継承

承前


例えばディズニーの「リロ・アンド・スティッチ」は誰の作であろうか。ウォルト・ディズニー(1901年12月5日 - 1966年12月15日)の手になるものではない事は確かだ。版権は「ザ・ウォルト・ディズニー・カンパニー」にある。


果たしてウォルト・ディズニーが存命中に、「リロ・アンド・スティッチ」の各キャラクターに承認を与えたかどうかは判らない。ましてや「ウォルト・ディズニー・ジャパン(株)」の手になる、テレビ朝日系アニメ番組「スティッチ!」に登場する、「ユウナ」、「レイカ」、「ズル子」、「豊田さん」等々といった、どう見ても所謂「ディズニーキャラ」には見えない、「ディズニー」のイメージを根本から覆し兼ねない各キャラクターについて、ウォルト・ディズニーその人が、OKを出すとはまず考え難い。しかしそれでもそれらは、紛う方無き「ザ・ウォルト・ディズニー・カンパニー」の立派なキャラクターなのである。


テレビ朝日スティッチ!〜ずっと最高のトモダチ〜「キャラクター図鑑」
http://www.tv-asahi.co.jp/stitch/chara/index.html


ウォルト・ディズニーの死去と共に、一切のディズニー作品の制作が止まってしまったら、ディズニーは今日の様な、ABCやESPN等をも傘下に収める一大メディア総合企業にはならなかっただろう。ウォルト・ディズニーという個人の抱える限界を超えて、ディズニーの看板で創作物(それはウォルト・ディズニー的でなくても一向に構わない)を生み出す何千何万のクリエーターがいればこそ、ディズニーはディズニーであり続ける事が可能になった。


そこでは、個人としての「表現者」であるウォルト・ディズニーの趣味趣向は、法人「ザ・ウォルト・ディズニー・カンパニー」にとってどうでも良いとまでは言わないが、しかしそれが「商売」になると判断されればフル活用され、或いはまた、仮に故人の趣味趣向に反するものであっても、法人「ザ・ウォルト・ディズニー・カンパニー」にとって「使える」ものならば、是々非々でそれは採用される。「毒を食らわば皿まで」という日本語は、こうしたケースの場合に使用するべきかどうかは兎も角、それでもどこかでそれは「毒を食らわば皿まで」なのだ。


これは何もディズニーに限った話ではなく、凡そ「プロダクション」化している創作物の場合、例えばそれが手塚治虫であろうが、長谷川町子であろうが、石ノ森章太郎であろうが、藤子不二雄であろうが、赤塚不二夫であろうが、水木しげるであろうが、或いはまた田河水泡であっても、そこにはそれら「作者」という一個人が想定し得なかったキャラクターが、次から次へと「プロダクション」の承認の下に生まれている。それと同時に、手塚治虫長谷川町子石ノ森章太郎藤子不二雄赤塚不二夫田河水泡等といった「物故者」が、何も手を下さずとも(何も手を下せずとも)、それでも「手塚治虫」「長谷川町子」「石ノ森章太郎」「藤子不二雄」「赤塚不二夫」「田河水泡」の「新作」は生み出され続ける。


「アート」の場合はそうは行かない。「アート」は、いずれ死ぬ運命にある有限な「個人」に留まってこそ、有限な「個人」に留まるからこその「アート」だ。従ってアーティスト本人が死んでしまえば「ハイそれまでョ」なのである。見も蓋もなく言ってしまえば、「アート」レベルでの「プロダクションごっこ」でしかなかったアンディ・ウォーホルの「ファクトリー」もまた、結局アンディ・ウォーホルという個人の限界を超える事は出来ず、彼の死後は「ウォーホル・プロダクション」になる事も、ましてや「ザ・アンディ・ウォーホル・カンパニー」的コングロマリットになる事もなく、その時点でディズニーや手塚治虫等とは比べるべくもなく、後に何も残す事無く「アート」的に極めてちんまりとした形で終わってしまっている。「マリリン・モンロー」や「毛沢東」の新作のみならず、「『THIS IS IT』のマイケル・ジャクソン」や、「胡錦濤」「温家宝」、或いは「金正日」の「『アンディ・ウォーホル』ブランド」の新作シルクスクリーン作品は、アンディ・ウォーホルに代表される様な「アート」からは永遠に生み出されないのだ。


こうしてアーティストという「個人」の趣味趣向をこそ重視する「アート」の「ちんまり」は、ウォーホルの「ファクトリー」が事実上雲散霧消してから半世紀後の現在になっても、未だにそうした「プロダクションごっこ」の「ファクトリー」を真似た数々の「ちんまり」に受け継がれている。恐らくこの一代限りの「ちんまり」はこれからも続き、そうした「ちんまり」をこそ「アート」は重視するのだろう。


「アート」の「継承」は、「ディズニー」の「継承」とは全く異なるそこにこそある。


【続くかもしれない】