不純物と免疫 04

手にしている「不純物と免疫」展の「カタログ 01」の文中の作家紹介の件には、「谷中祐輔は彫刻家」と書かれている。こう書かれたものを目にすると、無意識の内に「彫刻家」である「谷中祐輔」氏によって作られた「何やら壁から張り出したもの」を、「彫刻」として見なければならない気にさせられる「病」(注1)に陥りもする。

(注1)その「病」の「症例」には、「画家」として認識されている「フランク・ステラ」の、「エキゾチック・バード」、「インディアン・バード」、「サーキット」等のシリーズを、「絵画」として読み取らなければならない気にさせられてしまうというものもある。

仮にその「何やら壁から張り出したもの」が、一般的な「彫刻」の概念を逸脱したものに見えたとして、我々はしばしばそれを「新しい彫刻」や「彫刻の可能性」等といった視点で理解しようと試みたりする。しかし「彫刻家」が作るもの全てが「彫刻」である必要は無いという考え方もまた可能ではあるのだ。

先の「谷中祐輔は彫刻家」は、実際には「谷中祐輔は彫刻家であり、彼は世界を彫刻的思考実践から確かめていこうとする」というセンテンスの一部になる。もしかしたらここで書かれている「彫刻家」は「彫刻的思考実践家」の略なのかもしれない。そう考えれば、ここにあるものは所謂「彫刻」ではなく「彫刻的思考実践」の結果という事になる。

ところで「彫刻家」という語にも付されている接尾語「家(か)」は、三省堂大辞林では「一つの領域を専門とする人」とされている。中国思想由来の日本語である「家(か)」は、日本の「近代」化以降に於いてはしばしば西洋近代思想由来の「人称の内包」的な「人格」に結び付けられる事が多い。日本の近代化と共に登場した日本語=「彫刻家」と呼ばれる「日本(=中国)・近代・美術」に於ける「才能」は、常に「彫刻家」の「身体」のスケールに収められた、専有的「人称」へと結び付けられる。

「不純物と免疫(impurity / immunity)」展のタイトルに引かれたロベルト・エスポジトによる著作の一つ、「三人称の哲学 生の政治と非人称の思想」(“Terza persona. Politica della vita e filosofia dell'impersonale")の最後にはこう書かれている。

それは生きているペルソナである。つまりそれは、生から分離されていたり、生のなかに据えられていたりするものではなく、形と力とが、外部と内部とが、ビオスとゾーエーとが不可分となった結合体[σύνολον](注2)としての生と一致するものなのだ。そして三人称という、いまだ未確認の形象は、この唯一のもの[unicum]へと、この単数にして複数への存在へと――人格に書き込まれた非人格へと、いまだかつて存在したことがないものに開かれた人格へと――送り返すのである。(岡田温司訳)


Esso è la persona vivente – non separata dalla, o impiantata nella, vita, ma coincidente con essa come sinolo inscindibile di forma e di forza, di esterno e d’interno, di ‘bíos’ e di ‘zoè’. A questo ‘unicum’, a questo essere singolare e plurale, rimanda la figura, ancora insondata, della terza persona – alla non-persona inscritta nella persona, alla persona aperta a ciò che non è mai ancora stata. (pp. 183-184).

(注2)σύνολον【希】シノロン。アリストテレス形而上学」(Τὰ μετὰ τὰ φυσικά)にその語は出現する(例:第7巻 第10章 1035b [20]~[30])。因みに日本に於ける「アリストテレス形而上学」の事実上の決定版の一つになっている岩波文庫出隆訳の底本となっているのは、――出隆自身の表現を借りれば―― William David Ross による「英訳」=「注解付原典」である。

参考:「注解」の無い「コンパクト」なオリジナル「原典」(古希)の第7巻

ここから直接「岩波訳」にするのは、結構アクロバティックな仕事になる。

先に引いたセンテンス中の「谷中祐輔は彫刻家」に於ける「彫刻家」は、恐らくはその様な「人称」と分かち難く結び付いた、或いは「人称」を前提に成立するところの、一般に流布している所謂「彫刻家」とは異なるものである事に注意しなければならないだろう。それは「彫刻家」という「仮面(maschera)」が、「人称」を超える「法則」的な「彫刻的思考実践」という「非人称」的な技術によって、取り替え可能である事を意味しているのではないか。「仮面は、ペルソナであるからといって、その仮面を被った者の顔に必ずしも固着していなければならないわけではなく、他人の顔であっても覆うことができる」(エスポジト同書)(注3)。「彫刻家/谷中祐輔」はそうした「仮面」の名称の一つだ。しかしそこには常に「他人の顔」も存在しているのである。

