セラの環

1978年5月、昼下がりの多摩美術大学上野毛キャンパスL棟(現2号館)の一室に、数人の大学院生が集まっていた。学生達が囲むテーブルの上には、発売されたばかりの美術手帖が置かれていた。その中で彼らの関心を引いたのは、「アートランダム」という小さなコラム記事(注1)だった。

「セラさん環が身を覚えていますか」と題されたその記事には、今も日本の現代美術史の一大トピックとして語り続けられている「第10回東京ビエンナーレ」(1970年)に出品されていた、ある作品の現状が書かれていた。リチャード・セラが東京都立美術館前の歩道に埋設した、L字鋼による環状の作品「環で囲む(注2)」。記事はセラの環が、上野公園整備事業の際に掘り起こされて行き場を失い、公園内の一角に放置されている実態を伝えていた。

学生達は、「文化遺産」がこのような形で取り扱われる事に単純に憤慨する一方で、ある不思議な事実に気付いた。「身元保証人もない」とは、この作品がどこにも所属していないという事ではないのか。疑問が一瞬頭に浮かんだものの、次の瞬間には楽観的な結論に至り着いた。

「誰かが何とかするだろう」。

学生達がこの一件について再び会合を持ったのは、記事掲載から半年後。既に季節は冬になっていた。しかしこの半年間、都美術館、主催した新聞社や美術団体、キュレーター、美術手帖を始めとする美術メディア、その他作家や評論家や取り扱いギャラリーなども含め、およそ美術関係者がこの作品の現状に対して行動を起こした気配は全く感じられなかった。セラの環は相変わらず上野の山に放置されたままだった。

「見捨てられたものならば持って来てしまおう」。誰かがそう言った。

上野東照宮、お化け灯籠の傍らで、それは水銀灯に照らされていた。掘り起こされ、すべてが露出した鉄の環は、聖性を剥ぎ取られたただの廃材だった。無用なトラブルを避けるため、搬出作業は夜陰に乗じて行われた。

問題が起きた。借りてきた2トントラックの荷台は、作品を載せるには小さ過ぎたのである。半円状の弧をつなぎ合わせたジョイント部分は、当て板を挟んでボルトで止められていたが、錆び付いていてそれを外す事は不可能だった。当て板を切断して二分割する事が、搬出の唯一の方法になった。切断する事によって、この作品の価値が損なわれるかどうかの議論が起きたものの、学生達はこの作品の価値が、伝統的価値観にはないという結論を取り敢えず出した。夜明けまでの時間は迫っていた。

一枚目の当て板を切り終えた時、空は白み始め、鳥の鳴き声が聞こえてきた。そして二枚目の半分ほどまで鉄鋸が入った時、背後から声がした。

「あんたたち、何してるの」。

公園管理事務所の一室で、学生達は事情聴取を受けていた。鉄の環の処分準備が進み、改めて数日後に夢の島送りになる事を知った学生達は、この環が都美術館開催の展覧会に出品された著名な美術家の作品である事、そして現状が好転する見込みがないのなら、他所に移送して保存したい旨を伝えた。職員は移送の確認を取るため都美術館に電話したが、「そんな物は知らない」というのが美術館の答えだった。だが彼らが知らないと言うのも無理はなかった。元々セラ自身が、都美術館からその敷地内に埋設する事を拒否され、公園の歩道に設置せざるを得なかった作品だったからだ。環の運命が再び消えかけたその時、部屋に入ってきた年配の職員が言った。

「あれは確か・・東京博覧会の時に、外人が捨ててったんだよ。あんたたち、その外人知ってるんだったら連絡取ってよ。OKが出たら持ってっていいからさ。それまでは遺失物扱いで保管しておくよ」。

1979年春。「外人」から送られてきた委任状を手にした学生達によって搬出された「上野公園のゴミ」は、多摩美術大学上野毛校舎に隣接する土地へと運ばれた。切断面を溶接して再び地面に埋められ、ひっそりと「セラの作品」は蘇った。


“Richard Serra/sculpture" : Rosalind E Krauss : The Museum of Modern Art 1986

「美術界」がその事実を知るのはそれから半年後、「80年代美術」への期待感を煽っていた美術手帖の小さな記事(注3)によってだった。鉄の環が忽然と上野の山から消えた事に、誰一人として気付かない時代が始まろうとしていた。

