空想の建築

会期自体1ヶ月半前に終了し、観覧してからも随分と経過してしまった展覧会を「巡って」書く。決して展覧会に「対して」では無いが、「対して」とクロスする箇所があるかもしれない。時期を逸しているのは承知の上だが、時期を問う展覧会でも無さそうなので、備忘的にも書き留める事にする。時間が掛かったのは、それを観た「違和感」に対する整理を付ける時間が無かったからだ。

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当代一を誇った夢の里、オタモイ遊園地跡


オタモイ
地名は、アイヌ語のオタモイ(砂の入り江の意)に由来する。現在、小樽市唯一のカタカナ表示の町名。


 オタモイ海岸は、小樽市の北部にあり、高島岬から塩谷湾までの約10kmに及ぶ海岸の一部で、付近には赤岩山(371m)など標高200m前後の急峻な崖と奇岩が連なっている。一帯は昭和38年ニセコ積丹小樽海岸国定公園に指定され、祝津・赤岩海岸とともに雄大な景観を誇り、訪れる人々を魅了している。


 かつて、この景勝地に大リゾート基地が存在した。昭和初期、隆盛を誇った割烹「蛇の目」(花園1)の店主加藤秋太郎は小樽には見所がないという知人の言葉に奮起し、名所探勝の日々にあけくれる。そして、ついに、古来白蛇の谷と呼ばれたこの地を探し当て、昭和11年「夢の里オタモイ遊園地」を完成させた。


 その規模は当代一を誇り、ブランコ、すべり台、相撲場等の遊園施設のほか、龍宮閣や辨天食堂といった宴会場や食堂を設けた。特に、京都の清水寺を凌ぐといわれた龍宮閣は、切り立った岩と紺碧の海に囲まれ、まるで龍宮城のお伽の世界のようだったという。


 最盛期には一日数千人の人々で賑わったこの施設も戦争が始まると贅沢とみなされ客足が遠のき、戦後、これからという昭和27年5月営業再開を目前に控えながら焼失した。


 現在、遊園地の跡を偲ばせるものは断崖の上に残った龍宮閣の礎石と遊歩道トンネルの部分だけである。


 また、オタモイには神威岬積丹半島)が女人禁制の頃の悲恋にまつわる子授け地蔵尊の伝説があり、今でも多くの人々に信仰されている。


小樽市 観光案内看板より


参考:http://blog.goo.ne.jp/akio_saga/e/88de6ac7ffd4456e0e86461c4f3a8c17


「オタモイ遊園地」のデザインモチーフは、同遊園地のメイン施設である海上50mの断崖絶壁に建てられた宴会場「龍宮閣」の名からも判る様に、「浦島太郎」の「龍宮城」である事に疑う余地は無い。「龍宮閣」の部屋名は「おとひめ」「うらしま」「かめ」「たい」「ひらめ」等と名付けられ、「龍宮閣」や「辨天食堂(辨天閣)」の天井には、「海底」を想像させる様に魚の絵が描かれていた。現在オタモイ海岸高台に保存されている「唐門」を含め、白蛇辨天洞入口や隧道の出入口は、日本人の誰もが記憶している「浦島太郎」の絵本等で見られるものに忠実な龍宮造である。



「オタモイ遊園地」に先立つ事7年前の昭和4年(1929)年に、小田原急行鉄道(現小田急電鉄)の江ノ島線終着駅の「片瀬江ノ島」駅が、「龍宮城」をデザインモチーフとした駅舎で開業している。駅前広場をぐるりと囲む店舗も、嘗ては全て「龍宮城」スタイルであった (1)(2)。同年駅前の片瀬川に「辨天橋」が架けられる。駅の目の前の江ノ島には辨天を祀る「江島神社」があり、昭和61年(1986)年には、「瑞心門」という「オタモイ遊園地」の「唐門」にも似た龍宮造の門が建立されている。また、現在「片瀬山公園」となっている龍口寺裏の高台には、昭和3年(1928)から昭和9年(1934)まで「龍口園」という遊園地が存在していた。その六層の展望台やエレベーターが設置された見晴台等の作りは、明治43年(1910)に竣工された「龍口寺」の五重塔の存在に配慮したのか唐様でこそ無いものの、しかし何処かで異郷(異界)を彷彿とさせるものだ。昭和初期の、未だ松林に囲まれた江ノ島と片瀬海岸は、その全体が「浦島伝説」のテーマパークの様な場所だった。


片瀬江ノ島駅開業当時、小樽に在住していた加藤秋太郎氏が、その存在を知っていたかどうかは定かではない。既に60代半ばになっていた加藤氏が、長男多喜雄氏を自動車運転技術を知る経営者育成の為に、東京蒲田の日本自動車学校に通わせた際、その多喜雄氏が江ノ島を訪れていた可能性も考えられる。多喜雄氏による江ノ島「テーマパーク」の調査報告が、秋太郎氏の耳に届いていたかもしれない。


