想像の建築

承前


東京スカイツリー」が、そろそろフィニッシュワークに入る。ガワ(外側)はほぼ出来ていると言えよう。今は、石材屋さんとか、クロス屋さんとか、電設屋さんとか、水周り屋さんとか、そういう人達が多く働いておられるのだろう。それから什器等が運び込まれ、美装が入り、併せてスタッフの研修が行われ、2012年5月22日に、バタバタとその「瞬間」の「直前」に左右に張られたばかりの紅白のテープを、建設最後の「工具」である「金色の鋏」でカットして、即ち「ビルド」した直後に「スクラップ」して、それで電波塔=送信アンテナ「東京スカイツリー」は目出度く「完成」である。


ここは「世界に誇る」都会の送信アンテナであるから、「門前町」や「門前市」ならぬ、「送信アンテナ町」や「送信アンテナ市」を、送信アンテナの回りに、経済のタービン装置として作ろうというのである。少なくとも、高層建築物界からすれば低層建築物である「六本木ヒルズ」辺りの「展望階」目当ての客の殆どは、現在の「東京タワー展望台」の様に、ここにすっかり奪われるだろう。最早「展望」では人を集められない六本木は、再び「ヒルズ以前」になるだろう。六本木高層建築に依存したテナントは、今の内に売り抜けるだけ売り抜けて、そしてさっさと六本木から逃げてしまった方が、大火傷をしなくて済むと思われる。「六本木ヒルズ」や「東京ミッドタウン」は、未来の「サンシャインシティ」を感じさせる。これもまた「新陳代謝」であると言えるだろう。


今日も今日とて、世界中に超高層建築物は建つのである。日本でのランキングなど可愛いものである。


http://en.wikipedia.org/wiki/List_of_tallest_buildings_in_the_world



UAE と Saudi Arabia と Taiwan と China と Hong Kong と Malaysia と Kuwait と USA…。中東と東アジアと米国…。こういった面々(ヨーロッパ勢、南米勢、アフリカ勢皆無)の集まる「ゲーム」に、日本も遅れじと、あたふたと参加するものの、しかし「一等賞」や「イニシアティブ」は永遠に獲得出来ないという、まるで現在の「アートマーケット」の様な様相である。と言うか、「超高層建築」と「アートマーケット」は、どこかでパラレルの関係にあるだろう。「超高層建築」有る所に「アートマーケット」は有り、「超高層建築」無き所に「アートマーケット」は無いと断言すら出来そうだ。確かに、「超高層ビル」にオフィスを構えた会社の、「現代アート」の大作が壁に掛かった役員室というのは、ハリウッド映画辺りが撒き散らす、スノッブな上にもスノッブな今日的な「成功者」のイメージだろう。恐らく「現代アート」は、こういうところにこそ売るべきものであり、ならば、こうした「成功者」のイメージを抱き合わせて売れば良いのだとも言えるが、しかし悲しいかな、日本人の「成功」のイメージは、恐らくこれから先も、永遠にこういうものでは無かったりするのである。


それはさておき、この「スカイスクレーパーと都市計画マニアの為の」サイトの "World's Tallest Buildiggs" や、 "World Skyscraper Construction" のダイアグラムの数々を見て行くと、何やら気分が悪くなってくるとすら言える。少なくとも19世紀末(1884年)時点で、 "World's tallest buildings" と言えば、エジプトのギザのピラミッドが上位にあり、「世界一」がワシントンのオベリスクというものだったのだ。



こうした「超高層建築」には「ニョキニョキ」という擬態語が最も相応しい。あっちでも「ニョキニョキ」、こっちでも「ニョキニョキ」。それは本当に「ニョキニョキ」と音を立てていそうだ。「ニョキニョキ」である上に「ウネウネ」というものもあった。数年前に話題になったこれは、現在どうなっているのだろうか。



