トロール漁業

【略】


赤塚不二夫のキャラクターに「篠山紀信くん」がいる。通常は「カメラ小僧」と呼ばれているキャラクターだ。「篠山紀信くん」の「篠山紀信」は、あの「ザ・篠山紀信」である。篠山紀信(「ザ・篠山紀信」)は1977年に晶文社から「カメラ小僧の世界旅行」という写真集を上梓していて、その中で、赤塚不二夫による「カメラ小僧(以後「篠山紀信くん」)」のキャラクターが、狂言回しの役割を果たしている。


赤塚不二夫公認サイト」による「カメラ小僧(篠山紀信くん)」の説明を引く。


モデルは、かの篠山紀信さん?生臭いつむじ風とともに高速回転で現れては、決定的瞬間を狙う事件写真専門のカメラマン。
おまわりさんの天敵でもある。


登場作品:
天才バカボン」他


http://www.koredeiinoda.net/character/kamera.html


いつもの様に、イタリア未来派の画家ジャコモ・バッラ系譜にある、赤塚不二夫の表現法を携えて、「篠山紀信くん」は洟を「遠心力」で周囲へ豪快に飛ばしつつ「生臭いつむじ風とともに高速回転」で現れるのである。確かに霧状の洟が混ざった「つむじ風」は、極めて「生臭い」事だろう。


使用カメラには、ペンタ部の存在が見えるから、「篠山紀信くん」の愛機は一眼レフであると思って間違いはない。ボディはシルバーにグッタペルカ貼りだ。登場年から想像するに、ペンタックスSP系か、ミノルタSR系と思われる。ペンタ部の形状からトプコンR系という事も考えられなくはないが、キヤノンR系という事はまず無いだろうし、ニコンF系や「舶来カメラ」だったら、「カメラ小僧」的に何となく嫌だが、「篠山紀信くん」的にはそれであっても仕方ない。


篠山紀信くん」は「決定的瞬間」を常に狙っているのである。アンリ・カルティエ=ブレッソンが言ったとされる「決定的瞬間」という語は、しかし実際には仏米間で発生した商売上の「意訳」の産物であり、米版の "The Decisive Moment (決定的瞬間)" に対し、オリジナルの仏版では "Images à la Sauvette(逃げ去るイメージ)" である。"The Decisive Moment" の語は、英語版序文の "There is nothing in this world that does not have a decisive moment." に由来する。



いずれにしても、「決定的瞬間」を狙っているという事であるから、「篠山紀信くん」もまたストリートフォトの人であり、使用レンズは「標準レンズ(タクマーかロッコール)」だろう。そして「逃げ去るイメージ」を見逃すまいとして、彼は高速回転するのである。即ち、あちらこちらに気を配りながらキョロキョロしているよりも、高速回転した方が「決定的瞬間」に遭遇するチャンスが多いと感じたからこそ、彼は常にそうしているのだ。


篠山紀信くん」の撮影方法は、高速回転をしながらターゲットを見つけ出し、そこで急停止してノーファインダー撮影でシャッターボタンを押すと考えるのが普通だろう。しかしそれでは、「決定的瞬間」とのタイムラグ発生が避けられない。もしかしたら、「篠山紀信くん」は高速回転をしつつ、例えば回転角30度前後を目処に、何も考えずにシャッターを切り続けているのかもしれない。であるならば、彼のカメラはモータードライブ搭載機であろう。すると36枚撮りフィルムでは、僅か数秒でコマが尽きてしまうから、彼のカメラには長尺マガジンが付いているのかもしれない。モータードライブにせよ、長尺マガジンにせよ、赤塚不二夫の描写では省かれているが、しかしきっとそうなのである。彼はフィルム現像(当然「篠山紀信くん」だから自家現像である)後、その中から「ベスト」のショットを、「子供部屋」のライトボックス上で、ルーペ片手にセレクトする。万が一「ベストショット」が見付からなければ、また高速回転をしながら街中に出る。そこがアンリ・カルティエ=ブレッソンのやり方とは根本的に異なるだろう。何故ならば、アンリ・カルティエ=ブレッソンは「決定的瞬間」と遭遇する為に高速回転をしないからだ。


篠山紀信くん」は、1960年代の「小僧(少年)」であるから、使用機材は精々個人ベースのこの様なものであっただろう(モータードライブや長尺マガジンは「小僧」にしては「重装備」だが)。仮に彼が21世紀の人だったら、一も二もなく「連写性能」の高いデジイチを選ぶだろう。しかしそれでも彼はそれに飽き足らない。21世紀のストリートフォトグラファー「篠山紀信くん」が本当に欲しいのは、正に回転する自分自身が形になった様なこれだ。



