神田

今は昔。それは今から30年近く前の80年代初頭に遡る。

当時の東京の現代美術シーンの「中心」の一つは、まだ辛うじて「神田」に存在していたと言える。言うまでもなく、その理由の一つは、戦後の日本現代美術界の「巨人」の一人としてカウントされるだろう「山岸信郎」氏の「田村画廊(後、真木画廊、(新)田村画廊、駒井画廊)」が存在したからだ。

当時の現代美術界は既に「銀座」にも「中心」が存在したが、「神田」は、「エスタブリッシュメント」な「銀座」に対向する形で、「アンチエスタブリッシュメント」「カウンターエスタブリッシュメント」的な位置付けにあったと言って良いだろう。確かにそれは、当時の「体制/反体制」の「美しい」構図の中にあった。「アヴァンギャルド」が、そこでは「美しく」展開されていた。

「神田」が「アンチエスタブリッシュメント」であった所以は、その「画廊街」が「貸画廊」ベースであったという事が大きい。「貸画廊」及び「ノンプロフィット」の功罪を問う際に、しばしば60年代から80年代に掛けての「神田」が引き合いに出されるのも、戦後の日本現代美術(「日本・現代・美術」の意味も含め)の或る時期に、それが果たしてきた役割というものを無視し得ないからだ。

現在、「山岸信郎」氏や「田村画廊」についての記述はネット上で驚く程少ない。「山岸信郎」でググッても、単純に280件(2010年6月15日現在)しかヒットしない。ヒットしたとしても、ネット上での「山岸信郎」は、ひたすら懐旧的存在であり、「美術手帖」という紙媒体上でも、当時からその登場回数は驚く程少ない。「田村画廊」や「山岸信郎」氏、そして当時の「神田」がどの様な存在であったのかは、特に2008年11月4日の山岸信郎氏逝去の際に、幾つか書かれている。しかし「その時」が来なければ、これらは書かれなかったかもしれない。

http://hikosaka.blog.so-net.ne.jp/2008-11-06-1
http://41jigen.blog12.fc2.com/blog-date-200711.html
http://members.jcom.home.ne.jp/martokio/intro/info/info_2008_3.html
http://dazro.cocolog-nifty.com/oob/2008/11/post-33a1.html
http://www.araiart.jp/maki.html

これらのブログ等の記述をまとめてみれば、「田村画廊」は「1960年代後半に神田にオープン。やがて『もの派』の拠点画廊となり、1970年代日本現代美術の一翼を担う。1970年代後半には川俣正氏等が個展を行い、80年代にはニューウェイブと呼ばれる作家が個展を行う。また、後に多くの作家、評論家となる人々を画廊番として雇う」という事になるだろうか。上掲ブログにある様に、「田村画廊があったから、もの派が大きくなったと言っても良いほどの力を示した画廊(彦坂尚嘉氏)」ではあった。「もの派」を戦後の日本現代美術の一大エポックとするならば、その意味で「田村画廊」もまた戦後の日本現代美術の一大エポックとしても良いだろう。「田村画廊」は、80年代の初頭までは、現代美術家を志す若者にとって、そこで発表するか否かは別にして、一種の通過儀礼的な役割を果たしていたと言っても過言ではない。

これらの懐旧譚にある様に、確かにそこは、「床がコンクリートの打ちっぱなしで、何でも、どうでもできたところが、もの派には良かったと言えるのではなかったろうか(彦坂尚嘉氏)」「ある時は、画廊の床のコンクリートが道路工事のカッターで穴を開けられていたり、いつでもまさに「反芸術」の見慣れないものが並べられ、近所の公園ではパフォーマンスが行われていたり、様々なものを体験した(沖啓介氏)」といった、一種の「反芸術」の「解放区」として機能していた。空中分解した読売アンデパンダンの受け皿と言う性格もあっただろう。

やがてコンクリート打ちっ放しの床を持つ「田村画廊」は閉まり、その後オープンした真木画廊、(新)田村画廊、駒井画廊のいずれもが、Pタイルの床を持つ展示空間を持っていたから、流石に「床に穴を開ける」までの「アヴァンギャルド」「反芸術」な展覧会は難しくなったが、それでも「東京画廊」等の、当時の「プロフィット」な画廊に比べ、「実験」的な展示が可能であった事は確かだ。

山岸信郎氏の画廊を、半ば象徴的な「中心」として、その周囲には、衛星的とも言える形で幾つかのギャラリーが存在していた。「ときわ画廊」「画廊パレルゴン」「Studio 4F」。少し遅れて江戸通り沿いに「秋山画廊」がオープンするが、ここは「神田」にあっては、例外的に「エスタブリッシュメント」の側に属していた。

いずれにせよ、「美しい」と形容されもしよう、最良/最悪の「反芸術」の場である「神田」には、美大生を始めとする20代、30代の「若者」達が群れ集っていた。上掲沖啓介氏のブログから引用する。

以下引用

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画廊まわりは、わくわくして毎週楽しみだった。あんなにわくわくしながら画廊をまわっていたのは、その後、世界の様々なところに住んだり、訪れたりしたが、滅多にない経験だったと思う。(略)

画廊では、先輩にあたるアーティストたちの会話を横で聞いていて、そこには学校では学べないことが山のようにあった。「構造主義」もここで知った。熱い話は、画廊から神田の安い飲み屋に移ってさらに議論が続いた。同年代の現代美術をやっている学生たちとも知りあった、多摩美以外には、日大芸術学部や Bゼミの学生が多かったし、東京芸大美学校の学生とも知りあった。
画廊で出していた「展評」という印刷物は、B6紙サイズほどの小さなものだったが、そこではアーティストたちがお互いの作品を批評しあっていた。そしてその展評の内容でまたお互いに論争したりもしていた。

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引用終わり

「画廊」から「神田の安い飲み屋」へ。そこで交わされる「議論」。1970年代から1980年代当時に ustreme があれば、確実にこの「神田の安い飲み屋」から「議論」を「世界中」に中継していただろう。それらの「議論」の殆どは、1970年代から1980年代に掛けて、その時代のアルコールと共にグダグダに揮発してしまったが、今ならそれが「残る」。「残って」しまう。

【続く】