30年分

承前

今から30年前の神田には「三州屋」という一杯飲み屋があったが、今でもそれは当時と変わらない佇まいで存在している様だ。

神田画廊街の展覧会初日は大抵月曜日だったが、その二次会、三次会は、この「三州屋」に雪崩れ込むというケースが多かった様に記憶する。毎週月曜日の神田「三州屋」は、20代から30代の若い「芸術家」や「評論家」が集まり、「芸術論」などを戦わせていたりした。そして酒精と共に、酒席では重要そうに思えた「芸術論」もまた、毎週毎週、飲み屋の会計と共に揮発していった。

当時の「三州屋」の二次会、三次会での「芸術論」の根底にあったのは、時代的に言って「フランス現代思想」紛いだったり、或いは「現象論」紛いだったり、はたまた「ハイデガー」紛いだったり、場合によっては「廣松渉」紛いだったりしたが、いずれにせよ、その「紛い」で「紛われた」議論の先には、「周囲」の「美術」に対する「無理解」に対する「嘆き」や「憤り」があり、その先には「美術を社会に根付かせる」や「美術を社会に開く」等という「思い」が常に存在していた。時には御丁寧にも、ウンベルト・エーコの「開かれた作品」なんかを読んだりする御仁も現れたりしたものの、しかしその「開く」と、この「開く」は、「論理階梯」的に違っていたりもするのだが、それでもその二つの「開く」は、どこかで一つに重なる筈だという漠然とした信憑もどこかにあった。

「美術」を「社会」に開けば、開く事にさえ成功すれば、その時「社会」は「美術」を欲して止まないに相違ない。「美術」に対する「無理解」も氷解するに違いない。毎週毎週、呑み会のエンディングにはそうした「シンプル」な結論になり、そこで希望の光を見た気分になって大団円。明けても暮れても、展覧会の二次会、三次会で、その「夢」は語られ続けた。

爾来30年余り、毎週の様に展覧会の二次会、三次会は日本中のあちらこちらで行われ、毎週の様に美術関係者は「周囲」の「無理解」に「嘆き」、時に「憤り」、毎週の様に「美術を社会に根付かせる」や「美術を社会に開く」が無数に語られた。

兎にも角にも30年だ。その30年分の「根付かせる」や「開く」の試みの重畳で、「美術」が「社会に根付き」、「社会に開かれた」事だろうと思いたい。しかし依然として、「美術を社会に根付かせる」や「美術を社会に開く」が、「美術」の「最重要課題」であり続けているのも確かだ。

そして今日もまた、「美術を社会に根付かせる」や「美術を社会に開く」の試みが、あちらこちらで行われている。次の30年後には、それが少しでも実を結び、「美術」がすっかり「社会に根付き」、「社会に開かれた」存在になっているだろうか。或いは「美術を社会に根付かせる」や「美術を社会に開く」という設問それ自体が、どこかで問題を孕んでいるのだろうか。