そしてそれを、車や、トライシクルや、スノーモービルに乗せて、こうしたいのだ。





二つ目の動画「おみせフォト」内で、商店の内部撮影に使用されているこんなのデジイチを取り付けたのでは、「篠山紀信くん」的には「遅過ぎて」駄目なのだ。世界は「逃げ去るイメージ」でしか構成されていない。ストリートフォトグラファーたる「篠山紀信くん」が、それと渡り合うには、常に「速度」しか無い。「篠山紀信くん」は、このカメラの存在を知ったその日から、高速回転をする事を止めた。


ストリートフォトではノーファインダー撮影が推奨されたりもする。視野を狭くしてしまうファインダー越しでは、「逃げ去るイメージ」を逃してしまう。ストリートフォトグラファーは、自分が最大限持てる視野の全体に気を配らねばならない。まるで蜘蛛の巣を張った蜘蛛の様に、少しでも視野内に「動き」があれば、瞬時にそちらを向いて、シャッターを切る習性を身に付けねばならない。「篠山紀信くん」は、自分の持つ視野に回転を与える事で、その限界値を上げ、より広い視野を獲得しようとした。しかしこのカメラなら、自ら回転せずとも、オクタゴン状のボックスにマウントされた、45度毎に異なる方向に向けられた8個のカメラがシンクロし、更に上方も下方も写り、それらが収集したデータを元に、VR技術によってシームレスに繋げられた360度の視野が、容易く得られる。このカメラは、現在4世代目だが、それは現在のHDに極めて近いクォリティの映像が得られるという。既にそれで十分であるとも言えるが、しかし「現実に必要とされない」というだけで、「その気」になりさえすれば、それ以上の、例えば8×10クラスの画像ですら、遠からずこのカメラで得られる様になるだろう。


最早ストリートフォトは、ストリートに直接出て行って、シャッターを押してくる様な、「古典的」なストリートフォトグラファーを必要としないのかもしれない。ストリートフォトグラファーは家にいながらにして、ストリートビューカメラが回収してきた大量のデータが収められたサーバから、「ベストショット」をピックアップをすれば良いだけなのかもしれない。万が一「ベストショット」が見付からなければ、再び機械に収集させれば良い。それは、「竿釣り」や「突き漁」と「底引き網」の違いに比する事も可能だろう。これからのストリートフォトグラファーは、竿を振り、ウキをじっと眺め、アタリがあったら竿を引いたり、手銛で目の前に現れた魚を突いたりするが如くに「シャッターを切る」のではなく、トロール船上で、捲き揚げた網の中の大量の魚をカテゴリ分けし、その中から商品価値のありそうな魚を選別する様に、仕事場のモニタの前で、光景をカテゴリ分けし、その中から商品価値のありそうな画像をひょいひょいと選別して、それを「表象」化するのである。「底引き網」は「漁」の「堕落」であり、「真性」の「漁」とは「竿釣り」や「突き漁」にあるとする立場もあるだろう。しかし、そうした「漁法」の「差異」が、「現場」的な意味合いに於いて大きいとしても、それでも「とれる(撮れる/捕れる)魚」は、「消費者」の前では、結局「同じ魚」であり、「竿釣り」や「突き漁」という「漁法」自体に、殊更に価値を置く「現場」的な価値観は、そこでは全く意味を成さなくなる。


もう少し踏み込んで言えば、ストリートビューカメラが収集してくる画像は、これまでの「竿釣り」や「突き漁」的なフォトグラファーの仕事の、あらゆるタイプの「表象」をカバーする可能性がある。今はまだ、搭載する移動体が、「セダンカー」や、「トライシクル」や、「スノーモービル」といったところであるが、その内に、どこにでも行ける「飛行装置」や、「ロボット」や、「体内カプセル」や、その他様々な形態の移動体にそれが搭載され、それらが収集してきた膨大なデータが、全てVR技術でシームレスに繋がると、ほぼ全てのフォトグラファーという存在の意味が問われる事にはなるだろう。それは写真の登場によって、画家の「今後の身の振り方」が問われた様に、今度はストリートビューカメラが、フォトグラファーに「今後の身の振り方」を考えさせるのだ。


ちなみに、「近現代芸術」の展開というものは、その全てが「芸術」の「脅威」と感じられるものの登場に対する、「芸術」の「今後の身の振り方」の繰り返しと言えるかもしれない。「近現代芸術」史は、それぞれの「今後の身の振り方」に関する記述だけで構成されている。写真術が一般化した後の「今後の身の振り方」、資本主義が全面化した後の「今後の身の振り方」、大衆文化が世界を覆い尽くした後の「今後の身の振り方」、情報社会が人類に不可欠な環境と化した後の「今後の身の振り方」等々。その逆に、「芸術」以外が、「芸術」を見て「脅威」に思い、「今後の身の振り方」を考えた事など一度たりとも無いのではないか。「脅威」の登場に際して「今後の身の振り方」を考えるのは、常に「芸術」に代表される「文化」の側なのだ。即ち「芸術」が「脅威」になる事は無く、常に「芸術」は「脅威」に対して遅れているものである。


