展評

ここ数年、しばしば某SNSで「展評めいたもの」を書いてきた。また別のサイトでも「展評めいたもの」を書いてきた。しかし今後、「展評めいたもの(以下「展評」)」はここに集約させる事にする。

これまでに書いてきた「展評」は、どちらかと言えば「無名」の作家のものが多い。但し「有名」な作家のものも書かなかった訳ではない。「準有名」「凖無名」を含め、その時々に「観た」もので「気になる」ものをピックアップしてきた。

或る意味で、「有名」な作家の事を普通に書けば「楽」だとは言える。その作家の情報は予め広く「共有」されており、従ってそうした記述は予め省ける様に思えたりする。

例えば、

パブロ・ピカソ(Pablo Picasso(フルネームについては後述)1881年10月25日 - 1973年4月8日)はスペインのマラガに生まれ、フランスで制作活動をした画家、素描家、彫刻家。ジョルジュ・ブラック同様、キュビスムの創始者のひとり。生涯におよそ13,500点の油絵と素描、100,000点の版画、34,000点の挿絵、300点の彫刻と陶器を制作し、最も多作な美術家であるとギネスブックに記されている。(Wikipediaより)

と一々プロフィールを説明しなくても、「ピカソ」ならば、いきなり「ピカソは…」と詳細な説明抜きで書く事が可能だとされている。それは畢竟「あのピカソ」で済む話だ。それに対して、通常「ピカソって誰」と問う者はいない。「デュシャンは…」「ウォーホルは…」等々、「批評」文のフォーマットは、一般的に、そうした「情報」が予め「共有」されている事を前提にした書き方がされる。

しかし「無名」の作家はこうは行かない。その作家がこれまでにどういった作品を作ってきたか、ジャンルは何か、国籍はどこか、年齢は何歳か、生没年はいつか。性別は何か、出身校はどこか、所属団体はどこか、誰に師事したか、友人知人には誰がいるか、などを一々説明しなければならない。

それを説明する事によって見えてくるものは一体何だろう。例えば、展示された或る作品が、それが「男」によって作られたものか、「女」によって作られたものかで、見え方は変わってくるだろうか。20代の「若者」によって作られたものか、70代の「老人」によって作られたものかで、見え方は変わってくるだろうか。そして、「作者」や展示している「ギャラリー」が、「有名」であるか、「無名」であるかで、見え方は変わってくるだろうか。

恐らく変わってしまうのだろう。「男」と「女」の作ったものは「違う」。「若者」と「老人」が作ったものは「違う」。「人」が作ったものである限り、その「人」がどういう「属性」を持つかで、「作品」の見え方は全く異なってしまう。

本当だろうか。

これから書く「展評」は、意図的にこうした「属性」を省略する試みをする。展評の性質上、リーセントな情報を扱う事にはするが、その「展評」の対象が「有名」であるか「無名」であるかを含め、そこに存在する「作品」以外の事項は、極力排除する記述とする。

ピカソ」も「デュシャン」も「ウォーホル」も、「共有」の中で、それらについて共犯的に「判った気になっている」事が重要だ。しかし「判った気になっている」事で、見落とされている事は無いだろうか。