弁明

承前


はてダのエントリーが更新されていた。いや自分のそれではない。敢えてそのエントリーをざっくりとカテゴライズすれば、それは「弁明」であろう。


べん‐めい【弁明・辯明・辨明】
〘名〙スル
1 事情などを説明してはっきりさせること。「事のやむなきを—する」
2 他人の非難などに対して、言い開きをすること。「—の余地がない」「失言を—する」


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大辞泉は、「弁明」の類語に「弁解•言い訳•釈明•申し訳•言い開き•申し開き•言い逃れ•言い抜け•逃げ口上•断る」を上げているが、そのいずれが最もこのエントリーに妥当するのかはさておき、取り敢えずそれを「弁明(仮)」であるとしておく事にする。


うたわれてきてしまったもの - 梅ラボmemo?
http://d.hatena.ne.jp/umelabo/20110524


今回の「弁明(仮)」のターゲットは、主に二つあるだろう。一つは当然直接「係争」関係にある者、即ち「弁明(仮)」の表現を借りれば、「『彼女』を愛する多くの匿名の方達」である。これに対して「作家」氏は、「該当する場所そのものにはもう足を踏み入れないと約束するし、今後は一切触れないようにします」という「確約」をした。この「確約」に対して納得の行かない「『彼女』を愛する多くの匿名の方達」の一部は、更なる条件(「作品破棄」等)を求めるものの、「作家」氏は「自分の中で『彼女』を中心に据え作品を制作し続けることに揺るぎはありません(現時点でまだ加筆は終わっていません)。コンセプトとして匿名の集合知の成果物を中心に置き、今までと現在でキャラクターの存在がどのように変わっていくかを一瞬で示唆させる構図が完結しているからです」として、その要求を拒否している。それが「一瞬で示唆させる構図」であるかどうかは、当の「作者」ではなく、常に「作者」以外の「他者」が評価する権利を有する事なのだが、そうした越境的勇み足はさておき、後年こうした「作者」氏の対応が、どの様に評価(誰から?)されるかは判らないものの、これもまた一種の「『作家』の気概」として見る事は可能ではあるだろう。当然それは二重に囲われた括弧付きで書かれる限界を持つのだが。


しかしこの「弁明(仮)」が真にターゲットとしたい相手は、その筆の勢いから言っても、文章に対する力の入れ具合から言っても、「『彼女』を愛する多くの匿名の方達」ではなく、「作家」氏自ら属していると認識している「美術界」にこそあるだろう。或る意味で、この「事件」によって、「美術界」に於ける「作家」としての氏の、「制作理念」そのものが問われる事になったと思われるからだ。その作品(の問題)は、単なる「思慮の足りない浅薄な行為」なのか、それとも「確固たる理念あっての行為」なのかといった違いをはっきりさせたい。そして「確固たる理念あっての行為」であれば、その「理念」の中身を知りたい。或る意味で、それは「美術」的にもどうでもいい話なのではあるが、それでも「美術界」というのは、そうした「作家」の「弁明」次第で、同じ作品が全く違って見えてしまうプラセボな人達が多く住まう場所なのであり、それを確かめようと彼等は常にうずうずしている。言わば「小麦粉」であるかもしれない「作品」を、「これは良く効く『薬』です」と言って暗示する事。その暗示は、通常「美術界」では「コンセプト」とも「コンテキスト」とも言い習わされていたりする。そしてそれこそが「美術」の、真に「魔術」的な部分なのである。


寧ろ、作家の「コンセプト文」なるものの全ては、そうした「弁明」でしかないとも言え、「判らない」「伝わらない」といった十分に有り得る「クレーム」を「作家」自身が先取して、言わば一種の「危機管理」として常に「安全保障」的に吐き出される。その意味で、作家の「弁明(コンセプト)」は、一国の首相や、内閣官房長官や、電力会社や焼肉チェーン経営者の「弁明」の在り方と何ら変わりが無い。そして「弁明」は、本来常に、その信頼性を問われるものなのだ。


一方で、ヴィジュアル作品というのは、それ自体で何かの意味を「伝える」のには、最も適していないメディアである。例えば岡本太郎氏の「明日の神話」が「反原子力」や「生命賛歌」であったとして、しかしあの画面そのもののみから、その理解が導き出されるとするならば、それは余りに可憐でピュア過ぎる認識だろう。あの壁画が「反原子力」や「生命賛歌」であると知る事が出来るのは、岡本太郎氏(やその近親者)の「弁明」をどこかで見聞きしているからだ。だからこそ、岡本太郎(やその近親者)は「こう言っていた」「こう文章に書いていた」という形でしか書けない評論が数多あるのである。であるが故に、その意味でも「弁明」の存在が求められるのだ。


さて「作家」氏の「弁明(仮)」である。結論から言えば、「弁明(仮)」に関する限り、余り上手いものであるとは言えないだろう。仮に美大生がこの「弁明」を提出作品に添付してきたら、かなり問題があるとしなければならない。美大生が許されない事でも、プロならば許されてしまうというケースが現実的に存在するとは言え、この「弁明(仮)」には、何よりもまず、どの様な「弁明」が「美術界」から期待されているのかが見えていない様に思われる。「弁明」はまず、論理階梯的に周囲の期待のそれと合致しなければならない。


周囲から期待される「弁明」と、本人が出す「弁明」の論理階梯が著しく異なってしまった例としては、「普通の精肉をユッケで出してるのを全て禁止して頂きたいと思います」が記憶に新しいが、そこまででは無いにせよ、「美術界」が期待するこの「作品」に限っての「弁明」には、「東日本大震災」という、「作品論」とは別次元の話は含まれていないし、それを含める事は却って「弁明」の強度を鈍らせるだけだろう。それは「確固たる『信念』あっての行為」ではあっても「確固たる『理念』あっての行為」とは言い難い。「美術界」は、何故にこうした制作スタイルを取るのかを、徹頭徹尾「美術」内のコンテキスト、「理念」で「弁明」して欲しかったのだ。それに意味があるかどうかは別にして、しかし「弁明」は時に無意味でなければならない時もある。


無論「作家」氏の、切実であろうところの「止むに止まれなさ」は、「東日本大震災」にあったかもしれない。しかしそれと「弁明」の場は、異なる位相にある。それをゴッチャにしてしまうのは、単にアマチュアの仕業である。その論理階梯の混淆には些かの戦略性も認め難い。


但しどこまでが「作家」氏の「止むに止まれなさ」であるのかは判然としない。もしかしたら、この「弁明(仮)」そのもの、「コンセプト」そのものが、「ネット上や他人の発言からコピペされたもの」かもしれないという可能性もある。「この絵の持つ天と地の存在と救済と天罰の両義性」というこの絵のコンセプトの肝要部は、実際の作品の中心部にある「キメこな」と同様、他者による「成果物」かもしれない。私のコンセプトは他人のコンセプトのコピペです。一つとして自分では考えていません。そもそもオリジナルのコンセプトなんてあるのでしょうか。


であるとしたら、それこそが近現代美術史に於いて既視感のある「カットアップ・サンプリング・リミックス」な「作品」それ自体よりも、余程「新しい」と言えるだろう。


【続く】