忽然領悟

承前


自分の庭に、「位相ー大地」を「勝手」に作ってしまった紳士の話。それを続ける前に。

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語り継がれてきた「話」だ。一人の男がいた。仮に男Dとしておく。


男Dは、人から質問されると、必ずただ一本指を立てるだけだった。或る日、男Dの下に客人が来て、男に仕えていた若い従者である男Eに対して質問をした。「あなたの師匠(男D)はどういう事を教えているのか」。男Eは、師匠である男Dがそうする様に、その質問に対して一本指を立てた。その顛末を聞いた師匠の男Dは、矢庭に刃物を取り出すと、男Eの立てた指を切り落とした。その余りの激痛に号哭した男Eが、その場から逃げ去ろうとすると、男Dは再び男Eを呼ぶ。振り向いた男Eに、男Dは一本指を立てる。男Eはその瞬間に全てを開悟する。男Dの今際の際。集まってきた人々に、男Dはこう言った。「私は、自分の師である男Cから、この一本指の技を得たものの、しかし一生掛かっても、その技の全てを引き出す事は出来なかった」。


この話には「前段」と「なる」話がある。先程の男Dとは別の人物、男Aの話だ。


男Aが、グリドラ・クータ山で、集まった人々に対して講演会をしていた時、そこにあった一本の花の茎を捻って、人々の前に差し出した。それを見た人々は、それが何を意味しているのか判らず、ただ黙っていた。一人だけ、男Bが、それを見て相好を崩して微笑んだ。男Aは言った。「凡そ真理に関する様々な事を、言葉や文字によらず、教える事無しに、男Bに委ねる事とする」。


これらの「話」は「公案」とも言われ、前者が「倶胝竪指(注1)」、後者が「世尊拈花(注2)」として知られている。

(注1)無門關第三則「倶胝竪指」


倶胝和尚、凡有詰問、唯擧一指。後有童子。因外人問、和尚説何法要。童子亦竪指頭。胝聞遂以刃斷其指。童子、負痛號哭而去。胝復召之。 童子廻首。 胝却竪起指。童子忽然領悟。
胝將順世、謂衆曰、吾得天龍一指頭禪、一生受用不盡。言訖示滅。

(注2)無門關第六則「世尊拈花」


世尊、昔、在靈山會上拈花示衆。是時、衆皆默然。惟迦葉尊者破顔微笑。世尊云、吾有正法眼藏、涅槃妙心、實相無相、微妙法門、不立文字、教外別傳、付囑摩訶迦葉


この二つを含めた四十八の公案コンテンツが、中国宋代の禅僧、無門慧開(むもんえかい:1183-1260)によって様々な禅語録から選ばれ、「無門關(むもんかん)」という公案アンソロジーの形で纏められている。他にも、「臨済録」「趙州録」「碧巌録」等の公案アンソロジーがあり、そこに編修された公案の一部は重複している。


それにしても、公案として難問中の難問が揃った「無門關」だ。「言語道断」で「不合理」で「無茶苦茶」な「話」ばかりなのである。「西から来た毛唐(菩提達磨=髭面)に、何故髭が無いのか?」(第四則「胡子無鬚」)とか、「口だけで大きな木の枝にぶら下がっている時に、木の下から質問されたらどうするか?」(第五則「香嚴上樹」)とか、教えを請う入門したての僧が、高僧(趙州)から「粥は食ったか?」と尋ねられ、「食べた」と言えば、「では鉢を洗ってこい」と言われた事で覚悟する(第七則「趙州洗鉢」)とか、兎に角これらの「公案」は、参究の為の課題であるから、質問を受ける修行者を困惑させる為に存在するとすら言って良いかもしれない。修行が或る程度進んだ雲水に、こうした「言語道断」で「不合理」で「無茶苦茶」な「公案」を示し、それにどういった「意味」があるかを、とことん困惑させる事で自ら考えさせ、その「答え」を導かせる。什麼生。仮に、そうした「言語道断」な「不合理」の「無茶苦茶」に対して「答え」られなければ(大抵「初心者」は答えられない)、破門されたり殴られたりする事もある。場合によっては「指を切り落とされる」かもしれない。


無門關の各則の構成は、まず元となる公案(本則)が書かれ、その後に無門による評唱と頌が続く。評唱と頌とは、商量と唄という事になるが、無門の商量は苛烈であり、「素人」からすれば、心が捻じ曲がっているのではないかとすら見え、頌に至っては口あんぐりである。例えば「世尊拈花」の評唱はこうだ。


「釈迦(男A)は傍若無人だ。善男善女をコケにして、示した見本と全く違う粗悪品を売る。奇抜なやり方と言えば言えるものの、それだけだったりする。もしその時、善男善女が全員微笑んだら、釈迦は正法眼蔵をどう伝えただろう。また逆に、迦葉(男B)が微笑まなかったら、それを伝えるのにどうするつもりだったのだろう。そもそも正法眼蔵が伝達可能だというのなら、釈迦は大法螺吹きも良いところであり、また伝達不可能であるとするならば、何故に迦葉だけにそれを許したのだろうか。(黄面瞿曇、傍若無人。壓良爲賤、懸羊頭賣狗肉。將謂、多少奇特。只如當時大衆都笑、正法眼藏、作麼生傳。設使迦葉不笑、正法眼藏又作麼生傳。若道正法眼藏有傳授、黄面老子、誑謼閭閻。若道無傳授、爲甚麼獨許迦葉)」


