拘泥

【幕間】


「僕は『壁派』だったからね」


その画家はそう言った。朧気ながら「壁派」と呼ばれる傾向を持つ一群の作品が、今から半世紀以上前に日本に存在した事を思い出した。


「その頃は貧乏だったから、絵具を買えなくてね。だから土を拾ってきて、それを絵具にして絵を書いたんだよ。僕は『壁派』だったからね」


そう自嘲気味に言うと年配の画家ははにかんだ。彼は絵具に頓着しない画家だった。


一方でこういう話を最近聞いた。


「学生時代貧乏だったから、生活費と絵具代とを天秤に掛けて、それでも結局使いたかった(ウィンザー&)ニュートンヴァーミリオンを無理して買っちゃったんですよ。国産メーカーのでは駄目なんですよ。やっぱりニュートンは全然違いましたね」


そう言うと、その画家は絵具について熱く語った。彼は絵具に頓着するのだろう。


粗悪な材料で時代の勢いに任せて描かれた作品と、最高の材料で丁寧に書かれた学生の習作。いずれの作品も、今後も公開される事は無いだろう。それぞれの作品は、それぞれの記憶の中に留めるべきものだからだ。最低級の絵具も、最高級の絵具も、共に日の当たらない場所で朽ちていく運命にある。作品が日の当たる場所に出る条件に、必ずしも「絵具」の質は必要ではないかもしれない。寧ろその作品に日が当たる条件を満たす事が、まずは先行されるべきなのだろう。

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新幹線の車内電光ニュースを眺めていると、その広告は流れてきた。


東レの"水なし平版"による印刷技術は、環境負荷の低減に貢献しています。」


所謂ウォーターレス印刷である。東レのサイトから引く。


均一なシリコーンゴムが水膜の代わりに


 PS版を使用した、従来の印刷方法には、「安定感」や「環境配慮」といった意味で大きな問題がありました。具体的には、「湿し水の影響により従来PS印刷は品質が安定せずに困る」「従来PS印刷は、湿し水の調整で機械が頻繁に止まる」「湿し水には、IPA(イソプロピルアルコール)やH液が混入しており、環境保全に適していない」等です。


 水なし印刷とは、「湿し水」の代替として「シリコーンゴム」を利用した印刷システムです。この印刷方式により、「環境への配慮」や「高品質」に加え「生産性の向上」が可能になる画期的な印刷方式です。


http://www.waterless-print.com/index.html


日本WPA(日本水なし印刷協会)によるウォーターレス印刷の歴史を引く。


1978年、アメリカで産業廃棄物を下水道に排水する取り締まり強化のための条例「事前処理基準」が制定されました。そして、1992年、バージニア州環境改善局は、プロモーションビデオを作成し、水なし版の使用を奨励。行政が印刷業者に対し、規制厳守につながる版材の使用を啓蒙するという画期的なできごとが起りました。


http://www.waterless.jp/about/world.php


平版印刷に使用される湿し水には、エッチ液やIPAなどの「有害物質」が混入され、その廃液は水質汚濁防止法で定められたBOD(生物化学的酸素要求量)、COD(化学的酸素要求量)などの基準値を遙かに超えているという事実がある。 最早後戻りは出来ない。やがて平版印刷が様変わりするだろう事は、この時点(1992年)で予想可能であった。少なくとも、少しでもまともな印刷会社なら、その「Xデー」に向けての備えを、その時点で始めていただろう。「仕事」をする者ならば、そうした動向には常に気を配り、自らの「仕事」上の危機管理を怠ってはならないからだ。