それはさておき、そうしたフォトグラファー「以後」のフォトグラフィー、イメージのトロール漁業の予兆は、例えばこのサイトにも見られる。


"c i n e m a s c a p e s - Street View Edition"
http://aaronhobson.com/gsv.html


"street view gallery"
http://aaronhobson.com/gsv1.html


updates (facebook)
https://www.facebook.com/cinemascapist



フォトグラファーならぬシネマスケーピスト(cinemascapist)、Aaron Hobson氏の「仕事」の一つである。彼はストリートビューカーが自動撮影し、ネット上に公開されている「風景」からセレクトしたものを、「自作」とした。トロール船上の人が「漁師」と呼ばれるのであれば、それは全く以って、立派なフォトグラファーの「仕事」である。Aaron Hobson氏はこう書いている。


in search of enchanted and remote lands typically only reserved for the eyes of its inhabitants, but now are captured on camera by the automated and aesthetically-neutered street view cars that linger.

void of the main character (self-portrait) and an internal view, these images represent the closing chapter of 4 years of cinemascapes with an external view of the world


http://aaronhobson.com/gsv.html


「魅力的でありながら遠隔地でもある場所の探索は、そこの住人の目をただ予約しなくては(ただ現地に飛んで行かなくては)ならないというのが典型的であった。しかし今では、自動化され、美学的にニュートラルなカメラを搭載した、歩猟するストリートビューカーがキャプチャしてくれる」のである。


トロール船の「漁師」の仕事の大半は、「操船」と「選別」作業である。古典的な意味での「釣る」作業は無い。Aaron Hobson氏は、「操船」を Google に任せ、自らは「選別」に専念する。そして彼は、その「選別」基準として、まるでカレンダー写真の様に、通俗的に美しい光景を「選択」したと言える。それはそれで、一つの「選別」/「表象」の在り方として正しい。即ちそれは、「表象」を売る「商売」上の「選別」であるからだ。従ってその「選別」の「美学」を批判する事には、何らの意味も無い。彼は、彼自身に内部化された、そうした「美学」の「需要」に応えた。即ち「カニ漁」は、船上に上げられた「カニ」を「選別」し、「イカ漁」は、船上に上げられた「イカ」を「選別」するという、本当にただそれだけの事である。「カニ」だから「カニ漁」が良いとか、「イカ」だから「イカ漁」は駄目だと言うのは、そもそもの問題化の方向性が誤っている。Aaron Hobson氏は、「通俗カレンダー写真漁」に於いて「通俗カレンダー写真」的な光景を「選別」し、それを「表象」化しただけなのである。従って、「選別」する主体、即ち「表象」化の基準が変われば、当然「アルフレッド・スティーグリッツ」「ウジェーヌ・アジェ」「アンセル・アダムス」「ロバート・フランク」「森山大道」「荒木経惟」…その他全て何でも、ストリートビューカメラによって「可能」であると言える。勿論「アンリ・カルティエ=ブレッソン」すらも。


高速回転する事をしなくなった「篠山紀信くん」は、今日もまたストリートビューカーの収穫を待ち続ける。彼は気付いたのだ。自ら高速回転をして、神経を研ぎ澄ませるだけ研ぎ澄ませても、それでも「逃げ去るイメージ」を取りこぼす方が圧倒的に多い事を。世界は「逃げ去ってしまったイメージ」という圧倒的な「外部」で出来ている事を。他人は取りこぼしていないもの、そしてその中から「公開」に値すると「選別」されたもの、即ち「捕獲し編集されたイメージ」をのみしか見ず、それをしか評価しない事を。ならば、最初から取りこぼす事、捨て去る事を織り込んで、データの「外部」である「逃げ去ってしまったイメージ」の存在は度外視し、トロール網の中の「世界」から「表象」を「選別」した方が余程良い。その方が「表象」生産の「歩止まり」は高かろうし、何せ古今東西、世界中のあらゆるタイプのフォトグラファーになれるのだ。それを「自我の拡散」とも「自我の転移」とも言えば言えなくもないが、一方でそんな御大層なものではないかもしれない。どっちにしても、友人の「大空翼くん」の様に、「カメラは友達」なんて事は言いたくもない。単純に「カメラ」は「機械」なのだ。それをフォトグラファーが「随意」的に操作しようがしまいが、「機械」が撮るもの全てが「写真」だ。そして、「機械」は仕事をしなくなったら、その時には無碍に葬り捨てるものだ。動かなくなったそれを、セーム皮で磨くなんて真似は「篠山紀信くん」には到底出来ない。


フォトグラファーとしての仕事の「選択」は、シャッター操作によってその場で「選択」/「編集」するか、マウス操作によって後になって「選択」/「編集」するかのどちらかだけだ。「篠山紀信くん」は後者である。それが「篠山紀信くん」の「写真」に対する「随意」の形なのだ。



【略】