風が吹けば桶屋が儲かる(再)

あちらこちらから時間と交通費数万円を掻き集めて、ようやく東京都現代美術館を再訪する機会を得た。前回実質45分の駆け足で見た「MOTアニュアル2012 Making Situations, Editing Landscapes 風が吹けば桶屋が儲かる」展(以下「風」展とする)の「リベンジ」が主な目的になる。この展覧会だけで4時間半を費やした。日本の美術館の場合、一旦入ったが最後、再入場を認めないシステムである為に、11時から入った自分は昼食を抜いた。会場から「出られた」のは15時半。だからと言って「食事を一回抜いてでも見るべき展覧会」などと言う気は毛頭無い。展覧会>食事というのは一つの価値観ではあるが、食事>展覧会もまた否定するべきも無い堂々たる価値観である。そういう訳で、展覧会の後半は、血糖値が低くなった状態で見た。血糖値が低いので、脳の働きも弱かったかもしれない。最後の最後の「雰囲気」のある展示の前で、関所の門番の様な人から「これをして下さい」と指示された頃には、回るべきところに回る血の巡りが悪かったと今なら思えたりもする。


「風」展(及び「アートと音楽−新たな共感覚をもとめて」展)の直前の当館の企画展は、「館長庵野秀明 特撮博物館 ミニチュアで見る昭和平成の技」だった。10月初旬に同館を訪れた際には、課外授業の大勢の小学生に紛れての観覧になった。しかし「風」展の二度の観覧では、そうした場面には遭遇しなかった。「風」展を小学校の課外授業で訪れるという事実が存在するのかどうかは兎も角、少なくともこれは、相対的に子供向きの展示で無いとは言えるだろう。従って会場に子供の姿は殆ど見えなかったし、美術館も子供向けの刷り物を用意している訳では無い。


改めて言うまでもなく、この展覧会は「美術」という「ゲーム」が「存在」する事を「知っている」大人の為の展覧会である。「美術」という「ゲーム」が「存在」する事を「知らない」大人も含め、「美術」の「存在」に、そもそも興味が無い子供の為の展覧会では無い。仮に自分が「子供の頃から今の最前線の美術を体験させなくてはならない」といった類の使命感に燃えている小学校の教師か何かで、数十人の小学生を引率して同展を「鑑賞」するカリキュラムを組んでしまったとしても、最初から最後まで一通り見るのに数時間を要する同展を、数十人の小学生に「自発」的な形で、しかも飲食を一切抜きで「鑑賞」させる自信は全く無いし、その為の言葉を持ち合わせている訳でも無い。例えば「風」展の「展覧会概要」を、「子供語(子供が「理解」出来る言葉)」にトランスレートする事は、至難の業になるだろう。


恐らくそれをトランスレートする以前に、「美術」というものを「知っている」大人の間で、同展を巡る「争点(大人は「美術」という「ゲーム」で「争ったり」もするのである)」にならざるを得ない、「美術とは何か(作者とは何か、作品とは何か)」といった、恐らく永久に「解決」が遅延され続ける「アポリア」に関するレクチャーを挟まねばならず、しかしこの「美術とは何か」を子供に説明するのは、それ自体が大人相手以上にゴニョゴニョ、グダグダになるに違い無い。同展に出品された「作品」にも見られる様に、トランスレートという作業は、トランスレーターその人を表してしまう事もある。しかもこの場合は、「大人語」→「子供語」になるのだ。果たして「大人語」の「美術」を、どう「子供語」に訳したら良いものだろうか。一番簡単なのは、そのまま「びじゅつ」とひらがなで表して、それで一件落着とする事だろう。しかしそれは、同時にトランスレートの全面的な「敗北」を意味する事になる。その一方で、或る意味で、これ迄の「美術」に於けるトランスレートの最大の「勝利」は、 "art" を「美術」としてしまった事かもしれない。


子供の内の何人かは、同展の特定の「ディテール」に興味を持ち、それを面白いと思う事もあるだろう。しかし彼等は、その「ディテール」への興味津々と「びじゅつ」とを、決して結び付けたりはしない。それ以前に、その「ディテール」のほぼ全ては、触れたり、手に取ったり、壊したりする事が禁じられている。彼等が触れる、手に取る、壊したりするその度に、「びじゅつとはなにか」のインストラクションが行われねばならなくなる。噛んでいるガムを捨てようとして、会場内のゴミ箱に足を運んでも、そこには「ここにゴミを捨ててはいけません」的な内容が書かれたスチレンボードが貼り付けてあったりするのである。その際、そのゴミ箱の前で、ゴミ箱であるのに何故そこにゴミを捨ててはならないのかの、「びじゅつとはなにか」を絡めての「理由」の説明がどうしても必要になる。場合によっては、「このゴミ箱は作者のもの」とか「作品以外のものを入れたらみんなが困るでしょ」などと言わねばならないかもしれない。そしてそこでまた、「作者」とは何か、「作品」とは何か、「みんな」とは何か、「困る」とは何か等々を、「子供語」にトランスレートしなければならないという面倒な羽目に陥るのである。