長年湿し水に使用されてきたエッチ液の販売終了が告知されると、一部の平版の版画家は、無辜の子羊の様に右往左往した。日本経済新聞日刊工業新聞も読まない人達は、準備万端の人の「遂にその日が来ましたね」ではなく、「知らなかった」「聞いてないよ」的な言葉を吐く。そして全てが終わりを迎える段階になって「困ります」などと言う。見も蓋もなく言えば、印刷業界の提供する環境に寄生する形で成立する版画だ。版画は「印刷の生態系」に組み込まれている。版画で「仕事」をする者ならば、「宿主」である印刷業界の動向に常に気を配り、予想可能な「危機」に早くから備えておかねばならなかっただろう。その萌芽は19年も前にあったのだ。仮に「仕事」の人、例えば印刷業の人がこうした「知らなかった」「聞いてないよ」「困ります」的呑気を言えば、それは「仕事人」としての資質を問われる事になるだろう。但しこれは「仕事」の場合である。それが「仕事」ではないのならその限りでは無い。では版画が「仕事」で無ければ何だろう。やはり「芸術」だろうか。今は出版低迷による印刷や製紙そのものの変革時期でもある。しかしそれでも「芸術」は毎日を安寧に過ごすだろう。そして再び「その日」になって、無辜の子羊になるだろう。


こうした無辜、無辜とはイノセントでもあるから、「無邪気」とも「天真爛漫」とも「ピュア」とも「お目出度い」とも言えるが、無辜の芸術子羊の右往左往は、所謂「三千本問題」にも見られる。牛から生成される膠である三千本が無くなる事で狼狽する一部の画家達。三千本という素材に自らの制作上のアイデンティティの大部分(或いは全て)を委ね、三千本が無ければ事実上作品が描けない画家がいると仮定して、その画家が震災時のペットボトル水宜しく、三千本を買い占めるというケースが出てくるかもしれない。恐らくその画家は、死ぬまで買い占めた三千本で絵を描き続けるのだろう。その作品の全てが、永久に人類が残したくなる様な素晴らしい絵になるかどうかは判らない。買い占めた三千本で駄作の山という笑えない事態は避けたいところであるが、しかし三千本を買い占めるだけで満足し、それをアトリエにお蔵入りさせるのみという、買い占めに良くあるパターンよりは、まだしも駄作の山の方が救いがあるかもしれない。


参考:「三千本膠の製造終了と、それに関するツイートのまとめ」
http://togetter.com/li/81898


三千本もまた、エッチ液同様それが無くなる事は十分に予測可能であったと言える。その生産現場に課せられた様々な困難(社会的なもの含む)、それ故に後継者が現れなかった事、そしてやがてその生産が止まる等々の情報は、かなり以前から可視化されていたと言える。しかし画家はそうした情報にはほぼ興味を示さない。画家という「芸術」の営みは、或る意味で「仕事」ではないかもしれないからだ。その上で、画家は自らが所属する団体や、生活基盤である大学等の人事といった「形而下」の情報には興味があっても、通常の「仕事」人なら見逃せない筈の、こうした産業的、社会的「形而下」の動向には余り興味が無い。


「旧技術」と敢えて言ってしまうが、「旧技術」は「新技術」にやがて乗り越えられてしまう運命を持つ。そうした失われてしまう「旧技術」に、感傷的にか、コスト(「新技術」への投資、「新技術」の習得の手間=時間等)的にか、比較検討して初めて判る様な技術的差異故にか、肩入れする「守旧派」は、こうした技術末期には常に必ず存在する。所謂「拘り」という語でそれは表されるだろう。例えば湿板写真から乾板写真に至る段階で、「乾板では湿板の味は出ない」などと言っていた人がいたのだという事は想像出来る。「ダゲレオタイプでないと自分の表現は出来ない」と言っていた人の存在も想像可能だ。しかしそうした「拘り」は、今になってみればどうでもいい話にはなる。その技術の最盛期に普通に作られていたものと、その最末期に「拘り」で作られていたものの差それ自体には、何の意味も価値的差異も無い。再度言うが、「拘り」の技術で「凡作の山」というケースは、数限りなく存在するのだ。

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今のヴァーミリオンは、嘗てのヴァーミリオンではない。その多くにヒューという語が接尾されている。顔料の硫化水銀は製造が規制されている。ヴァーミリオン・ヒュー。「ヴァーミリオン色」という名の、全く別の色の絵具。


生活費を削ってニュートンオイルカラーのヴァーミリオンを買った画家は、現在はオイルカラーそのものを使っていない。寧ろRGB (242, 102, 73)、CMYK(0, 75, 75, 0)、HSV(10°, 70%, 95%)、マンセル値(6R 5.5/14)、16進表記の#F26649の「ヴァーミリオン色」を、モニタ上で使用する事の方が多い様だ。


【幕間了】