子育てと美術 展

「ロック・アーティスト」という存在は、その生き様を見られてしまう役どころを持たせられたりもする。私生活は適度以上に破綻している方が好まれる。全く勝手な話である。但しその生き様に関心を持たれるのは所謂「メジャー」どころに限られる。ネット通販で買った特価 1,580 円の(それが 10,500 円であっても同じ様なものだ)ソフトケースに入ったギターを後生大事に肩から下げつつ電車から降り、駅近くのコンビニで買った安めの弁当を持ってアパートに帰る「ロック・アーティスト」の生き様に関心を持つ人間はそれ程にはいない。況してやそのアパートの部屋に「家庭」があり、ロディやアンパンマンやトーマス等を部屋に迎え入れて「子育て」までしていたりする「マイナー・ロック・アーティスト」という存在は、「『ロック・アーティスト』斯くあるべし」の確固たるイメージを持つ者からすれば、「ロック・ミュージック」に対して真剣度が足りない「巫山戯た存在」にも見え、その時点で「ロック・アーティスト失格者」の烙印を押されたりもして、だからこそ「マイナー・ロック・アーティスト」の位置に居続けているのだと勝手に断じられたりもする。


「美術アーティスト」にも多かれ少なかれそういうところはあるだろう。「美術アーティスト」もまた「メジャー」どころの生き様が後に続く者の参考にされるところがある。試しに過去や現在の「世界の『メジャー』美術アーティスト」や「日本の『メジャー』美術アーティスト」(但し「教育機関」での賃労働に携わっていない「美術アーティスト」という条件で)を10人程想起し、その既婚率や子持ち率をリストアップすれば、その数字は一般平均のそれとは些か異なった様相を見せるに違いない。ややもすると「優れた美術アーティスト」は、「家庭」を持ったり「子育て」をしないもの、或いは「家庭」を持ったとしても「子育て」はしないものというイメージが、そうした「メジャー」どころの生き様から導き出されたりもする。「美術」に対して真剣であろうとするなら、「家庭」や「子育て」は視界に入らない筈だとされるところはあるだろう。「『メジャー』美術アーティスト」の多くがそうした生き様をしているからこそ「あれだけの仕事」をこなす事が可能になると思われたりもし、また実際に「あれだけの仕事」的に言えばそういうものかもしれないと思わせられたりもする。そしてそれは「美術アーティスト」のみならず、「美術クリティック」にしても、「美術ジャーナリスト」にしても、「美術ギャラリスト」にしても、「美術ディーラー」にしても、或いは「美術コレクター」ですら、凡そ「美術」の世界に巣食う者が何処かでそれを良しとする生き様を共有してもいるだろう。


知り合いの「美術ギャラリスト」は、取り扱い作家(男女の別無く)が結婚すると聞いた瞬間に難色を示した。子供が生まれると聞いた時も良い顔はしなかった。作品が売れていたり世間様に受けている間は、基本的に一定以上の量の作品生産を作家に期待するのがエージェントとしての「美術ギャラリスト」であるから、明らかに「芸のためなら女房も泣かす/それがどうした文句があるか」とは異なるタイプの作家の作品の生産性やクォリティが落ちる原因になると確信しているファクターについては、「美術ギャラリスト」の気持ちとしては阻止したいところだろう。


知己の美術家から案内状が送られて来た。その案内状には白地に印章デザインの展覧会タイトルと以下の文章のみが書かれていた。


子どもがいる/いないにかかわらず、少子高齢化の下、社会経済の維持の為、未来を担う者の再生産と再分配に私たちは関わっています。ところで、あなたは美術家として子育てにどう関わっていますか。関わろうと思いますか。


力の篭った文章に対して何も言う気は無い。先週の土曜日まで、東京・銀座の「藍画廊」で行われていた「子育てと美術 展」展である。行きたい気持ちはそれなりにあったものの、結局訳あってその展覧会には行けなかった。その会場風景はこの様な感じであったらしい。見ていないが故に、展覧会や作品については何時も以上に何も書く事は無い。


http://igallery.sakura.ne.jp/aiga525/aiga525.html


先程来から書いている様に、「子育て」と「美術」は「反りが悪い」関係にある。「反りが悪い」どころか「二兎を追う者は一兎をも得ず」であったり「虻蜂取らず」であったりするものであると思われている。それは「美術」の側からそう指摘されるだけでなく、「子育て」の側からも同様の指摘をされたりもする。その板挟みの構図は、例えば「仕事」を持ちながら「子育て」をする女性に向けられるものにも似る。「仕事」も「母親」もどちらも「パートタイムジョブ(中途半端)ではないか」という例のあれだ。