(注3)原文:“Non soltanto, per essere persona, la maschera non deve necessariamente aderire al volto di chi l'indossa, ma può ricoprire anche il volto di un altro." Roberto Esposito, Terza persona. Politica della vita e filosofia dell'impersonale, Einaudi, Torino 2007, p. 104.

目の前で「鯨油」を「徳川」の「御城」に塗りたくっているのは果たして「誰」なのだろう。そうした「実践」が、世界中で「彫刻家/谷中祐輔」氏のみ可能なものでないとするならば、この「パフォーマンス」を見ている我々は、「誰」の前にいる「誰」なのだろうか。

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#ターン5

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谷中雄輔氏の「何やら壁から張り出したもの」を右手に見て次のゲートを潜ると、そこはそれまでよりも相対的に「明るい」部屋だった。

有孔ボードの「壁」の様な「遮蔽物」――有孔ボードのベニア版の褐色や、黒いゴム風船やスポンジマットも光を吸引している――が無く、見通しの良い開けた白い空間という事もあるのだろう。しかしその「明るさ」は、それだけの理由によるものではない様に思えた。

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谷中祐輔氏越しに見える迎絵理子氏のその後ろに窓がある。そこから展示室に外光が入っている。微笑する。そして真っ先に「窓」へ向かう。ヘッドホンの中の解説が、写真でしか知らない村上三郎の「紙破り」のハトロン紙の様に次々に破れて行く。「窓」から雨混じりの外の景色が見える。「全国民を代表する選挙された議員」(日本国憲法第43条)候補の選挙ポスターの前を、傘を指した人が歩いている。彼方此方のビルの窓越しに、道路の上に、様々な人の姿が確認出来る。大学、水道局、病院、工事現場、タクシー、配送車、ホッパー車……。彼等は互いに接点が無さそうに見えるものの、それでも――そしてここにいる自分も――互いに関係の中にある。そこで深呼吸をした。

このキュレーターによってこれまでに手掛けられた展覧会の多くに、展覧会に開けられた「窓」(「吹き抜け」や「屋上」含む)の存在があった。2013年に行われた「ハルトシュラ」に始まる「荒木みどりM←→mヨシダミノル」「躱す」「やわらかな脊椎」といった大阪CASに於ける一連の企画展。「MOBILIS IN MOBILI-交錯する現在-」の東京巡回展(Gallery MoMo Projects, CASHI)と金沢巡回展(問屋町スタジオ)(注4)。「Celsius」(CASHI)、「OBJECTS IN MIRROR ARE CLOSER THAN THEY APPEAR」(the three konohana:大阪)、「パレ・ド・キョート / 現実のたてる音」(ARTZONE & VOXビル)、「クロニクル、クロニクル!」(クリエイティブセンター大阪:大阪)(注5)等々。

(注4)「MOBILIS IN MOBILI-交錯する現在-」大阪展(コーポ北加賀屋:大阪)の川村元紀氏のエリアを、外に開かれた空間と見る事も出来る。その一方で、同展では2階の「窓」は塞がれていた。

(注5)「窓」の無い「クローズド」な空間で行われていたものは、「無人島にて──『80年代』の彫刻/立体/インスタレーション」(京都造形芸術大学 ギャルリ・オーブ:京都)、「すくなくともいまは、目の前の街が利用するためにある」(waitingroom:東京)等になる。

仮にそれらの展覧会が「クローズド」な空間で行われていたとしたら、それらは多少なりとも異なった印象を伴ったものになっただろう。これらの「窓」の全てが、キュレーターの展示技術的な計算の内にあったものかどうかは判らないが、少なくともこの「不純物と免疫」(impurity / immunity)と題された展覧会に於いては、「窓」の存在は不可欠なものである様な印象を持った。

