無声電視

海外に行くと、多くの場合、現地のテレビを面白く見ることが出来る。言葉が通じないからだ。異邦人である自分にとって、付けっぱなしのテレビの中の人物たちは、意味なく笑い、意味なく怒り、意味なく泣く。何が視聴者の購買欲を喚起するのかが全く判らない商品が、刺激的映像と共に「魅力的」に映し出される。見知らぬ土地の、見知らぬ悲喜劇を映すテレビは、物理的な音波を発しているにも関わらず無音に近い。

日本にいて時々行う遊びは、テレビを無音にして、ダラダラと付けっぱなしにする事である。最初のうちは、画面の中で繰り広げられている事態の意味が解ってしまうだけに、それは只の「音声が消された番組」としてしか認識されないが、やがてステレオグラムが立体物に見えてくる様に、認識の転換が起きる瞬間が訪れる。

あ、どこかのアジア人が画面の中で大騒ぎしている。

こうなれば、遊びは半分成功したも同然だ。視線はアジアの某国を旅する旅行者のそれになる。新しい年を翌日に控えた薄ら寒いステージの、余りセンスが良いとは言えない電飾装置煌めく舞台装置の前で、光り物とフェイクファーの衣装を着た、恐らくこの国では広く名が知られていると思しき歌手が歌っている。歌への情感の込め方が極めてアジア的だ。民族衣装を着た、やはりこの国で有名であると思しき人物が、一言二言何かを言っている。ステージの上では訓練された多数の踊り子が舞っている。歌う、舞う、歌う、手を叩く、歌う、舞う、手を叩く。

休日の夕方。テストパターンのカラーチャートの様にカラフルな民族衣装に身を包んで、床に座り込んだ男達が、厚紙に何か文字を書き付けている。それをカメラに向かって見せると、会場内にいる者達は、引っ繰り返りそうになって笑っている。大きく手を叩きながら、笑う者もいる。他の男が、やはり文字を書き付けた厚紙をカメラ側に向けて一言言うと、別の男が寄ってきて厚紙を取り上げ、その厚紙で書き付けた男の頭を殴っている。会場内は、またもや引っ繰り返りそうになりながら大笑いしている。書く、喋る、笑う、書く、喋る、笑う、書く、喋る、殴る。どのチャンネルを回しても、同様の映像が流れる事から想像すると、この国では、こうした事が日常的に行われているのだろう。

平日の昼時。スタジオの照明が眩しいのか、スタジオ内でサングラスを掛けた男がにやついている。このサングラスは如何なる意味を持つのだろう。サングラスの男の傍らに若い女がいる。サングラスの男は立ち上がり、スタジオ内に設置された不思議な形の、エキゾチックな人造花をあしらったトレリスに垂れ下がった布や、フラワーアレンジメントに刺さった木札に書かれた文字を読み上げている。恐らくこの花の装飾品は、この国の人間にとっては、極めて重要な意味を持つのだろう。例えばこのフラワーアレンジメントの木札が抜き取られたり、花の装飾品が第三者によって無下に捨てられたりすれば、それはこの国の人間にとっては、極めて大問題の様に思われたりもするのだと想像される。

結局、人倫とは習俗の範囲内に止まるものだと思われる一方で、しかしその習俗は、その共同幻想を共有する者にとっては極めて重要である。しかしそれは、この遊びでは批判の対象にはならない。単にそれはエスノメソドロジーの対象なのだ。

それにしても、この不思議な某国のテレビ番組は、一部を除いて、テンションが全て同じであるのが不思議だ。

2006年1月5日に書かれたものに加筆修正。