日本の常識 世界の非常識

ニューヨークのソーホー地区。プリンス・ストリート(Prince St.)と、モット・ストリート(Mott St.)がクロスする交差点近く。その交差点からプリンス・ストリート沿いに、50フィート程エリザベス・ストリート(Elizabeth St.)側に向かうと、"Prince Street Cafe & Catering" というレストランと、"Prince St. Cleaners Inc." というクリーニング屋が入ったビル(26 Prince Street, New York)がある。


その5階建ての建物の、モット・ストリート側に接する "Sigerson Morrison" 側の側壁面に描かれた壁画は、観光でニューヨークを訪れる日本人には結構有名な存在である。ストリートビューここに飛んで行き、南向きの風景を180度回転して北向きにすると、ホワイトペイントされたブリックのシガーソン・モリソンの上に、その壁画は見えてくる。この壁画を見る、一定の世代以上の日本人観光客は、恐らくその場所で、お約束の様に「大体やね」と言ったりするのだろう。


プリンス・ストリートとモット・ストリートの交差点に建つ小奇麗な "Little Cupcake Bakeshop" が、埃っぽいダウンタウンの小汚い町のドーナツショップだった27年前、キャメロン・ディアスシャーリーズ・セロンリース・ウィザースプーンハル・ベリーといった、所謂「セレブ」(という事だそうだ)にも愛用されてしまうというブランド「シガーソン・モリソン」のショップが、埃色に薄汚れた只の倉庫だった頃のソーホーで、御年82歳となった「政治評論家」竹村健一氏が、「スーパー・リアリズム」からのイメージチェンジ(美術用語では「展開」と称する)に躍起になっていた当時のチャック・クロースばりの「グリッド絵画」となった壁面一杯の自らのポートレートを背に、例のパイプを左手に持ち、「文化や芸術が、秒単位で変化するニューヨーク」というナレーションに続ける形で「変化は進歩やで」と言って視聴者を諭す「アデランス」のTVCM。壁画はその為に描かれたものであり、それが未だにニューヨークに残されているという訳だ。ストリートビューで見る限り、屋外という悪条件での経年劣化がそれ程悪くないという事からして、ペインターは「いい仕事」をしたのだろう。「変化は進歩」。周辺環境の「変化」ぶりと、取り残された様に一向に「変化」しない壁画。「進歩」の街並みと、「進歩」しない壁画という事だろうか。ビルのオーナーはこの壁画を消す気にならないらしい。


竹村健一氏と言えば、藤原弘達氏や細川隆元氏といった当時のメジャー「政治評論家」を一気に旧世代化させ、氏を一躍メジャーな存在にした日本テレビ竹村健一の世相講談」や、フジテレビの「竹村健一の世相を斬る」「報道2001」といったテレビ番組での活躍が印象深い。また一方で、あのマーシャル・マクルーハンの日本への「紹介者」としても名高い。大阪市生野区生まれの、氏の「大体やね」という口癖は、メジャーデビュー直後のタモリのネタにもなった事で、一躍「流行語」の一つともなった。その竹村健一氏の「名言」の中に、氏の500冊以上の著作の一つともなっている「日本の常識(は)世界の非常識」がある。


現在に至るも「海外(≒「先進国」)」居住、乃至は「海外(≒「先進国」)」旅行等で、「海外(≒「先進国」)」と接した日本人の多くが、この「日本の常識は世界の非常識」という「比較文化論」を好んで使用する。試しに「日本の常識 世界の非常識」でググってみれば、数字的には数百万件がヒットするし、明示的に「日本の常識 世界の非常識」の語を使っていないというものも含めれば、こうした「日本」と「世界」を比較しようという「比較文化論」は、それ以上の相当数に上るものだと思われる。


集合論的な考え方からすれば、「日本の常識は世界の非常識」という場合の「日本」と「世界」の関係は、「日本」∈(に打ち消し線。「属さない」。機種依存文字では「∉」)「世界」になるだろう。仮に「日本」∈(属す)「世界」なら、「日本の常識は世界の非常識」は論理的におかしい。そうなると「世界」に属している筈の「日本」の常識が、「世界」の非常識であるという事になってしまう。「日本の常識は世界の非常識」は、「日本」が「世界」で全く孤立し、従って「世界」には属さず、「日本」が「世界」に「肩を並べる(並べられる)」並立的な対立項として措定されている場合にのみ言える。


その場合「日本の常識は世界の非常識」は、例えば「関西の常識は日本の非常識」と言う様なものであり、また翻って「東京の常識は日本の非常識」という事にもなるだろう。それは、「日本」とされる「外部」から見れば、「関西の常識」は非常識極まりないとか、或いは「日本」とされる「外部」から見れば、「東京の常識」は非常識極まりない等という事にはなる。またこれを「地方の常識は日本の非常識」とすれば、これはもう「地方の政治風土はどうにかならんものか」的な議論で極めて馴染みの深いものだが、一方で「地方」からすれば、「都会の常識は日本の非常識」と言いたいところではあるだろう。


果たして少なからぬ日本人が事ある毎に言う様な形で、多くのフランス人が「フランスの常識は世界の非常識」と言うかどうかは判らないし、多くのアメリカ人は「アメリカの常識は世界の非常識」とは言わない気がする。一方で、多くのムスリムが「イスラムの常識は世界の非常識」と言う事は考え難いし、メディスンマン・カチョーラ・ギッティメアが「ヤキの常識は世界の非常識」と言ったら、何となく嫌な感じがする。あの1997年の地球温暖化防止京都会議の際には、少なからず「途上国の常識は世界の非常識」が「先進国」側から言われ、一方それを指摘された「途上国」側からは、それに対抗する形で「先進国の常識は世界の非常識」が言われ、その「世界の常識」を巡る侃々諤々があったものである。仮に「イスラムの常識は世界の非常識」が言われたとして、果たしてその「イスラム」に対立する「世界」とは何になるのだろうか。「ヤキ」に対立する「世界」とは何になるのだろうか。「途上国」に対立する「世界」、「先進国」に対立する「世界」とは、一体何になるのだろうか。翻って「日本」に対立しているとされる「世界」とは、一体何になるのだろうか。