再度エスポジトの「三人称の哲学」から、監訳者岡田温司氏の「あとがき」を引く。

自律的で自由なものとみなされてきた近代的な主体は、それにもかかわらず、「主体」(イタリア語のソッジェットであれ、フランス語のシュジェであれ、英語のサブジェクトであれ)という語がまさしく暗示しているように、それ自体、肉体の精神への従属関係を前提としているのであり、その限りにおいて、単一の生は分裂したままにとどまるからである。かくしてこの「主体」は「主権」の政治的カテゴリーとも接点を持つことになる。

 さらに意外なことに、一見したところ正反対のようにみえる政治や思想、たとえば徹底して人格を破壊してきたナチズムの生政治=死政治と、逆に人格を金科玉条のように祭り上げる自由主義の人格尊重とが、実は同じような前提――生きるに値する生、生の生産的管理など――を共有している点にも、エスポジトはわたしたちの注意を喚起している。生物学や人類学、言語学社会学など、さまざまな観点から人間を解明しようとしてきた近代の諸科学を根底で突き動かしてきたもの、それがこの「ペルソナ」の装置であり、ナチズムとリベラリズムは、同じ装置によってもたらされた、たがいの反転像にほかならないのである。

閉じられた部屋に穿たれた「窓」は、「他者」の存在をリアルに感じさせてくれる装置の一つだ(注6)。「不純物と免疫」は、6個の「人称」による活動成果のみを見る展覧会ではない。6個の「人称」の成果物を見て、息を浅くしたり、速くしたり、息を呑んだりする展覧会ではない。観者自身が立っている場所の座標を感じつつ、他の諸々のもの――横軸にも縦軸にも――との関係の形式の構築に思いを至らせつつ、深呼吸で終わる書物の様に、深呼吸で終わる展覧会なのだ。

(注6)同展の「沖縄」展(BARRAK 1)は「東京」展の「窓」として働き、「東京」展は「沖縄」展の「窓」として働く。そして実際に「沖縄」展の会場にも「窓」は存在していた。

「窓」を背にして「帰路」につく者の目で白い部屋を見る。「窓」から見えていたものの様に、そこにあるものが見えて来る。感情は更に穏やかになる。

「カタログ 01」には「本展の作家たちの実践は、自己免疫化した時代において、なおも不純物たろうとする態度の形式なのである。」(注7)と書かれていた。この一文で重要なのは「なおも不純物たろうとする」という箇所と「態度の形式」という箇所だろう。

(注7)公式サイトでは「本展の作家たちの実践は、自己免疫化した時代において、なおも「不純物」たろうとする態度の形式なのである。」と「不純物」が括弧に入れられていた。

事実的な存在として「不純物」であるのは、「本展の作家たち」に限らない。敢えて言えば、「不純物」という在り方は、全ての者に事実的に「備わって」いる。と言うのも、全ての者は、何かから何らかの形で「排除」されている存在であるが故に、「不純物」は一般的な属性だからだ(注8)。その上で「本展の作家たち」がその様な事実的な平面から「突出」したものとして「見える」のであれば、それは彼等が「なおも不純物たろうとする」という相対的に「意志」的な存在であるのと、「態度の形式」――或いは「形式としての態度」――に生きようとする相対的に「倫理」的な存在だからだろう。

(注8)全ての者が例外無く「不純物」であるというのは、Twitter 等の SNS を見ても判る。そこでは「純粋」なポジションを取れる者は誰一人として存在しない。とは言え、SNS を離脱すれば、メタなポジションに立てるというものでもない。

嘗て “When Attitudes Become Form" という展覧会があった。そのタイトルは日本語で「態度が形になるとき」と訳されていた。確かに “Form" は「形」と訳す事も可能だ。しかしまた “Form" は「形式」と訳す事も出来る。その場合、“When Attitudes Become Form" の可能的な訳は「態度が形式になるとき」になる。個人的な「不純物と免疫」のサブタイトルとして、このフレーズが頭に浮かんだ。