「オタモイ」と「江ノ島」の両者の間に直接的な影響関係が有るにせよ無いにせよ、太平洋戦争終結までの日本人の「理想郷」に関する「空想」のコアな部分に、「浦島伝説」が存在していたというのは疑うべくも無いだろう。「浦島伝説」は、終戦直後まで使用されていた国定国語教科書「尋常小學校讀本 巻三(小学三年生用、明治43年=1910年〜)」に「ウラシマノハナシ」として採録され、また翌年の明治44年(1911年)からは、国定教科書第二期としての「尋常小學校唱歌 巻二」に、現在我々の良く知る「ムカシムカシウラシマハ タスケタカメニツレラレテ リュウグウジャウヘキテミレバ エニモカケナイウツクシサ(作詞作曲不詳)」が、「報恩」を軸に「日本」全国の子供に広く共有される事になる。



「浦島太郎」が「浦嶋子(浦嶼子)」であった中世以前、「亀」ではなく女人と共に「舟」に乗り、或いは浦島太郎が眠っている間に行き着いた先は、海上の「龍宮城」ではなく、況してや明治期の国定国語教科書が設定した海中のそれでもなく、「蓬莱(蓬山)」(万葉集では「常世」)であった。


君 棹を廻らして蓬山に赴かさね


「丹後國風土記逸文



袁江「蓬萊仙島圖」


日本の古い「伝説」である筈のものに、中国神仙思想由来の「蓬莱山」や、同じく中国陰陽五行説に基づく「五色の亀(「丹後國風土記逸文)」等が、物語の最も重要な要素として入っているという、「木に竹を接ぐ」様な構造になっているのが所謂「浦島伝説」である。「浦島伝説」に於ける「憧憬」の対象は二重化されている。一つは「空想」の「理想郷」に対する「憧憬」であり、もう一つは「現実」の「先進国」に対する「憧憬」である。些か乱暴とも言えるその交雑には人為的なものも感じられ、恐らくその中心には、「丹後國風土記」の冒頭にも書かれている、「伝説」採録者であり「大宝律令」編纂にも参加したインテリ「伊預部馬養(いよべのうまかい)」の存在があるだろう。「浦島太郎」の行き先が「蓬莱山」に代わって「龍宮城」となっても、或いはそうであるが故に、その外観は「龍宮造」に代表される様な「中国風」でなければならなかった。そして「中国風」をデザインのベースとした「龍宮城」は、永く日本人の理想郷を表す建築様式としての「空想の建築」であったのだろう。


昭和11年(1936)に「オタモイ遊園地」は開業するものの、3年後の昭和14年(1939)には「演芸場」が豪雪によって倒壊。その翌年昭和15年(1940)には「辯天閣」が地滑りによって海岸まで押し流される。太平洋戦争開戦の頃にはすっかり客足が遠退き、「ぜいたくは敵だ!」の時勢にあっては本体の「蛇の目」の経営も芳しく無く、昭和17年(1942)に加藤秋太郎氏は、「オタモイ遊園地」を「蛇の目」共々手放す事になる。終戦後の昭和27年(1952)5月10日、「オタモイ遊園地」営業再開直前に「龍宮閣」は失火で消失してしまう。その2年後の昭和29年(1954)11月22日に、加藤秋太郎氏は86年の生涯を閉じる。


仮に「龍宮閣」が消失せずに、「オタモイ遊園地」が営業再開していたとしても、戦前の様な客足は期待出来なかった気がする。それは単純に言って、戦後の日本に於いては、「龍宮城」を「憧憬」の対象と見る文化的背景が失われてしまったという事に尽きる。凡そ「伝説」というものは、「伝説」を成立させる素養の共有が欠かせない。「長嶋茂雄伝説」なら「日本の戦後昭和野球」に対する素養が、「山口百恵伝説」なら「日本の戦後昭和歌謡」に対する素養が必要条件とされる様に。しかしそれら「日本の戦後昭和野球」や「日本の戦後昭和歌謡」に関心が無い者にとっては、「長嶋茂雄」や「山口百恵」は何らの意味も価値も無い。ほぼ全てのアメリカ人にとって、それらは「伝説」的な存在でも何でも無いという現実がある。翻って「浦島伝説」も然りだろう。「神仙思想」も「陰陽五行」も、戦後の大半の日本人の関心事では無い。その時代にあっては、片瀬江ノ島駅は最早「異界」との出入口を表象せず、ただ単に「キッチュなデザイン」であると見做される。


但し「龍宮城」はこういう場所にもしぶとく生き残っている。



株式会社スドー「陶器製アクアアクセサリー:龍宮水車(小)」


1990年代の所謂アクアリウム・ブームの頃には、水槽内に入れるアクセサリーとして「ギリシャ柱」「ローマ遺跡」「ピラミッド」等も存在したものの、現在その多くが廃番商品となっている。多くの日本人にとって、それらは未だ、決して「龍宮城」の位置には遥かに及ばないものなのだろう。そこでの「ギリシャ柱」や「ローマ遺跡」や「ピラミッド」は、飽くまでも「意匠」的なものに留まっており、そこに刻印的な「記憶」は全く無く、だからこそ、それらは「飽きる」対象でしか無い。確かに「龍宮水車」は「キッチュ」に見える。しかし日本の水槽の中の「ギリシャ柱」や「ローマ遺跡」や「ピラミッド」は、それ以上に「キッチュ」な印象を受ける。それは素養の有る無し以上に、日本人がその素養の文脈を持つ事の出来る当事者性を有しないが故に「キッチュ」なのである。