いずれにしても、次の瞬間には「美術」という「善と悪の知恵の樹(the tree of knowledge of good and evil)」の「禁断の実(fruit of the forbidden tree)」を食べていないが故に、「美術」という「善」の「内」も「外」も「知らない」子供は、同展の文字通りの「外」に、しかも「美術」とは全く関わりの無い形で興味が移ってしまうだろう。「内」を「知らない」が故に、彼等はいとも簡単に「外」に「出られて」しまう。最良の方法にも思えるミュージアムショップ内の「おともだちのえ」で興味を繋がせようとしても、彼等は「禁断の実」を食べた大人の様には「おともだち(他人)のえ」に対して興味を持続させる事が無いかもしれない。


この会場の中で、彼等が一番楽しみを見出だせそうなのは、「何もない部屋」のエリアであるとも思える。そこでは、はしゃぎ回っても良さそうな気になれるからだ。会場内で、唯一「監視員」がいない(ここに「監視員」がいたらどうだろうか)という事もあるだろう。しかし「何もない部屋」でも、それでも引率教員によって、「美術」がインストラクションされるかもしれない。「何もない部屋でもはしゃぎ回ってはいけない。それよりも美術館の部屋に何もないという事を考えてみよう」。引率教員は「狡猾な蛇」になるしか無いのだろうか。

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二度目の観覧に至る迄の高速鉄道の車中、「風」展の出品作家の一人によって纏められている togetterMOTアニュアル2012 Making Situations, Editing Landscapes 風が吹けば桶屋が儲かる」展@東京都現代美術館(編集可能)」と、「美術手帖」1月号「会田誠」特集誌に掲載された、沢山遼氏による「主体の編集」を読み返していた。そして、連ツイでもギリギリ許されるだろう文章量の沢山氏の「レビュー」を、140文字ずつチョップして、この togetter に挿入してみたらどうだろうかと、戯れに想像してみたりもした。


この「纏め(及び沢山氏「レビュー」)」は、美術館外の「作品」として極めて興味深いものである。そこでは「風」展を巡って、「禁断の実」を食べた大人が、その「善」と「悪」について語っている。「禁断の実」は「善と悪の知恵の樹」の実であり、従ってそれは「善」や「悪」を知る実でもある。そしてここでも「美術」に関する「善」と「悪」を「知らない」子供は不在である。


但し気を付けておかなければならないのは、「美術」は「ゲーム」の一つである為に、その「善」と「悪」は、 "good" と "evil" なのではなく、寧ろ例えば Excel の「IF」関数に於ける "TRUE" と "FALSE" の様に、条件分岐的なものかもしれないという事だ。即ち「美術」に於ける「善と悪の知恵の樹」は、実際には "the tree of knowledge of true and false" という意味なのかもしれず、そうであれば、その「善」と「悪」は "=IF(A2<=100,"予算内","予算超過")" の如くに使用するものであろう。展覧会の各部屋(セル)は、相互に関数で関連付けられ、或いは外部参照されているのかもしれないとする事もまた可能だろうか。


この togetter 「纏め」に、語られている対象である、同展に出品した「作者」が「不在」であれば、それは美術館内で上映されている映像作品にも似たものになるかもしれない。「不在」の「中心」で思い出されるのは、ロラン・バルトの「表徴の帝国」の「中心 - 都市 空虚の中心」節の中にある、以下の有名過ぎる一節である。その一節の周辺を含め、長文だが引く事にする。文中のそれぞれの語句に、それぞれが今日の「美術」に関して「知っている」何かを代入すれば、それは「風」展への「言及」たり得るかもしれない。