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#ターン6

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「窓」を背にして見る室内の景色は、手前に「原子核の放射性崩壊が起こるメカニズム」の「安定した原子核に変化した状態」と、それに至るまでの記録映像(迎恵里子氏)、その左から正面に掛けての奥に「日本の放射化学の父/人造宝石の発明者」である「飯森里安」絡みの絵画(佐々木健氏)、そして右奥に「鯨」の「頭骨」が突き出た「鯨油」と共にある異形の「ワゴン」(谷中祐輔氏)というものだ。

優れた映画人であれば、これらの要素を重層的に絡ませた映画を撮る事が可能だろうか。化学的な「反応」の「模式」と、「飯森里安」とそれに纏わる人々――「仁科芳雄」や、「長島乙吉」や、「草鞋履きでペグマタイトを採掘する福島県石川中学校の約180人の3年生」を前に「君たちが掘った石で爆弾を作る。マッチ箱一つの大きさでニューヨークを破壊できる」と言った陸軍将校(彼等はまた「家庭人」でもある)等――と、太平洋の高緯度から低緯度まで――北アメリカ大陸(アメリカ国がある)近海から日本列島(日本国がある)近海まで――を季節毎に回遊する「ザトウクジラ」、そして「窓」外に広がっているもの等々……。

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展覧会のキュレーションとは、映画を作る様なものなのかもしれない。少なくとも「不純物と免疫」には、映画の製作現場的な雰囲気が感じられる(注9。或いはこうも思う。何故に殆どの美術の展覧会は、映画の様にならないのだろうかと。美術の「制作」は、映画の「製作」の様にならないのだろうかと。

(注9)「沖縄」巡回展は未見だが、インスタレーション・ビューを見る限り、「キャスト」や「スタッフ」の多くが共通した別の「映画」という印象がある。

映画は「〜(監督)作」という形で語られもするが、しかし「監督」がその映画の「作者」であるとは直ちに言えない。如何に「完全主義者」の「監督」であっても、それでもスタッフやキャストの差し出すもので、「監督」の「完全」は常に揺れ動く。19世紀末に登場した(映画)「監督」という近現代的な職能は、揺るがない「完全」を期待される「芸術家」としての「彫刻家」や「画家」の様な伝統的な「人格」なのではなく、それ自体が「単数にして複数への存在(a questo essere singolare e plurale)」「人格に書き込まれた非人格(alla non-persona inscritta nella persona)」「いまだかつて存在したことがないものに開かれた人格(alla persona aperta a ciò che non è mai ancora stata)」(前出「三人称の哲学」)的な存在だ。だからこそ、キャストを始めとして、スタッフ、協力者、スポンサー等という多様な「人称」が列挙される映画の「エンドロール」は、映画が三人称的なメディアである事を示す上で極めて重要なものである。

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この「不純物と免疫」に於いては、「キュレーター」は(映画)「監督」の位置にあると言えるのかもしれない。その意味で「不純物と免疫」展は「キュレーター」の「作」であると言う事も可能だ。その上で、本展に限らず「キュレーター」という存在自体が、「作家」を始めとする「キャスト」や「スタッフ」を「搾取」しているという議論は確かにあり得るだろうし、事実、本展の批判としてその様な構図に則ったものが少なからず存在するという「事情」も知っている。

しかしそうした「搾取」を巡る議論を成立可能にする立ち位置は、西洋近代的な価値こそが最上であるという時代的な信憑に基づく事で辛うじて成立する「人格」や「人称」の顕揚を前提にした、「芸術」の「伝統」でしかないものに基いているのだ。

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先程までは「谷中祐輔」氏を通して「迎絵理子」氏を見るというものだった。しかし「窓」を背にした今、それは「迎絵理子」氏の「実践」を通して「谷中祐輔」氏の「実践」を見るというものに切り替わった。キャメラの位置が入れ替わったのである。往路での伏線が次々に解消されて行くかの様な復路を辿る。

映画の観客はヒーロー映画を見終わった後に、そのヒーローに成り切って映画館を後にするという。「不純物と免疫」の観客は、何に成り切ってこの会場を出る事になるだろう。もしかしたら、それは周囲のあらゆる存在に対して少しだけ優しくなれるという事なのかもしれない。

#了