続けての頌はこうだ。


「花を捻っちゃったら、ケツの穴が丸見えだ。迦葉の笑いには、人も神もトホホになるしかない。(拈起花來、尾巴已露、迦葉破顔、人天罔措)」


例えば Twitter でこういう発言をすれば、通常はまず確実に無門垢は「炎上」する事だろう。無門垢はその内「閉鎖」されるかもしれず、一連の評唱はスパム報告すらされるかもしれない。しかし、これは単なる「揶揄」ではない。但し、それが「揶揄」であると感じる精神には、依然として「揶揄」でしかないものだ。

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直径2m20cm、深さ2m70cmの「穴」を掘り、そこから出た土で、穴の傍らに穴と同形の土の塊を作る。しかし、その様な大仰な「穴」を一週間も掛けて土木工事するまでもなく、例えば指を一本だけ立てる様な、そんな極めて些細な仕儀で、それは済んでしまう話なのかもしれない。一本の花を捻るだけで「ケツの穴が丸見え」とされる、極めて「純度の高い」精神活動からすれば、あれ程に大仰な「位相ー大地」などは、さしずめ「ケツの穴から内蔵まで丸見え」となるのだろう。大体、仏典にしても禅語にしても、芸術作品を見る事によって仏性を論じるなどという話は皆無なのだ。


しかしそうした「ケツの穴から内蔵まで丸見え」という「台無し」をしてしまう事が、「美術」であるとも言え、換言すれば、「台無し」振りを競い合う営為こそが「美術」であるとすら言えるだろう。「美術」は、どこかで精神を「濁らせ」なければ、作る事すら叶わない。「位相ー大地」が、何故にあの大袈裟なスケールでなくてはならなかったかと言えば、それは指を一本立てるだけで領悟出来てしまったり、捻った花を差し出されただけで微笑出来たりする様な精神の持ち主が、現実的にそれ程には一般的では無いからだと言えるだろう。崇高に作られたものでなければ、玄妙に描かれたものでなければ、精緻に作り込まれたものでなければ「見えて」こない人達こそ、この世には多く存在する。或いはまた、切り落とされた童子(男B)の指を縦半分に裂き、ホルマリン漬けにして見世物にしたりするなどは、こうした「純度の高い」精神活動からすれば、「以ての外」という事になるかもしれないが、しかしそれをしなければ「見えて」こない、そしてそれをしたところで、やはり多くは「見えて」こないというのが、精神の実際ではあるだろう。ましてや、それに相対して商量などする者とて多くはない。無門の評唱にある如く、誰でも花を見るだけで微笑める(得悟する事が出来る)様な精神の能力を有するのであれば、ほぼ全ての「アーティスト」は、明日からおまんまの食い上げになって然るべきだし、その一方で、少数に伝達出来れば良いというのも、迦葉の笑みの限界性を踏襲するだろう。

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「位相ー大地」を「勝手」に作った紳士にとって、「美術作品」とは、作品上に具現化した、作者の類い希な技術によって価値付けられるものであった。即ち紳士にとって、芸術家とは技術上の職能的優位性を持たねばならないのである。そうした職能的優位性を「創作性」と言い換える事は可能だ。芸術家という職能に対して、こうした了解が未だに支配的である以上、誰にでも出来る事をするのは芸術家の資格を有しない。


こうした芸術家に対する一般的了解は、法律化すらもされている。それが所謂「著作権法」である。その第一章「総則」第一節「通則」第二条一には、こう書かれている。

(定義)
第二条  この法律において、次の各号に掲げる用語の意義は、当該各号に定めるところによる。
一  著作物 思想又は感情を創作的に表現したものであつて、文芸、学術、美術又は音楽の範囲に属するものをいう。


数々の著作権関連の判例に見られる適用例から辿って行けば、現実的に「創作性」には「要件」が存在する事が判るだろう。即ち「創作性」の「要件」を満たさない「芸術作品」は、恐らく「著作権法」で保護される「著作物」とは見做されない。極めて平凡な形の穴を掘り、極めて平凡な形に土を積み上げる行為に「創作性」を認め、それを「著作物」とすれば、以後そうした行為を行おうとする度に、「作者」に許諾を得なければならないという事になる。「便器を倒しただけ」であるとか、「針金を曲げただけ」であるとか、「画鋲を壁に打っただけ」の作品なども、「思想又は感情を創作的に表現」した「著作物」の適用に関しては「難しい」という事にはなるだろう。当然その「アイディア」に、「独創性」や「新規性」の感じられる「創作性」が「認められている」とは言え、しかし著作権法は「表現」をこそ対象とするものであっても、「アイディア」はその限りではない。であるならば、少なくとも紳士の行為は、「著作権法」的には、何らの瑕疵も無いという事になる。その場合、「位相ー大地」は、「作者」の許諾を受けずに、誰もが「勝手」に作って良いものとなる。勿論、現代の「美術」的な「マナー」に照らして、問題ありとする立場もあり得るだろう。しかし「マナー」の多くは、その「マナー」を信憑する共同主観に留まるものではある。美大生の様に。


しかしまた、表現、及び精神の「純度」を高めていけば、場合によっては誰にでも出来る事に至る事もあるだろうし、「表現」が「アイディア」に近いものになる事もある。「芸術家(アーティスト)」という慣習的な括りが、そうしたものの存在に、殆ど対応出来ないというのであれば、今や「著作物制作者」としての「芸術家(アーティスト)」とはまた別のカテゴライズが求められるところではあろう。


それを何と言えば良いのだろうか。「公案家」か。確かに、経典や禅語に「著作権」はあり得ないとだけは言える。経典や禅語が「著作権」で守られていたら、写経する事も、読経する事も叶わないだろう。しかしそれでも、彼等は経済的自律を果たしていたりはするのだ。慣習的な「芸術家(アーティスト)」のそれとは、全く違った形で。


【続くかもしれない】