どっちの絵画


数年前、某地方都市の或る施設の内装に関わった。その内装工事の最終日に大量の油絵が搬入されてきた。聞けば中国製だという。

「設計が、直接中国に買い付けに行くんよ。えらく、安いらしいで。ウチなんかもう、小物ばっかりで商売にならんわ」

現場の「たけちゃん」はそう言って溜息をついた。

メイドインチャイナの油絵を見てみると、なかなかどうして上手い。鵜の目鷹の目で観察すれば勿論粗はある。粗はあるが、それを描けるかと言われれば、描けるかもしれないという可能性の範囲でしか答えられない。17世紀に大量生産されたオランダ絵画はこんな感じだったのだろうか。

これに似た中国製のものを、知り合いの石彫家のアトリエで見たことがあり、それは石彫であったが、高さ40センチくらいの御影石製の観音像だった。かなり細かいところまで掘られていて、あともう少しでポッキリと折れてしまいそうな箇所もある。

「幾らだと思います?」

こういう質問の場合は、その安さにビックリという展開になると決まっているので、思いっきり

「5千円」

と答えたらズバリ賞だった。

「もう太刀打ち出来ないですよね」

自分の制作以外に、石彫品を売って生計を立てるような、こういう人にはきつい話であろうかと思う。

いずれにしても、ここでいつも困るのは、このようなものに対して、どのように接して良いのか判らないという事だ。

「これは芸術とは違う」

或る意味で王道の回答である。この回答を元に、オリジナリティだの、歴史の必然性だの、新しい表現や認識の扉を開くだの何だのとそれ風に緻密風に見える様に作り込んでいけば、何となく一端に芸術風の理由付けが出来るかもしれない。いや、むしろそんな「風」だけが、芸術が芸術であるたった一つの極めて脆弱な拠り所なのだろう。

ただし芸術でない事によって、何故マイナスイメージを付加されがちになるのかという質問には、ガードが下がる。ラジオの全国子供電話相談室か何かで、子供にこんな質問をされたら、答えに四苦八苦するのは確実だ。恐らくそこでは「芸術であるが故に芸術である」のバリエーション的なトートロジーしか出てこない筈だ。

結局、満足な答えを自分自身に用意出来ぬまま、芸術なんだか芸術じゃないんだかが不確定な絵画の前で、再び問題を先送りする私が、そこにはいるのだ。

(2005年9月7日初出の文章に加筆修正)