだるっこしい」描き方をしなくても良いとも言える。アンチも利用するその入口から見えるものばかりではなく、その「まだるっこしい」部分に「絵描き」として半ば無意識的に拘る(乃至は棲み着いてしまっている)からこそ、その作品がその入口から見えるもので留まらないものになる。そうした「まだるっこしい」部分を見るには、その入口とは全く別の入口が必要になる。


ポスターにもなっている色鉛筆の作品の前で歩を止めた。何らしらの表象をその画面から読み取ろうとしても(読み取る気も更々無いのだが)最終的に何処にも着地しない。それはまた「良い絵画」一般の条件の様な気がする。絵画とされるジャンルの形式を満たしていさえすれば、それだけで「絵画」になる訳では無い。ジョン・チェンバレン氏の作品が「絵画的」に見えたとしても、それを「絵画」であると認識するのには、刷り込みによって得られた認識的な努力が必要になる。仮にジョン・チェンバレン氏の作品に「画賛」を入れたとして、しかしそれは何時まで経っても物理的な「表面」に張り付いた儘のものだろう。しかし「絵画」の中の「画賛」は、空間に従属するものでは無い。それは描かれてはいるものの、空間の何処にも位置しないものである。「絵画」の条件としては、 3D プリンタが得意な「物理空間」とは別の、3D プリンタが出力し得ない「絵画の不思議」である「絵画空間」を備えている事が外せない。その意味でこの展覧会では絵具による大作よりも、色鉛筆やペンを使ったものの方に魅了された。それは画面の全ての「描かれたもの」が、空間の何処にも位置しないままによりされていたからだろう。そして当然の結果として、それらの作品は「画賛」も「押印」も余裕で受け止めるに違いない。


その余韻を引き摺って、その日の内に木場から清澄白河まで歩き、高橋大輔氏の個展「絵の絵の絵の絵」へと向かった。



展覧会名に「絵」という語が四つ書いてあるので「絵画」として見ようと思った。頭の中に、「ここにあるのは『絵画』である」という「条件」をインプットした。以前の氏の展覧会名にも「絵画の田舎」や「まぶしい絵画」とあった様に、常に「絵画」である事が作者側から明示的にされているので、その様に見るのが当面のマナーだと思われた。


確かに「絵画」である事の「条件」は与えられているかに見える。何よりも「油絵具」であるし「支持体」も別立てである。従って「絵画」として見ると、それは「絵画」の「極地」にも見える。試みに所与条件として与えられている「絵画」を頭から取り去って見てみた。途端にそれは「絵画」の「極地」である事を止め、「絵画的なもの」として見えるものになった。「絵画的な風景」という言い方に見られる様に、「絵画的」とは対象を「絵画の様なもの」として認識するという事である。その観点から言えば、これは「絵画的な絵画」であるとも言えなくは無い。しかもその「絵画的なもの」は、典型的とも言って良い「絵画」の素材で作られている。少しコンフューズし始めた。「絵の絵の絵の絵」というタイトルが「絵画的なものの絵画的なものの絵画的なものの絵画的なもの」に思えて来た。「絵画」を「絵画的なもの」として見る。「絵画的なもの」の「もの」の部分に置き換わる「絵画」。それもまた「絵画の不思議」の現れの一つだと思われる。


厚い「油絵具」=「色を練り込まれた樹脂」の層を持つ高橋大輔氏の作品のフィギュア化は、 3D プリンタの得意とするところかもしれない。しかしそれもまた「支持体」のみを出力しているのだろう。ではこの「絵画的なもの」の「表面」は何処にあるのだろうか。