同展の小冊子に、出品作家の河田政樹氏が引かれているジョン・レノン氏のエピソード。


かつてジョン・レノンは誕生した我が子が 5 歳になるまで、子育てに専念すべく音楽活動を休止した。


「専念」と「休止」。「二兎を追う者は一兎をも得ず」や「虻蜂取らず」から導き出される結論。その際、多くの「専念」は「子育て」に軍配が上がる。即ち「休止(或いは「終止」)」されるのは「音楽活動(美術活動)」の側が専らである。「子育て」を「休止」して「仕事」に「専念」する「核家族」の女性がレアケースである様に、「子育て」を「休止(「終止」)」して「音楽活動(美術活動)」に「専念」するというケースは余り見られない。だからこそ「美術ギャラリスト」はそれを恐れるし、何よりも多くの「美術アーティスト」を含む「美術」の世界に巣食う者達がそれを恐れる。


「専念」か「休止(「終止」)」かというゼロかイチかの二者択一を取る「美術アーティスト」が多い一方で、「規模縮小」を含む形で自らの「美術活動」自体を「変質」させる事で、それを「続けて行く」という「美術アーティスト」も多い。但しその「変質」は、時として「美術市場」的な「価値」に乏しいものに見えてしまったりもする。「制作行為」自体を他人に100%丸投げしたとしても何らの痛痒を感じない「美術アーティスト」以外、「変質」の多くは「精力」的なものには見えず、従って「精力」的である事が「誠実」の証とされたりもする「美術市場」的なものとの反りは確かに良いとは言えない。


しかしそれもこれも、「美術活動」が「精力」的であらねばならない事が前提になってこそ、初めて起きる「問題」だと言えるだろう。「美術活動」がその様なものだけでは無いという認識に立てば、自分がそう認識していさえすれば良いのだと腹を括っていれば、「問題」はその様な形では浮上しない。そして「問題」が浮上しなければ、「美術」と「子育て」の間に公約数を求める形で、両者が同時に存在する事の辻褄合わせをしなくても良くなる。即ち「美術」は「美術」であり、「子育て」は「子育て」である。その間に接点が存在するにしても、それは極めて可能的なものに留まる。「子供」が「美術」を「美術」として認識可能になるまで、少なくとも「子供」にとってはそれは「美術」でも何でもないものだ。


小冊子に mhR 氏が書いておられる「私淑した美術の師匠」氏を恐らく自分は良く知っている。そこに書かれている「息子」氏も知っている。その「息子」氏が、ジョン・レノン氏が「音楽活動」を再開したタイミングと同じ 5 歳になった時、某国の首都で行われた展覧会に、参加作家でもある「父親」に連れられて向かう途中、「息子」氏は「父親」氏に向かってこの様な発言をしたと「父親」氏本人から聞かされた事がある。


「また現代美術に行くの?」


小冊子で稲垣立男氏が書いておられる、氏の 10 歳になる「息子」氏の「アートはもう嫌だ」発言と同じである。しかしそれこそが「子供」が「美術」を自らのものとして認識可能になったという「成長の証」と言えよう。それは言ってみれば「反情操」という形での「独立心」である。「子育て」と「美術」の公約数を求める目からすれば、そこで「美術」を基準に「子育て」を組み立て直すのか、「子育て」を基準に「美術」を組み立て直すのかの選択を迫られるという事になるのかもしれないが。


自分の父親も、「創作活動」をする極めて広い意味での「アーティスト」だった。名前を入れれば Amazon でヒットしたりもする。そして毎週日曜日、父親はその「芸術」の集会に出かけて行き、母親はその度に「未亡人」になっていた。母親は「外出」への「理解」はあったが、その「作品」に対する「理解」は無かったし「辛辣」ですらあった。子供だった自分はどちらの肩をも持たなかった。自分は父親自身が楽しいと思っている場所(でも自分とは関係無い)に出掛けて行っている位の認識しか無く、父親も息子をそこに連れ回そうなどとは思っていなかった。もしも連れて行かれたら、オジサン・オバサンばかりが集まった、内輪話ばかりで時間が潰れて行く、子供にとっては極めて退屈な場所だったに違いない。闖入者でしかない子供を大人しくさせる為に、菓子の一つか二つ、安手の玩具位は貰えるかもしれないが、しかしそれが一体何になるだろう。今現在その創作ジャンルを嫌いになっていないのは、父親が「子育て」と「芸術」を無理矢理接続しようとしていなかったからだろうとも思われる。


さて案内状を頂きながら、この展覧会に行かなかった理由というのは他でも無い。自分自身の「子育て」にその時間を割いたからだ。