http://www.dynamicarchitecture.net/


日本語には、同音異義語というのが数多くあるが、その同音異義語は、元々同じものであったものが、後にそれぞれに分かれたという経緯を経たものも少なくない。「たつ」という動詞にも様々な同音異義語がある。「立つ」であったり、「建つ」であったり、「発つ」であったりだ。その中に「勃つ」というのもあるだろう。もうバレバレだが、「建築」の「建つ」は「勃つ」でもある。即ち「建築」の欲望というものは、それ自体がファロサントリックな男性原理的な欲望の形であると言えよう。「縦方向」の「全長」を競い合う "World's tallest buildings" のダイアグラムを見て「気分が悪くなる」というのは、全くそういう事なのである。「東京スカイツリーが勃ちました」という「誤変換」は、しかしどこかで「真実」を表わす。さしずめ "Dynamic Architecture" などは、全館が「アダルトショップ」という目的でしか使用してはならないだろう。何と言うか、ここの" World's tallest building" の「紹介ページ」の画像には、超高層建築の何たるかが、余すところ無く表現されている様な気もしないではない。ミシェル・フーコーならば、この画像を、ベラスケスの「侍女たち」の様に、画像を見る者をも含めて、分析してくれるかもしれない。


兎に角、様々な意味で「力」を持てば、巨大な物や高い物を建てたくなるのは、人類誕生以来の「業(ごう)」や「性(さが)」というものだ。「摩天楼」もまた「Babell」とも訳される。しかし高さの「世界一」は、結局はアルベルト・シュペーアによる「国家社会主義ドイツ労働者党ベルリン党大会(1934年)」の「高さ8,000メートル」を、永遠に超えられないだろう。


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丸の内の「東京中央郵便局」の建て替えイメージである。「吉田鉄郎」設計局舎(「ブルーノ・タウト」が「褒めた」らしい)の約3割を「保存」し、地下4階・地上38階、高さ約200mの、「折り紙」をイメージしたらしい「ヘルムート・ヤーン」が、「吉田鉄郎」から「ニョキニョキ」と「建つ」訳である。新名称は「JPタワー」。極めて「小泉純一郎」色の強い名称であると言えるだろう。


辰野金吾」の再現東京駅を挟んで、「グラントウキョウ(ノースタワー、サウスタワー)」と、「東京中央郵便局」を両方担当した「ヘルムート・ヤーン」がサンドウィッチするという、夢の様な、悪夢の様な、そんな2012年の東京駅周辺である。「JPタワー」の主用途は、賃貸オフィスであり、一階に郵便局を置く他、海外旅行客相手の観光振興拠点や会議施設、商業テナントなども入居するらしいのだが、身も蓋も無く言えば、この周辺では既にそんなものは飽和状態なのである。


しかしこれもまた極めて「猥褻図画」物件である。「猥褻」を消してみる。併せて隣の「丸ビル」の「猥褻」も消す。「グラントウキョウ・サウスタワー」なる「猥褻」も消す。大分「猥褻」感が消える。



ついでに大正期や昭和期の「名建築」の全てを消すと、何やら黙示的な風景になってしまった。とは言え、江戸期の風景は、この様なものであったと言える。この辺一帯の原状であった、葦が覆い茂る湿地帯も描けば良かっただろうか。



いずれにしても、この「東京中央郵便局」の「再開発」は、何故に上方に展開されるのだろうか。「歴史」を最大限リスペクトしようとするなら、フロア面積確保の方向は「ジオフロント」こそが「正解」であろう。地上四階、地下三十八階、マイナス200メートル。マイナスの高層建築。「JPタワー(tower)」ならぬ「JPホール(hole)」。見た目は二枚目の画像と同じである。「吉田鉄郎」による「東京中央郵便局」は、その時地下世界への「ゲート」となる。


「高さへの挑戦」ならぬ「深さへの挑戦」。誰もその「外観」を見る事は叶わない。否、スペクタキュラスな「外観」など「穴」には無い。「地下」世界の「外観」は、現実の「地下街」に見られる様に、常に「内側」からしか想像出来ないものだ。