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(注1)記事全文
"▼お元気ですかセラさん。私は今から八年前、第十回東京ビエンナーレの時、会場となった上野は都美術館の前の公園に埋められた鉄の環です。私は「人知れず某地から上野公園に移植された樹木、あるいは、美術館の裏地に組まれた木材(本誌一月号一八八頁参照)」共々、当時あなたの「行為の過程をおのずから表わすはずのものである。いいかえれば、作品から逆に行為の過程がとりだされる」こととして人知れず、また知る人ぞ知って評判になったものです。当時の都美術館も今は消え、私の周囲の景色も大部変わってきました。
▼去年までひっそりと地面の中に生きてきた私でしたが、この冬の終わりごろ、私の身に突然ただならぬことが起こりました。公園整備という名のもとに、私は地面から強制撤去されたのです。工事関係の人は「何だ大砲の部品か、ぶちこわして、どっかへうっちゃっとけや」と、異様な姿の私、一時は夢の島送りになるのかと思いました。と、そこへ通りかかった美校生一人、私がここに生きていることなどもうとうに忘れられた世の中に現われ、「待った待った、これはセラという美術家が八年前心こめて作った作品なのだ。由緒あるものなのだ。皆の衆」と声をかけてくれたのです。公園事務所にもかけあったくれましたが、さてさて当局においては、私の姿を見て周囲の美術館に登場する作品とはおよそ姿形がちがうので、扱いに途方にくれたのでございます。
▼私は地面をはぎとられた「上野の白ウサギ」、いや当時はきれいな肌をしていた私でも、今はもう戦中の物と思われるくらいサビがきて、「なんだ鉄の環ッパか。いまは鉄を売っても安いからなあー。クズはクズじゃない」との声もしきり。だがこの世は人あって人情あり。渡る世に環もあり。上野のお山の公園に、動物園の近くです、東照宮の土地がございます。そこは「お化け灯籠」といわれる大きな燈籠さんがデンと鎮座まします。この方こそ由緒ある方。とにかく金網で囲まれている所なので、そこへ保管?保存?住所不定身元保証人もないまま居候させていただくことになりました。
▼春の陽射しのなか、花々は満開、日なたぼっこにはうってつけの日日ですが、やはり地面のなかが恋しくなります。お化け灯籠さんは親切に「あんたはやっぱり都美術館宅へ行った方がいいんじゃない。このままだと、どっかの環好きの人があんたをつれてっちゃうぜ」と忠告してくれます。私も八年間くらした上野のお山を離れたくない思いです。あの七〇年のとき、あなたが作った私の兄弟たちのうち、「移植された樹木」はわんぱくでもたくましく育ち、「裏地に組まれた木材」はどこへいったんでしょうね。お父さん。私もお化けのような中途半端な姿でいつまで生きていけるのでしょうか。" 「美術手帖」1978年6月号 p34〜35

(注2)「環で囲む」というタイトルは当時の「美術手帖」誌上で使用されていたものであり、正式なタイトルは " To Encircle Base Plate Hexagram, Right Angles Inverted(「反転し合う直角、ヘクサグラムの基礎板を取り囲むために」多摩美術大学のプレート訳に従う)"である。

(注3)記事全文
" ▼一九七〇年の東京ビエンナーレのおりに上野・都美術館前の公園に埋められ、その後七八年に公園整備の名のもとに掘り起こされ東照宮「お化け灯籠」の傍に仮り住まいの身となっていた、リチャード・セラの鉄の環(本誌七八年六月号三十四頁参照)は、東京・上野毛多摩美術大学構内に落ち着くことになった。
▼読者の方からいただいた便りによると、「セラが日本に残してくれた文化遺産を、このまま徒に錆びるにまかせるのはあまりに無念」と同大学院生有志が、ニューヨークのレオ・カステリ画廊気付でセラに手紙を出したところ、移転の許可とそのためのメモが送られて来たということである。当時の都美術館の建物も既になく、今また鉄の環も上野の森を去ることになり、あれから十年、ひとつの高揚は確実に変わりつつあるようだ。「人間と物質」との友情に支えられ、セラの鉄の環は人影少ない上野毛のキャンパスで果して何を思うのか。淋しがりやじゃなければよいが……。”「美術手帖」1980年1月号

(2002年初出ーー「タマビ新聞」ーーの文章に加筆修正。尚、トップの画像は当時の記憶に基づくデジタル合成)