余裕

これは飽くまで個人的な経験則であり、従って「全ての芸術家はこうである」などと言うつもりは毛頭無い事を予め断っておく。とは言うものの、個人的にはそういうケースを見聞する事が、決して少なくはないというのもまた確かなのではある。

「芸術は心の余裕によって生まれる」

けだし名言であり、もしかすると(「けだし」の別意)名言であり、ひょっとして(「けだし」の別意)名言であり、おおよそ(「けだし」の別意)名言であるが故に、それは幾つも形を変えたヴァリエーションが存在する。「芸術」と「心」と「余裕」を適当に組み合わせれば、以下の様な名言の数々が出来上がる。

「心に余裕が無ければ芸術は楽しめない」
「芸術を大事にする心の余裕を持ちたい」
「芸術に触れれば心に余裕が出来る」
「芸術に日常的に親しんでいるヨーロッパ人には心の余裕がある」

些か予断的であり、先験的概念にも思える「心の余裕」は、「芸術」の存在によって、初めて「獲得」されるものらしい。そして恰も「心の余裕」を「獲得」するには、「芸術」以外の方途は、全く無さそうにも解釈出来る。或いは「芸術」によって得られた「心の余裕」と、他の方法によって得られた「心の余裕」には、大きな差があるのかもしれない。当然「芸術」によって得られた「心の余裕」が、「最上位」であるのは言を俟たない(のか?)。

兎に角「心の余裕」には「芸術」という「処方」が、効果的に「効く」との事だ。まるで「薬事法」に引っ掛かりそうな言い方ではあるが、それが「プラセボ」でも「ファルマコン」でも何でも、往々にして「芸術」は、「心の余裕」とやらに「効けば官軍」である。

それはさておき、仮に「芸術」が「心の余裕」に「効く」としても、それを作っている人間には、例外的に余り「効かない」様にも思えたりする。「芸術」を作るのに「懊悩」し、「苦しむ」芸術家というイメージは、比較的広く共有されているだろうし、寧ろ「芸術家」は、斯くあるべし的に、「懊悩」し「苦しむ」芸術家像こそを、「世間様」や、それをベースにした「芸術」の世界から望まれたりもする。

「芸術家」は「一般人」よりも遥かに多く、日常的に「芸術」に囲まれているのに、「芸術家」には例外的に、自らの「心の余裕」に「芸術」は「効かない」し、そもそも「効いてはならない」のかもしれない。「私ぃ、自分の作る作品でぇ、常に心が満たされていてぇ、だからぁ、いつでもぉ、心の余裕がありま〜っす」みたいな「芸術家」がいたら、「てめえはそれだから『芸術家』として甘っちょろいってんだよ」などと言われるに決まっているだろう。「甘っちょろい」は観客にとって「善」であり、芸術家にとって「悪」である。ひとり「芸術家」のみが、「心の余裕」を許されていないのが、「芸術」という「特殊な活動」なのかもしれない。

そうした「不幸」だか「宿命」だかを持ち合わせている「芸術家」の、「展覧会」前の「生態」は、只々「剣呑」である(経験則)。多くの「芸術家」は、「展覧会」を前に、極端に視野が狭くなる。「自分の事」しか見えなくなる。カリカリし始める。つっけんどんになる。我儘になる。自分の「芸術」を阻害する要因に対して、矢鱈に噛み付き始める。結果「心の余裕」は失われる。(以上経験則)。要するに「展覧会」を前にした「芸術家」には、不用意に近づいてはならないという事だ。それが「心の余裕」の「生産現場」の実態である(経験則)。しかしそれはまた有り得べき「芸術家像」として、広く「世間様」から望まれているイメージに合致してしまったりするのではある。

「芸術家」は、「心の余裕」に「効く」という「効能」を込めた自らの「芸術」が、唯一「効かない」特異体質を持つ。しかしそれは、本当に特異体質なのだろうか。