「土地の常識は日本の非常識」をバラエティ番組化したのが、日本テレビ系列の「秘密のケンミンSHOW」だろう。或る「ケンミン(県民、府民、道民の総称。事実上都民は省かれている。念為だが、焼きビーフンではない)」の「有名人」が、実際には町内レベルや家族レベルの事かもしれない「常識」を、「ケン(県、府、道、都)の常識」としてプレゼンテーションすると、一転その「ケン」以外の出演者が、上位概念である「日本国民」と化し、プレゼンテーションされた「ケンの常識」の「非常識」振りに驚くという仕組みである。この番組が興味深いのは、「ケンミンA」が「ケンの常識」を「カミングアウト」すると、「ケンミンA」以外の「ケンミン」達が、「ケンミン」の立場から「日本国民」の立場へと変化して、「ケンミンA」の言うところの「ケンの常識」の、「日本」での異質性(「非常識」)に驚き、また別の「ケンミンB」が「ケンの常識」を「カミングアウト」すると、今まで異質性の対象だった「ケンミンA」が、矢庭に他の「ケンミン」達と肩を並べて「日本国民」として同質化して、「ケンミンB」の言うところの「ケンの常識」の異質性(「非常識」)振りに驚くという、そうした「日本」の融通無碍振りにある。即ち、ここでの「日本」は、メンバー内に異質性が発見され、それを排除する形で初めて生起する様な集合論的概念である。


例えば「ケンの常識」で思い出されるのが、「秘密のケンミンSHOW」では絶対に取り扱わない、所謂「道路交通ローカルルール」というものである。一般的に「名古屋走り」が名高かったりするが、その他にも「有名どころ」としては、「播磨道交法」「伊予の早曲がり」「松本走り」「山梨ルール」等々があり、名前が付けられていないものも含めれば、正規の「道路交通法」という「常識」が通じない地方、正規の「道路交通法」を寧ろ多少なりとも「非常識」とする地方の方が、圧倒的に多いと言える。しかしこの場合には「日本の常識」は、明文化されている上位概念としての「法律」側にあるから、「非常識」の側は当然の事ながら「ローカルルール」側にある。こと交通という場に於いては、「郷に入れば郷に従え」や「マルチカルチュラリズム」は通じない。何故ならば、道路という開放系に「ローカルルール」という閉鎖空間の概念は通用しないからだ。少なくとも「運転免許証」というのは、全体系を律する「道路交通法」遵守に対する「契約書」である。従って「ローカルルール」自体が、そうした「契約」の概念に極めて乏しいだけのものでしかないと一蹴する事は極めて可能である。故に他所からの訪問者に対して「ここではローカルルールを守らない方が非常識」とするのは、100%「非常識」であるというのは判る。ここでの「日本」は極めて判り易い固定化された存在だ。


参考:「『名古屋走り』って何?こんなにあった地方“道交法”」 ZAKZAK
http://www.zakzak.co.jp/top/200903/t2009032431_all.html


しかし「秘密のケンミンSHOW」で、「ケン」の「常識」の「非常識」振りに驚く「日本」は、部分集合「ケン」の補集合としての「日本」であり、全体集合としての日本ではないものの、しかしその補集合は、常に同一のものを指している訳ではない。「京都府(例)」が「日本の非常識」とされる時には、「京都府以外」が「日本の常識」になり、「青森県(例)」が「日本の非常識」とされる時には、「青森県以外」が「日本の常識」になる。但し、この番組では「雛壇」に「ケンミン」はいるものの、唯一「カミングアウト」から除外された「例外」として、「東京」が存在しているのには、恐らく意味深いものがあるだろう。


いずれにしても「日本の常識は世界の非常識」の「日本」は、総じて「世界」に対立するものとして存在する。「世界の常識」はこうなのだから、「日本」のこれは「非常識」であるという意味での「日本の常識は世界の非常識」のバリエーションには、例えば「重要なことは、国際化である。明治以降、食の分野では国際化が遅れている。ハンバーガーは、世界中にある国際商品。日本人がハンバーガーに馴染むことから、本当の国際化がはじまるのだ。日本食を食べないと力が出ないというが、それは単なる習慣を錯覚しているにすぎない(藤田田)」というものがあるだろうし、一方で「スローフードは世界各国に広がっています。日本も続こう」というものもあるだろう。「世界」もまた融通無碍なのだ。「日本マクドナルド」と「スローフード」を総合した「世界」というのは考え難い。「世界に比べて日本のアート状況はお粗末極まりない」というのは、果たして「日本マクドナルド」的な「世界の常識」だろうか。それとも「スローフード」的な「世界の常識」だろうか。いずれにしても、恐らくどちらかに属するのである。即ちそれは、何処まで行っても「立場」から見える「世界」であり「世界の常識」でしかないのだ。


しかしどうなのだろう。寧ろ「日本の常識」の代表的なものの一つとして、「自国の常識は世界の非常識」という「比較文化論」めいたものを自ら立てて、それを以って「自国」の方向性をコントロールして行こうとする、そうした一種の「黒船」待望的な方法論そのものが上げられる様な気もするのだが。


しかし今回は「枕」だけで終わってしまった。「塵」を巡る「常識/非常識」の話をしたかったのだ。


【続く】