この下には、「世界一深い『建物』」がある。誰もそれを目で直接見て確かめ様の無い、スペクタキュラスの対極にある、想像の「建築」。「スカイスクレーパー(Skyscraper)」ならぬ「アーススクレーパー(Earthscraper)」。いや殊更に、縦方向に深くなくても、地下街的に横方向へ広く展開するという手も無くは無い。黙示的な風景にポツポツと空く穴から、超マイナス高層(低層)ビルが「ニョキニョキ」ではなく「メリメリ」と「建つ」。否、それは「建つ」ではない。ましてやファロサントリックな「勃つ」でもない。何だろうそれは。

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レンゾ・ピアノ71才時の最近作 "California Academy of Sciences (CAS)" である。2008年9月27日にオープンした。



http://www.arcspace.com/architects/piano/cas/cas.html
http://www.nytimes.com/slideshow/2008/09/23/arts/20080924_ACADEMY_SLIDESHOW_index.html
http://www.flickr.com/search/?s=rec&q=renzo+piano+California+Academy+of+Sciences&m=text


工法はいつものピアノだが、今作の売りは「The living roof(生きている屋根)」である。昨今の公共建築に求められるテーマは、「省エネルギー」と「環境」であったりもするが、このピアノの最近作も、カリフォルニア州に自生する9種類の植物で植栽された「大屋根」で、プラネタリウム熱帯雨林の、2つの球体が覆われている。



エネルギー効率は良いらしい。これと、例えば藤森照信建築の「屋根」とを、同種のものと見る向きもあるだろう。しかし、藤森照信のそれは、飽くまで「建築」の「要素」としての「屋根」に止まっている様にも感じられる。一方ピアノのこれは、 果たして「屋根」と言えるであろうか。



今回のこれも、当然コンペだった。他の建築家が精密な建築模型を作り、自らの案をプレゼンテーションしたのに対し、ピアノは手ぶらで現れ、この地に実際に立ってから、その場でさっとドローイングを描いたという「伝説」が残っている。



結局2本の水平線の間に波形の線が描かれた即興的なドローイングによって、精緻を極めた建築模型の他プロジェクトは退けられ、ピアノの案が採用される事になる。


それでも、これはまだ「建築」と呼べるだろう、しかし、これを「1フロア」分潜らせれば、途端に「建築」は消失する。それは単なる築山の風景となる。



換言すれば、この物件は「1フロア」分だけ地上に出ているが故に、辛うじて「建築」なのだと言える。地上に構造が露出している事。「それだけ」が「建築」の根拠であると言えるだろう。「建築」とは、畢竟「地面より上」の部分を言う。下掲模型で言えば、等高線表現の部分が「地面」であり、そうでないところが「建築」である。しかし、模型で見る限りに於いて、両者を隔てる根拠は恣意的に見える。



例えば中国黄土地帯の、「地面が屋根」「屋根が地面」「地面が地面」「屋根が屋根」である「見立て」の住居「窰洞(ヤオトン)」は、果たして「建築」と呼べるだろうか。



http://www.hilife.or.jp/rf/2007/05/post_3.html


或るメディアの評では、ピアノのこれを、「建築」に於ける "creative" から "susceptive" への転換と書いていたが、確かに「建築」である限り「外観」を成立させる "creative" の意志から、"susceptive" な方向へとシフトしている様に見える。そしてやはり、この先にあるのは「アーススクレーパー」なのであろう。その時、形に訴える事の出来ない「建築家」は、どうすれば良いだろうか。

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団体展の「彫刻室」に顕著であるが、そこはむせ返る様な "creative" な「形」で埋まっている。そこには "creative" でないものは存在しない。そしてまた現実の町も、何時の頃からか「建築家」のむせ返る様な "creative" の表現場所である「彫刻室」になってしまった。


「建築家」の多くは「見立て」の住居を作らない。「建築家」は「形」ばかりを作ろうとする。それはそうだろう。「見立て」は「建築家」の生命線を絶つ。

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以下1月10日加筆。


エミリオ・アンバースに於ける大地の「切り方」の例。


http://www.emilioambaszandassociates.com/portfolio/portfolio.cfm?Pid=1
http://www.emilioambaszandassociates.com/recent/recent.cfm?Pid=75


併せて


http://sasakilab.exblog.jp/9092388/


【続く】