青梅「不穏」

承前


普通の何が不穏なのか。美術家の手が加わっていない離れの書斎はこうなっている。



ガラスで隔てられた「吉川英治」の側に、座卓、座椅子、座布団、書棚、書籍、茶碗、眼鏡、文鎮、萬年筆、地図、天眼鏡、箸置、硯、握り鋏、ゴミ箱…・。そして不在の吉川英治。それだけで十分に不穏だ。


ここに同行させるべきは、真野康彦こと、通称「ヤス」が良いだろう。



ヤス「しょさい です。よしかわえいじは ここに いました。」


ヤス「なにを しらべますか?」


ボス「むしめがね」


ヤス「どこを しらべますか?」


ボス「ここだよ ここ!」


ヤス「ねんだいものの めがねです。」


ヤス「では、 しょうこひんとして もっておきます。」


「記念館」。それはまた「事件現場」の如きものである。「訪問者」はこの書斎を見て、「恰(あたか)もたった今、不在になったばかり」の「吉川英治」という存在の痕跡を見ようとする。萬年筆はケースから取り出されて、箸置きの上に置かれている。その萬年筆の位置からも「判る」様に、右利きだったと思われる吉川英治が投げ出したまま(であるかの様に置かれている)、原稿用紙の上に眼鏡がある。地図が広げられているのは、吉川英治が不在になる直前まで、その場所に関する構想を練っていたからだろう(と思える様に置かれている)。これで茶碗に飲み掛けの茶があったり、調度品の配置が乱れていて、母屋の食卓に配膳されたばかりの夕飯が置きっ放しになっていたら、まるでそれは「拉致現場」や「殺人現場」であろう。


眼鏡や天眼鏡の置かれ方、茶碗の中身、ゴミ箱の中、座卓からはみ出す形で置かれた二冊の本の配置、それらの布置関係とその内容等々の「状況」は、「不在」となった「吉川英治」という「事件」を知る為の重要な「証拠」となる。勿論、現実的には、これは「偽装」された「現場」であるから、所々に矛盾点というものも出てくるだろう。ならば「訪問者」の目は、それを見逃すまいと、尚もそれぞれのものを注視する。地図の上の文鎮の位置はおかしくないか、いや、吉川英治の癖はこうだったのかもしれない。常日頃、本当に茶碗はここに置いていたのだろうか。否、この位置こそが、家族との取り決めによって決定されたものだったのかもしれない。否、吉川英治は左手に茶碗を持ちつつ、右手で執筆していたかもしれない、等々。「事件現場」に存在するあらゆる物は、それが極めて特別なものであれ、極めて普通のものであれ、その全てが不穏であり、その全てが疑いの対象だ。


例えば、自分自身の身の回り。自分自身がいる部屋の現在のこの状況。そこで自分自身が何か「事件」に巻き込まれ、自分自身が突然不在となったならば、その部屋の全てのものは不穏を醸し出す。額が曲がっていれば不穏であり、書類が散乱していれば不穏であり、飲み掛けのコーヒーがあれば不穏であり、封を切っていない封書があれば不穏であり、PCの電源が入りっ放しになっていれば不穏であり、バッグが空いていれば不穏であり…。通常それらは不穏とされる事は無いが、しかし一旦事が起きれば、それはそのままで不穏になる。普通が異形であるとはそういう事だ。


典型的な「記念館」展示の「書斎」から、再び母屋に引き返す。そこにあるのは、「同寸の2点のフレーム入りカラープリント」「花瓶、アクリルケース」「同寸の2台の机、2冊の本、急須、水差し」「座卓、壺」「木、皿、瓶、ハンカチ、金具」「バッグ、ハンカチ、ティッシュ、リップスティック、文庫本、ペン」「紙箱」という普通のものである。そこには特別な材料も、特別な技術も無い。造形的な評価の対象としての特別な形としての異形を持たないもの。それらが「書斎」の座卓の上の「飲み干された茶碗」、或いは「洗われた茶碗」同様に不穏を醸し出す。


母屋の土間の上がり框には、美術作品だからか、「コンセプト」、或いは「メッセージ」と呼ばれる、美術家「高柳恵里」によって書かれた文章のボードが立てられている。しかしその文章をここでは出さない。出す事によって、却って隠れてしまうものもあるからだ。


こうした普通のものの持つ不穏を感じさせる作品展示が可能になったのは、ここが「人物」と名指される「事件」の博覧施設である「記念館」だったからなのだろう。この後「青梅」の全ての作品を見終え、横浜に行く事を断念し、その代わりに、この同じ作者の個展を銀座に見に行く事にした。果たしてホワイトキューブの中にあったのは、怪しげな普通ではあっても、不穏な普通には足りなかった。例えて言えば、ギャラリー空間の彫刻台の上に、原稿用紙が一枚広げられ、その上に長文鎮が置かれ、眼鏡が投げ出されていても、それは些かも「事件性」を感じさせるものではなく、「事件」の「造形論」と「存在論」が見えるばかりになってしまう事だろう。明らかにホワイトキューブは、ものの見え方を「整形」するところがある。そしてその「整形」によって削り落とされてしまうものの中に、恐らくものの不穏もまた含まれてしまうのかもしれない。その意味で「記念館」というロケーションを選択した時点で、この作品の成功は、半ば実現していたのかもしれないとも思う。


ものの不穏は、我々の雑然とした部屋にすらある。「記念館」のものの不穏は、我々のすぐ隣りにある不穏を思い起こさせ、そしてそれらを異形のものとするのだ。


【続く】