……じつに数多くの(歴史的、経済的、宗教的、軍事的な)理由によって、西欧は十二分にすぎるくらいにこの法則、つまりはいっさいの西欧の都市が同心円的であるという法則を、心得ぬいていた。だがまた、いっさいの中心は真理の場であるとする西欧の形而上学そのものに適応して、わたしたちの都市の中心はつねに《充実》している。……(略)……中心へゆくこと、それは社会の《真理》に出会うことである。それは、《現実》のみごとな充実に参加することである。
 わたしの語ろうとしている都市(東京)は、次のような貴重な逆説、《いかにもこの都市は中心をもっている。だが、その中心は空虚である》を示してくれる。禁域であって、しかも同時にどうでもいい場所、緑に蔽われ、お濠によって防御されていて、文字どおり誰からも見られることのない皇帝の住む御所、そのまわりをこの都市全体がめぐっている。……(略)……この円の低い頂点、不可視性の可視的な形、これは聖なる《無》をかくしている。現代の最も強大な二大都市の一つであるこの首都は、城壁と壕水と屋根と樹木との不透明な環のまわりに造られているのだが、しかしその中心そのものは、なんらかの力を放射するためにそこにあるのではなく、都市のいっさいの動きに空虚な中心点を与えて、動きの循環に永久の迂回を強制するために、そこにあるのである。このようにして、空虚な主体にそって、〔非現実的で〕想像的な世界が迂回してはまた方向を変えながら、循環しつつ広がっているのである。


通常、その「緑に蔽われ、お濠によって防御されていて、文字どおり誰からも見られることのない」中心におられる止事無き御方は「発言」をされない。年初にバルコニーから発せられる「御言葉」、或いは年末の誕生日に発せられる「御言葉」位しか、一般的には知り得ないところがある。それらの「御言葉」は、バルトの言う「わたしたち」=西欧的な《充実》ではないかもしれない。その御方が、仮にツイッターアカウントを取得され、その結果対話可能な可視的なものとして、@に続けての「返信」すら可能になってしまう事を想像してみる。果たしてその可視的なものになった「御つぶやき」の扱いは、如何なるものになるであろうか。


いずれにしても、この@「風」展 togetter に於ける「作者」の「つぶやき」は、想像され得る止事無き御方の「御つぶやき」の様には「不可侵」なものとはされていない様だ。それらは「作者」以外の「つぶやき」と併存的である様にすら見える。恐らく、そこに「作者が参加していない」という可視的/不可視的な「作者の不在」以上の、「作者が参加しているにも拘わらず『作者』として扱われてはいない」といった「作者の不在」なのだろう。対話可能な可視的なものとしての、@に続けての「返信」すら可能になってしまう「作者」という存在。「マンセー」から「ディス」までを含む諸発言の中に挟まれた「作者」の発言。だからこそ、この togetter は興味深いのである。そして、少なくともここに「監視員」はいない。

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念為だが、これは「風」展に対する "disrespect" ではない。また同時に "respect" でもない。例えば「個々の作家や展覧会はどうするべきだっただろうか」などという問題が発生するにしても、それに対しては「カリフォルニア人になって、油絵でも描けば良い」位の事しか言えないのである。そうした「無責任」なアプローチこそが、「責任」の最高の形なのだとも愚考する。それは「作者」という「他人」に対して、「無責任」な事をしか言える筈も無い自分自身に対する「責任」なのである。


「残念ながら…」で結ばれる沢山氏の「レビュー」が、「ディスリスペクト」なのか、「サジェスチョン」なのか、「エデュケーション」なのか、「インストラクション」なのか、或いは他の何かなのかは判らないにしても(判らなくても一向に構わないのだが)、いずれにしても「個々の作家や展覧会はどうするべきだっただろうか」の圏内に存在しているとは言える。そして、時に「職業倫理」や「商業倫理」すらインクルードされてしまうその「個々の作家や展覧会はどうするべきだっただろうか」に対する「正解」は、「作者」という「観客」にとっての「他人」の側にではなく、それぞれの「観客」の「私」の中にこそあるのだろう。成程、確かに「私」は強力である。「作者」が「私」を「乗り越える」のは困難だ。しかし「観客」がそれぞれの「私」を「乗り越える」のは、「作者」以上に極めて困難なのである。「美術」の「アポリア」などとされている代物は、こうした「観客」が持ち続ける「私」の存在こそが遅延させているとも言えるだろう。


風に対して "disrespect" したり "respect" したりする事は、極めて無意味な事であるかもしれない。子供に「個々の作家や展覧会はどうするべきだっただろうか」と聞けば、「しらな〜い」という答えが返ってくるかもしれない。現実的な気象の風は、老若男女、国籍や民族等を問わず、誰にでも同じ様に吹くだろうが、メタフォリカルな「風」は、誰にでも同じ様に吹く訳では無い。石原良純の様な人が「今日は大風が吹きます」と言っているのを聞けば、風が吹く前から目を瞑ってしまう人もいるだろう。そして「石原良純」が言った様に大風が吹かなければ、「石原良純」に対する「責任論」が噴出したりもするのである。