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「空想の建築」と題された展覧会を見た。副題は「―ピラネージから野又穫へ―」である。一応英題も用意されていて、 "Imaginary Architecture from Piranesi to Minoru Nomata" というらしい。幅広の帯部には「夢、幻想、それともアート!? 空想建築画集の決定版。」と書かれているものの、当然の事ながらその惹句の英訳はされていない。カタログ内の固有名詞は日本語/英語の併記となっているが、解説文や作家の略歴等は日本語のみである。基本的に日本人向けの展覧会と言えるかもしれないが、癖の強い日本語フォントによる解説文の可読性は必ずしも高くはない。


展覧会概要


 絵画、立体、版画 … さまざまなかたちで人は現実には存在しない建築を創造してきました。本展では、遥か古代ローマに思いを馳せ、その空想的復元を版画として結実させたジョヴァンニ・バッティスタ・ピラネージや、壮麗なバロック的空間を描いた<紙上>の建築家たち、考古学的調査と想像力を駆使して古代エジプトの建造物を描いた18世紀末の絵師たち、そして今まさに創作活動を展開している現代の美術家までをとりあげます。それにより、空想によって構築された建造物の面白さ、美しさを探ります。世界を空想の建築というかたちで目に見えるものにしようとした人々の系譜が浮かび上がることでしょう。


http://hanga-museum.jp/exhibition/index/2013-181


ギリシャ柱」や「ローマ遺跡」や「ピラミッド」が並ぶ展覧会の、カタログ冒頭の竺覚暁氏による「幻想建築小史」から引く。


「幻想建築」とは従ってユートピアなのであるが、このユートピア希求は必ずしもあるべき未来へ向けて投射されるのみではない。それはかつてあった過去の「黄金時代」へ、またそのよすがである「廃墟」へ向けて投射されたりもする。ユートピアは完全完璧な不死不易の世界であり、従って過去、現在、未来がそこで一致し、歴史が集結して時間が超越された理想郷、理想空間なのであってみればこのことは当然であろう。
 それではこうした「幻想建築」は一体何時頃に出現したのであろうか?それは建築を創る者が、口伝とギルドの掟に従って建てる中世の石工ではなくて、主体的な「建築家」となって自らの理想の建築造形を求め始めたとき、すなわちイタリア・ルネサンスにおいて始まった。


「小史」の以後の展開は、この「(「幻想建築」は)イタリア・ルネサンスにおいて始まった」という前提から導き出されていると言える。恐らく多かれ少なかれ、この展覧会企画の基本線としても、この前提に則ったものであるに違いない。


既に展覧会案内等で、そこに「龍宮城(例)」が出て来ない事は知っていたから、会場内でそれを探す事はしなかったが、仮にそこに「龍宮城」が併せて展示されていたら、この展覧会は相当に異なった印象を与えただろう事は想像に難くない。少なくとも「空想」や「幻想」に於ける「限界」をも含めたより以上の洞察を、観客に促す事は間違いないが、しかしそれは本展の任ではあるまい。それでも仮に「龍宮城(例)」の展示がされていれば、そこで初めてカタログ文の英訳の必要性が出てくるだろう。日本の美術館で「ピラネージ(例)」を扱うには日本語でも一向に構わないが、日本の美術館で「龍宮城(例)」を扱う際には英文が必要になってくる。それは中国の美術館で「ピラネージ(例)」を扱う際には中国語でも一向に構わないが、中国の美術館で「蓬莱山(例)」を扱う際には英文が必要になるのと同じだ。

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これは国際空港の「階段」のピクトグラムである。



この「折線」一本で、国際空港に集まる様々な文化的背景を持った人間が、「階段」がそこに存在していると認識出来る。"درج" や "सीढ़ी" や "מדרגות" や "تاریخچه" や "บันได" や "טרעפּל" が口から吐いて出て来なくても、紙にこの折線を描きさえすれば、大多数の人間は「階段」をイメージ出来る=出来てしまう。一方で「階段」の発明以前の人類にその「折線」を見せたとしても、それを「階段」に結び付ける者は決していないだろう。一本の「折線」に「階段」をイメージ出来るのは、「階段」の存在を知っている者である。「空想」や「幻想」もまたそういうものかもしれない。


コイズミアヤ氏の初期作品「未知の信仰のための空の器」。試しに「これは建築ではない」をマントラの様に何度も何度も頭の中で唱えながら観たものの、「折線」に「階段」を見てしまう目は、どうしてもそこに「階段」や「廊下」や「腰壁」や「スロープ」や「柵」を見てしまう。そしてその中に「1/8計画」宜しく入り込んでしまった目は、行き止まりで途方に暮れ、同じ所をクルクルと回らされ、仕方が無いから骨折覚悟で下に飛び降りたりもするのである。「これは建築ではない」筈なのに。只の一本の「折線」である筈なのに。


それは「空想の建築」ではなく、「建築という空想」なのだろう。